2話 知識は一番の財産
「初めまして、アビゲイルさま」
「先生、これからよろしくお願いします!」
執事が招いた家庭教師のバイオレットと、アビゲイルは握手を交わす。
きちんと結い上げられた髪は銀色に輝き、名前の由来なのだろうスミレ色の瞳には知性が宿る。
女性にしては珍しく、バイオレットは大学院を卒業しているそうだ。
「40歳ですが独身です。教え子が大勢いるので、寂しくはありません」
男性よりも賢い女性は嫁の貰い手がない、というのがホロウェイ王国での常識だ。
バイオレットは大学院で、相当優秀な成績を収めたに違いない。
自分の人生の舵を、父や夫にゆだねるしかない女性が多い中で、バイオレットは一石を投じる存在だった。
そんなバイオレットと、これからの未来設計図について話し合う。
「事業の企画や運営について学びたいとのことですが、アビゲイルさまの具体的な目標はありますか?」
「2年後に、私はアシュベリー公爵から離縁されます。でも実家に戻るつもりはないので、ただのアビゲイルとして生きていくつもりです」
庶民になる、というアビゲイルの決意表明を聞いても、バイオレットは表情を変えなかった。
それに勇気をもらい、もう少し踏み込んだ話をする。
「亡き母が私のためにつくってくれた、秘伝の薬膳シロップのレシピがあるんです。そのシロップを販売して生計を立てたい、と考えているのですが……私には何をどうしたらいいのか、まったく分かりません」
読み書きや計算、貴族社会のマナーについては、母が教えてくれた。
だが、アビゲイルはハウエル侯爵家から、ほとんど外に出たことがない。
義弟は学校に通っていたし、義妹はお茶会に招待されていた。
それを横目に、アビゲイルは書庫で本を読むのが、せいぜいだった。
(私のいた世界は、とても狭かった)
このままではキースと離縁した後に、路頭に迷うのが目に見えている。
アビゲイルはバイオレットから、自立する術を学びたかった。
「どうか先生の知恵を、授けてください!」
切実なアビゲイルのお願いに、バイオレットは力強くうなずく。
「男性の手を借りず、女性が独りで生きていくのは、思うほど簡単ではありません。私でよければ、お力添えしましょう」
その日から、バイオレットの授業が始まった。
小売業の仕組みや商法について教わりながら、あらゆる販売形態について検討を重ねる。
アビゲイルの希望を織り込みつつ、始めやすく続けやすい事業として、庶民向けの飲食店経営が候補にあがった。
バイオレットがその利点を説明する。
「シロップが売れなかったとしても、それ以外のメニューが動いていれば、経営の立て直しが図れます。あくまでも店舗は実験的な立ち位置なので、結果に一喜一憂しすぎず、目標達成まで試行錯誤していきましょう」
アビゲイルが安定した生活を手に入れるまで、バイオレットが相談役として顧問に就くと約束してくれた。
後々分かったことだが、公共事業や領地運営にアドバイスするのが、バイオレットの本来の仕事だった。
つまり執事は、国や家に仕えるレベルの人物を、アビゲイル個人の家庭教師として招いてくれたのだ。
その大恩に報いるためにも、アビゲイルは授業のない日も自習に励み、とにかく知識を頭に詰め込んだ。
「知識というのは、一番の財産ね。お金は使えばなくなるけれど、知識は使ってもなくならないもの!」
1年が経ち、飲食店について具体的な計画が固まり、アビゲイルは次の段階に踏み出す――。
◇◆◇◆
「出店する町の選定、空き店舗の確保、店内の改装、従業員の募集、食材の仕入れ、開業日の告知、それから練習も兼ねた試し営業……やることは山積みね!」
計画書を前に腕まくりをするアビゲイルに、バイオレットが地図を用意する。
「なるべく治安のいい町を選びましょう。目安になるのは、警備隊が機能しているかどうかです」
名目ばかりでお飾りになっている警備隊では、いざというときに役に立たない。
そんな町では、悪党が大きな顔をしているという。
「悪党を追い払うのに他の悪党を雇う、なんて本末転倒なこともあるんですよ。一度、そうした悪党の手を借りてしまったら最後、延々とみかじめ料を取られてしまいますからね」
バイオレットの話に耳を傾け、いくつかの町を候補に挙げていく。
飲食店を利用してくれそうな労働者が多いとか、新鮮な食材が確保しやすいルートがあるとか。
ふるいにかけた結果、これはと思われる港町を視察することにした。
念のため、夫であるキースへも報告を入れる。
「一週間ほど、旅に出ます」
「……羽目を外すなよ」
執務室で仕事中だったキースは、予想通り顔をしかめた。
お飾りの妻が外を出歩くのが気に入らないのだろうが、これまでとくに問題行動を起こしたことがない。
つまり禁止するほどの理由がなく、見張り兼護衛を2名つけるのを条件に、アビゲイルは港町での外泊の許可をもらえた。
「良かったですね、アビゲイルさま」
侍女たちが楽しそうに旅支度をする。
なにしろ嫁いできてから、アビゲイルが泊りがけで出かけるのは初めてだ。
準備も念の入れようが違った。
身辺の護衛をしている騎士たちとは、この一年間ですっかり仲良しになった。
最初は遠巻きにされていて、アビゲイルは嫌われているのだと思っていた。
やはり仮初の妻だから……と仕方なく考えていたが、実はそうではなかった。
「アビゲイルさまがお美しいので、近寄るのが恐れ多かったのです」
「一年経って、ようやく目を合わせるのに慣れました」
それぞれから照れくさそうに言われ、「視察のときは変装をした方がいいですよ」と、度の入ってないメガネまで渡される。
他人からの親切に慣れてないアビゲイルは、つい目頭を熱くするのだった。
◇◆◇◆
初めて王都を離れるアビゲイルにとって、目に映るすべてが興味の対象だ。
馬車の窓から見えるあれこれを指さしては、同行する侍女を質問攻めにした。
ようやく開通したという鉄道を見たときは、あまりの迫力と音の大きさにひっくり返りそうになったほどだ。
半日かけて到着した港町では、観光客向けのホテルに滞在する。
朝昼夜と時間帯をわけて町中を歩いてみて、どんな人たちがどんな生活をしているのか、アビゲイルは実際の様子を観察した。
ただし、比べるにしても他を知らないので、同行する騎士たちに意見を聞いてみる。
「王都の城下町と比べて、どうかしら?」
「店の規模や件数は、劣ると思います。ただし日が暮れてからは、独特の活気があっていいですね」
漁師や船乗りといった海を相手にする男たちは、酔うと陽気な唄を歌い出す。
その姿が、王都育ちの騎士たちには、物珍しく映るらしい。
「夜がにぎやかなせいか、警備隊が遅くまで巡回しているようです。隊員の体は鍛えられているし、帯びている剣の質も悪くありません。治安については合格でしょう」
ふたりの騎士が頷き合う。
アビゲイルは安堵して、大きく息を吐きだした。
「ということはこの港町が、私の新しい人生の舞台になるのね」
月まで届きそうな人々の喧騒が、まるで福音のように聞こえた。
夜空にきらめく星々に手を合わせ、19歳のアビゲイルは目を閉じる。
(お母さま、どうか見守っていてください。そして……悲願だったあの研究は、必ず私が完成させます!)
◇◆◇◆
「水回りの設備の修繕は終わったし、食材の仕入れ先との契約も完了――」
「オーナー、お迎えの馬車が来てますよ!」
「もうそんな時間!?」
アビゲイルが振り返った先では、いかにも姉御肌な女性従業員が、暗くなりかけた窓の外を指さす。
ばたばたと書類をかき集めバッグに押し込むと、アビゲイルは後を任せた。
「また来週ね! 今度はバイオレット先生も連れてくるから!」
「それまでには、いくつかメニューも試作しときますよ」
ありがとう、と手を振って、アビゲイルは馬車に乗り込んだ。
鉄道と馬車を乗り継いで、こうして港町に通うようになって、かれこれ半年以上が経つ。
頻繁に外泊するアビゲイルを、キースはいぶかしんでいたが、執事がうまく取りなしてくれたようだ。
離縁後の人生の基盤を築いているのだから、どうかこのまま邪魔しないでもらいたい。
「昼に働いてくれる従業員は、近所の若いお母さんたちが多いわ。その間、子どもたちの面倒を見てくれる施設が必要よね」
アビゲイルは揺れる馬車の中でも、メモをめくりつつ頭を働かせる。
港町の中でも、大きな通りに面した空き物件があったのは、運がよかった。
すぐに三階建ての建物ごと購入し、昼は食堂、夜は酒場として使えるよう、改修工事を頼んでいる。
「三階は私の研究室兼居住部屋にしようと思ったけど……こんなに広いんだから、半分くらい子どもたちの遊び場にしてもいいわね」
にぎやかな子どもたちの声や足音も、一階の店舗までは届かないだろう。
「それに親子で同じ建物内にいれば、安心できるはずよ」
病気の母を看病するため、ベッドの隣に長椅子を置き、そこで寝起きしていたから分かる。
離れていると落ち着かなくて、今どうしているだろうかと心が騒ぐのだ。
誰にもそんな思いはしてほしくない。
ぱたんとメモ帳を閉じると、すっかり暗くなった空を見上げる。
「物事をひとつひとつ検討して決定していくって、大変なのね」
慣れなくて戸惑うことも多いが、アビゲイルに前進以外の道はない。
それからもバイオレットの協力のもと、経営者としての試練を次々と乗り越えていった。
――そして結婚式の日から数えて、きっちり2年後。
20歳になったアビゲイルは、キースと円満に離縁する。
「お世話になりました」
執事をはじめとした使用人たちに名残惜しまれる中、満面の笑顔でアシュベリー公爵家を出たアビゲイルは、思っていたよりも多かった手切れ金を受け取り、前途洋々とあの港町へ向けて出発した。
「もう貴族じゃない。私は私の人生を歩むわ!」
しかし、アビゲイルの未来は、平坦ではないようだった。
さっそく営業を始めたばかりの店舗の前で、乳飲み子を抱えた若い母親が行き倒れていたのだ。
従業員の手を借りて、二階の事務所のソファへ母親を運ぶ。
そこまで寒い日ではなかったのに、母親のやせた体はがたがたと震えていた。
「どうか……ロッティを、私たちのいとし子を……お願いします」
いそいで医者を呼んだが間に合わず、それだけ言い残すと母親は息を引き取った。
死を理解できぬ赤子は、灰色の瞳をキョロキョロと巡らせ、周囲を取り巻く人々に笑いかける。
そして赤子を包んでいたブランケットの中から、庶民の持ち物らしからぬ大きな宝石のついたブローチが発見されて、アビゲイルは驚きに息を飲むのだった。




