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路 金色の星―京海物語(青木家サーガ第2作)  作者: 光闇居士


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5. 地獄の底での再会(1960年、冬)

1960年の冬は、ことのほか寒かった。空は、絶望を塗り固めたような、分厚い灰色の雲に覆われ続けていた。十歳になった京海の体も、飢えと寒さで限界に近づいていた。それでも彼女は、毎日、何かを求めるように楊樹浦のあたりを歩き続けた。


その日、彼女は古い工場の裏手にある、瓦礫が山積みになった路地を通りかかった。風が吹き溜まるその場所で、汚れた麻袋をかぶってうずくまっている、小さな人影があった。また一人、飢えて動けなくなった人だろう。京海は通り過ぎようとした。だが、何か、ほんのわずかな既視感が、彼女の足を縫い止めた。


彼女は、ゆっくりと人影に近づいた。麻袋から覗く顔は、垢と泥にまみれ、頬はこけ、唇は紫色にひび割れている。髪はもつれて、まるで鳥の巣のようだった。年齢も性別も、判然としない。だが、その閉じられた瞼の形、痩せこけた輪郭のどこかに、京海の記憶の最も深い場所にある面影が、幻のように重なった。


「……まさか」


京海は、震える声で呟いた。彼女は、自分のポケットを探った。中には、彼女が三日分の食事を我慢して隠し持っていた、干からびて石のように硬くなった芋が半分だけ入っていた。彼女はそれを両手で大事に包むと、人影の前にそっとしゃがみ込んだ。


「…あの…これ、食べる?」


彼女の声に、人影の瞼がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がった。虚ろな、光のない瞳が、京海に向けられる。その瞳には、何の感情も映っていなかった。生きることを、とうに諦めてしまった者の目だった。


京海は、その瞳を見て、心臓を氷の矢で射抜かれたような衝撃を受けた。間違いない。どんなに変わり果てていても、この瞳は、孤児院でいつも自分の隣にいた、あの明の瞳だ。


「明…?明なの?私だよ、京海だよ!」


京海は叫んだ。だが、明の瞳は虚ろなまま、何の反応も示さない。彼女は、もはや人の声も、自分の名前さえも認識できないほど、衰弱しきっていた。京海は、必死で涙をこらえ、硬い芋を自分の口に含んで唾液で柔らかくすると、それを少しずつ、明のひび割れた唇に押し込んだ。


「食べて、明。お願いだから、食べて。死んじゃだめ…!」


芋のわずかな甘みが、明の舌に触れた。その瞬間、彼女の虚ろな瞳に、ほんのかすかな光が宿った。死にかけていた生命の本能が、その味を、生きる糧を、求めていた。彼女は、か細い、ほとんど無意識の力で、芋をしゃぶろうとした。


京海は、泣きながら芋を与え続けた。そして、自分のありったけの体温で、氷のように冷たい明の体を抱きしめた。


「明、しっかりして。私が来たから、もう大丈夫だから。絶対に、死なせたりしないから…!」


どれくらいの時間が経っただろうか。京海の温もりと、芋のわずかな栄養が、明の意識の底に沈んでいた記憶の欠片を、奇跡のように呼び覚ました。彼女の唇が、かすかに動いた。


「…ジン…ハイ…?」


それは、声というより、風の音に近い、か細い響きだった。だが、京海には、雷鳴のように聞こえた。


「そうだよ、私だよ、明!分かったのね!」


その瞬間、明の瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。それは、何ヶ月も前に枯れ果てていたはずの涙だった。その涙を合図にしたかのように、堪えていた感情が、堰を切って溢れ出した。彼女は、子供のように声を上げて泣きじゃくった。悲しみ、苦しみ、絶望、そして今、目の前に現れた親友への安堵。そのすべての感情が、嗚咽となってほとばしる。


「京海…!京海…!会いたかった…!怖かったよぉ…!」


「私もだよ!私も、ずっと会いたかった!」


京海も、もう涙を止めることはできなかった。二人は、この地獄のような瓦礫の山の中で、互いの存在だけを確かめるように、ただ固く、固く抱きしめ合った。世界中のすべてが敵で、明日死ぬかもしれないという絶望の中で、たった一人、自分のことを分かってくれる人がいる。その事実が、どれほどの救いであるか。灰色の空の下、二人の少女の泣き声だけが、いつまでも響いていた。


明の養父母は、飢饉が深刻化すると、真っ先に口減らしのために彼女を家から追い出したのだという。それからの数ヶ月、彼女は残飯をあさり、物乞いをし、ただ生き延びるためだけに街をさまよっていた。


京海は決意した。このまま明をここに置いていくことなど、絶対にできない。彼女は、痩せ衰えて自力では歩けない明を背負った。自分よりも少しだけ背の高い親友の体は、羽のように軽かった。だが、その軽さが、彼女が耐えてきた苦しみの重さを物語っており、京海の心を締め付けた。


自分の家も、食べるものはない。養母の秀英が、見ず知らずの子供を、しかもこんな状態の子供を受け入れるはずがない。それでも、京海は歩いた。提藍橋の、自分の家へと。他に、行く場所などなかったからだ。


家の扉を開けた時、出迎えた秀英は、京海の背中にいる汚れた何かを見て、金切り声を上げた。


「な、何だい、その汚いものは!どこから拾ってきたんだい!今すぐ捨ててきなさい!」


「お母さん、お願い!この子は明だよ!孤児院の時の、私の友達なの!このままじゃ、死んじゃう!」


京海は、生まれて初めて、養母に泣きながら懇願した。


「そんなこと知ったことかい!うちだって食べるものがないんだ!ただでさえ穀潰しが一人いるってのに、二人も養えるわけないだろ!」


秀英は、ヒステリックに叫んだ。その時、奥の部屋から、咳き込みながら建国が出てきた。彼もまた、飢えで痩せてはいたが、その目に宿る実直な光は失われていなかった。彼は、京海の背中でぐったりとしている明の姿と、泣きじゃくる京海の顔を、黙って見比べていた。


「建国さん!あなたからも言ってやってください!こんな汚い病人を連れ込んだら、うちの旻に病気がうつるかもしれないんですよ!」


秀英が夫に同意を求める。建国は、しばらくの間、腕を組んで考えていた。彼の脳裏に、十数年前に、孤児院長から聞いた上海を解放した日に京海を見つけてくれた解放軍戦士の光景が蘇っていた。豪華ホテルのベッドで、金の腕輪をつけた赤子を見つけた、あの日のこと。分隊長が言った言葉。『この赤子も、人民の一人だ。我々人民解放軍が、人民を見捨てることなど、断じてあってはならん』。


建国は、ゆっくりと口を開いた。


「秀英。その子を、家に入れなさい」


「な…何を言ってるんですか、あなたは!」


「俺たちが何のために、党を信じ、新しい中国を作ろうとしてきた?飢えている人民を見捨てるためか?違うだろう」


その声は静かだったが、決して揺るがなかった。それは、秀英が初めて聞く、夫の絶対的な意志のこもった声だった。


「俺の配給分を、この子にやればいい。俺は水だけでいい。だが、目の前で死にかけている子供を見殺しにすることだけは、絶対にできん」


それは、建国が自らの良心に従って下した、人生で最も重い決断の一つだった。この決断は、彼と秀英の間に、もはや修復不可能な亀裂を生むことになるだろう。だが、彼は選んだのだ。


秀英は、夫の見たこともないような毅然とした態度に、言葉を失った。彼女はわなわなと震えながら、憎悪に満ちた目で京海と、その背中の明を睨みつけた。そして、一言も言わずに、台所へと消えていった。


京海は、信じられない思いで養父の顔を見上げた。建国は、そんな京海の頭を、無言で、しかし力強く、一度だけ撫でた。その大きな手の温もりが、京海の凍えた心に、じわりと染み渡っていった。


結び


明は、王家で数日間、保護されることになった。建国は約束通り、自分の配給の粥を明に与えた。秀英は、あからさまな敵意を隠さず、明の存在を無視し続けたが、夫の決意の前には何もできなかった。


京海は、つきっきりで明を看病した。温かい寝床と、わずかな栄養で、明は奇跡的に体力を回復していった。二人は、屋根裏部屋で、離れていた六年間を埋めるように、夜が更けるまで語り合った。それは、飢えと恐怖に満ちた世界の中で、二人にだけ許された、宝石のような時間だった。


しかし、その時間は長くは続かなかった。この状況で、明を匿い続けることは不可能だった。建国は、党の知り合いを通じて、市が運営する臨時の児童収容施設に、明の入所手続きを取った。


別れの日、明の顔には、少しだけ血の気が戻っていた。彼女は、京海が着せてくれた、繕い跡だらけだが清潔な服を着ていた。


「京海、ありがとう。あなたがいなかったら、私はとっくに死んでた」


「ううん。またすぐに会えるよ」


「…今度は、嘘じゃないよね?」


明の言葉に、京海は強く頷いた。


「今度は、絶対に本当。私、もっともっと強くなる。自分の力で、ちゃんと生活できるようになる。そしたら、必ず明を迎えに行く。だから、それまで絶対に死なないで。約束だよ」


「うん…約束する」


二人は、指切りをした。それは、六年前、孤児院の門の前で交わした、声にならない誓いよりも、ずっと強く、ずっと重い約束だった。


明を乗せたトラックが遠ざかっていくのを、京海はいつまでも見送っていた。涙は、もう出なかった。彼女の心には、悲しみよりも、もっと熱く、もっと硬い感情が宿っていた。


それは、鋼のような意志だった。この理不尽な世界で、生き抜くこと。大切な人を、この手で守ること。そのためなら、どんな困難にも立ち向かおう。どんな苦労も、耐え抜いてみせよう。


1960年の冬、十歳の少女・京海の心に、金色の星がはっきりと刻まれた。それは、未来を照らす希望の星であり、決して揺らぐことのない、誓いの星だった。彼女の本当の戦いは、まだ始まったばかりである。この先に、文化大革命という、国中を巻き込むさらに大きな嵐が待ち受けていることなど、知る由もなかった。

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