6話 尾ひれがついた噂
いつも活気に満ちた港町だが、ここ数日はことさら盛り上がっている。
それもこれも、すべてダレルが原因だ。
「オーナー、魚市場でも噂になっていましたよ」
夜の営業時間を前に、スペンサーが出勤するなり、アビゲイルへ話をふってきた。
ついに港町の端っこまで、噂が到達したようだ。
「ちなみに聞くけど、どんな尾ひれがついてたのかしら?」
「ハンサムな義弟との危険な恋とか、そんな感じでしたね」
ダレルのアビゲイルへの求婚は、あのとき店内にいた客たちによって、熱く語り継がれてしまった。
がっくりと肩を落としながら、おそるおそる懸念していたことを尋ねる。
「……私が元貴族だったのは、みんな気にならないの?」
これまで仲間だと思っていたのに、そうじゃなかったと失望されるのではないか。
しかし、スペンサーはアビゲイルの不安をたやすく払しょくする。
「そんなの、知ってますから。今さら驚きはしませんよ」
「え!? バレていたの?」
「……むしろ、なんでバレないと思ったんですか?」
やれやれ、とスペンサーはあきれ顔だ。
「黒ぶちメガネで変装したって、わざと砕けたしゃべり方をしたって、オーナーは庶民には見えませんよ」
「そうなんだ……私、なりきれていると思ってたわ」
「俺たちは港町を好きだと思っている人を、拒みませんから」
スペンサーの言葉に、ほかの従業員たちも笑顔で同意する。
ほわっとアビゲイルの胸が温かくなった。
(ここの人たちは、懐が深いのね。移住先に港町を選んで、本当によかった)
アビゲイルが感動していると、カランカランとドアベルが鳴り、今夜の一人目の客が入店する。
「いらっしゃいませ!」
しかし振り返った先にいたのは、しかめ面をしたジスランだった。
こっそり警備隊員に聞いたところ、観光客向けのホテルに長期滞在しているらしい。
アビゲイルも離婚する前に、よく連泊していたから、その利便性は知っている。
そんなジスランが『昼と夜』を訪ねてくるのは、これで二度目だ。
「あなたが義弟と、不適切な関係にあると耳にした」
アビゲイルを咎めるジスランの声音には、渋いものが含まれている。
ダレルとの噂を口実に、ロッティの親権を取り戻そうというのか。
誤解されたままなのはよくない。
「少し待っていてください。ロッティを寝かしつけたら、話をしに戻ってきます」
「乳母はいないのか?」
「お母さん同士で、子どもを預け合うことはありますが、基本的には乳母なしで育児をしています」
さらにしかめ面になったジスランを置き去りにして、さっさと三階へ上がる。
従業員の子たちと一緒に夕食をとっていたロッティが、アビゲイルに気づいて駈け寄ってきた。
「あびー! ろってぃ、のこさずたべたよ!」
「とっても偉いわ! さあ、お口の周りを拭きましょうね」
ナプキンで汚れた口元をきれいにしてやる。
面倒を見てくれていた従業員へお礼を言うと、ロッティと手を繋いで寝室へ向かう。
「今日はなんの本を読みましょうか?」
「おさかなのほんがいい! このまえは、とちゅうでねちゃったから」
歯磨きと着替えを終えると、ロッティはふわふわの布団にもぐりこむ。
夢の世界へ旅立つまで、アビゲイルが絵本の読み聞かせをするのが、毎日の習慣だった。
仕事をしているアビゲイルは、常にロッティのそばに居てやれるわけではない。
代わりにこうした触れ合いの時間を、とても大切にしている。
「ロッティはどこまで覚えてる?」
「ちいさなおさかなさんが、おおきなおさかなさんに、たたかいをいどむところ!」
「じゃあ、その続きから読むわね」
しばらくすると、もりあがった布団の中から、可愛らしい寝息が聞こえる。
昼の間、元気いっぱいに遊んでいるせいか、いつもロッティの入眠は早い。
(どうかこれからも、ロッティが笑って暮らせますように)
アビゲイルは丸いほっぺにキスをすると、そっと寝室を抜け出した。
◇◆◇◆
今夜も『昼と夜』は盛況だった。
テーブルは満席で、かろうじてカウンターが数席あいている。
そんなカウンター席の端に、ジスランはひとりで座っていた。
ちょうど、甘辛いひき肉と角切りトマトがのった薄いバゲットに噛り付いているところへ、アビゲイルは声をかける。
「ジスラン卿、お待たせしました」
「むぐ……これ、旨いな」
食べかけのバゲットを見ながら、ジスランが感想を言う。
「酒が欲しくなる味だ」
「港町には肉体労働者が多いから、味付けは濃いめにしてあるんです」
「……二杯目を頼んでくる」
ジスランは飲み干したらしいグラスを手に、席を立つ。
『昼と夜』には、ウエイターやウエイトレスがおらず、客は注文ごとにレジで支払いを済ませ、酒や軽食を受け取るシステムだ。
観光客をもてなす店とは、やや勝手が違う。
その説明をしていなかったが、ジスランは見よう見まねで、流れを理解したようだった。
「義弟が訪ねてきたのは事実ですわ」
なみなみと注がれた酒を片手に、席へ戻ってきたジスランへ、アビゲイルは話を切り出す。
「ですが……不適切な関係というのは、語弊があります」
「求婚されたんじゃないのか?」
ジスランはかなり詳しく噂を知っているらしい。
ごくり、と薬膳シロップ入りのソーダ水で割った酒を、喉を鳴らして飲むと、ジスランはまたバゲットに噛り付いた。
きれいに並んだ白い歯が、かりっと焼かれたバゲットを削り取る。
(予想外ね。公爵家と言えば、貴族の中の貴族。そんなジスラン卿が、庶民の食べ物に夢中になるなんて)
美味しい軽食と酒のおかげか、ジスランはしかめ面ではなくなっていた。
今のうちに懐柔しようと、アビゲイルは義弟のダレルについて説明する。
「ダレルには爵位の相続に関する悩みがあって、私と結婚したらそれが解決すると考えていたのです。ですが私たちは異母姉弟ですから、そんなことは法律上できません。別の方法を提示したら、納得して帰っていきましたわ」
「やはりあなたは、貴族だったんだな」
「今は違いますけどね」
バゲットを食べ終えたジスランが、ほどよく冷えた酒をごくごく飲む。
割っているとはいえ、かなり度数の高い酒だ。
心配になったアビゲイルが、口をはさんだ。
「ちょっとペースが速くないですか?」
「飲みやすくて、つい――」
慌ててグラスをテーブルに戻すが、すでに酒の半分はなくなっていた。
気泡が爆ぜるカラメル色の液体を、じっとジスランは眺める。
「ほかの客が頼んでいたから、俺も同じものを頼んでみたのだが……今までに味わったことのない味だ」
アビゲイルが調合している薬膳シロップは、さまざまなハーブを使用している。
味も香りも複雑すぎて、一言では表せないのだろう。
「ソーダ水に黒っぽい液体を入れていたが、あれのせいか?」
「母から受け継いだ、秘伝の薬膳シロップなんです。疲労回復や滋養強壮の効果があるんですよ」
「ふむ、砂糖が焦げたような甘みと、柑橘の爽やかさ、香辛料のピリッとした刺激もあって……なのに口当たりがいい」
レシピを解読しそうな勢いのジスランに、アビゲイルは舌を巻く。
「お気に召していただけて、嬉しいですわ。夜の酒場では、アルコールと混ぜていますが、昼の食堂では、ミルクやジュースに入れています」
「女性や子どもたちには、そちらが合うだろうな」
「もともとは、渋みの強いレシピだったのですが、母が改良して甘くしたんです」
幼いアビゲイルにも、飲みやすいように。
それは純然たる母の愛だった。
やがてそのレシピはアビゲイルに伝授され、病に臥せった母の命をも永らえさせた。
(この薬膳シロップがなければ、母との別れはもっと早かったはず)
ろくな設備もない中で、自らを臨床実験の対象としたせいで、アビゲイルの母の体はもろくなっていた。
そうまでして解明しようとしていた母の研究を、アビゲイルは引き継いだ。
今も飲食店経営の傍ら、時間をつくっては薬膳の調合に没頭している。
アビゲイルが物思いにふけっていると、ジスランがぽつりと呟いた。
「義弟からの求婚について、あなたの言い分は分かった。俺も噂をそのまま信じたわけではなく……そういう噂を立てられるような隙を、つくらないで欲しいと言いたかったんだ」
ロッティのために、という言葉が続きそうなセリフだ。
「気を付けます。今後のダレルとの連絡は、手紙でするようにしますわ」
庶民らしからぬダレルの格好は、港町では浮いていた。
どこかで密会するにしても、あれでは人目につきすぎるだろう。
(それを言うなら、ジスラン卿もそうなんだけどね)
アビゲイルはちらりと横目で、ジスランの服装を確認する。
何気なくはおっているマントですら、元々の生地の良さがうかがえた。
そして前回は気が付かなかったが、腰に帯びた剣の柄に、モンテスキュー公爵家の紋章があった。
(紋章というのは、複雑に描かれているほど多くを支配している家である、とバイオレット先生に習ったわ。あんなにごちゃごちゃしているんじゃ、ミストラル帝国におけるモンテスキュー公爵家の地位は、皇帝に次ぐのかもしれないわね)
果たしてそんな家門と、ロッティの相性はいいのだろうか。
悩ましいため息をつきそうになるのを我慢していると、ジスランが席を立つ。
「今日は用件も済んだし、帰る。……また、来店してもいいだろうか?」
ジスランの視線は、軽食を並べたケースに釘付けだ。
どうやら『昼と夜』の味が、よほど気に入ったらしい。
「いつでもどうぞ。夜の酒場でも、昼の食堂でも、歓迎しますわ」
きっとジスランは、あまり庶民の生活を知らない。
ここに滞在している間に、貴族の生活だけが幸せの形ではないのだと、少しでも学んでくれるといい。
そう思ってアビゲイルは微笑んだのだが、ジスランは戸惑った顔をする。
「反発する姿ばかり見ていたせいか、あなたに笑顔を向けられるのは気味が悪いな」
「出入り禁止にしてもいいんですよ?」
地を這うようなアビゲイルの声に、慌ててジスランは礼をして去っていった。




