第四章:路地裏(リーロン)の女王 1. 新しい世界、新しい掟(1955年)
提藍橋の路地裏は、それ自体が生命を持った巨大な迷路だった。家々の壁は互いにもたれかかり、窓という窓からは洗濯物が旗めいて、空を細長い布切れのように切り取っている。京海がこの迷宮の住人となって一年が過ぎた1955年、彼女は六歳になっていた。この世界には、孤児院とはまた違う、複雑で強固な掟が存在することを、彼女はその小さな体で学び取っていた。
ここでの子供たちの王は、力だった。年長で、腕っぷしの強い少年たちが、路地裏の覇権を握っていた。彼らは弱い子からビー玉を巻き上げ、女の子の縄跳びの縄を奪い、自分たちだけのルールで遊び場を支配した。京海も最初は、その不文律の前で何度も悔しい思いをした。しかし、孤児院で理不尽に立ち向かうことを覚えた彼女の魂は、この新しい世界の掟に黙って従うことを良しとしなかった。
彼女の反撃は、腕力ではなく、頭脳から始まった。
その日、路地裏では一番のガキ大将、小虎と呼ばれる少年が、数人の子分を引き連れて威張り散らしていた。彼がどこからか手に入れてきた、ピカピカの新しい皮製の鞠が、その権力の象徴だった。誰もそれに触ることは許されない。虎が飽きるまで、他の子供たちは遠巻きに眺めているしかなかった。
虎が鞠を高く蹴り上げた。しかし、力を入れすぎた鞠は放物線を描き、運悪く、路地裏で一番気難しいことで知られる呉婆さんの家の、開け放たれた窓へと吸い込まれてしまった。途端に、虎たちの顔から血の気が引いた。呉婆さんは、子供が家の前で騒ぐだけで怒鳴り散らし、時には汚水を浴びせかけるほどの偏屈者だ。窓に飛び込んだ鞠が、無事に返ってくるはずがなかった。
「お、おい、どうするんだよ、虎」
「お前のせいだぞ!」
子分たちが途端に虎を責め立てる。絶対的な権力者だったはずの虎は、ただ青い顔で立ち尽くすばかり。その時、子供たちの輪の中から、京海がすっと前に出た。
「私が、取り返してきてあげる」
その言葉に、子供たちはどよめいた。虎でさえ尻込みしているのに、この小さな女の子が?虎は、侮られたと感じて怒鳴った。
「うるさい、チビの京海!お前に何ができる!」
「できるよ。だって、私は呉婆さんとお友達だもん」
京海はにっこり笑うと、臆することなく呉婆さんの家の扉を叩いた。訝しげに顔を出した呉婆さんに、京海は言った。
「呉婆婆、こんにちは!昨日、お母さんが『呉婆婆は昔、上海一の刺繍の達人だったんだよ』って教えてくれたの。本当?」
呉婆さんは面食らった顔をしたが、その言葉に悪い気はしない。若い頃の栄光を覚えていてくれた者がいた。しかも、こんな子供が。
「…まあな。私の腕に敵う者はいなかったさ」
「すごい!ねえ、今度私に、蝶々の刺繍の仕方を教えてくれない?代わりに、私、婆婆の肩たたきしてあげる!」
京海は、養母の秀英が近所の奥さんたちと交わす噂話から、呉婆さんの過去と、彼女が最近肩こりに悩んでいることを聞き出していたのだ。老婆の心の、一番柔らかい場所を突く一言だった。呉婆さんの険しい顔が、数年ぶりにふっと和らいだ。
「…しょうがない子だね。で、何の用だい?」
「あのね、お友達の鞠が、婆婆のお部屋に入っちゃったの。ごめんなさい」
呉婆さんは、しばらく京海の顔をじっと見ていたが、やがてため息をつくと、家の中から鞠を持って出てきた。
「ほらよ。今度から気をつけなさん。…それから、肩たたき、本当にできるのかい」
「うん、任せて!」
鞠を受け取った京海が子供たちの元へ戻ると、そこには英雄を迎えるような視線が集まっていた。虎は、呆然とした顔で京海を見ていたが、やがてばつの悪そうな顔で鞠を受け取ると、「…やるじゃないか」とだけ呟いた。
この一件から、路地裏の子供たちの勢力図は静かに塗り変わり始めた。京海は、決して力で支配しようとはしなかった。彼女は、持ち前の観察眼で一人一人の得意なことや好きなことを見つけ出し、それを引き出した。絵の上手な子には物語の挿絵を描いてもらい、歌の得意な子には新しい歌を教えてもらう。彼女の周りには、自然と子供たちの輪ができ、そこは虎が支配していた頃のような緊張感はなく、誰もが主役になれる、明るく創造的な空間へと変わっていった。
彼女は、子供たちの間で流行っていたビー玉遊びで巧妙なイカサマ(作弊)をしていた少年を見つけた時も、決して大声で責めなかった。彼女はその子の隣に座り、「そんなに指が器用なら、きっとあやとりも上手だね!私に教えてよ」と声をかけた。イカサマの才能を、別の形で輝かせたのだ。少年は戸惑いながらも、京海に教えるうちにあやとりの面白さに目覚め、やがて路地裏一のあやとり名人になった。
いつしか子供たちは、何か困ったことがあると、虎ではなく京海に相談に来るようになった。彼女は「路地裏の女王」と呼ばれたが、その本質は君臨する者ではなく、中心で輝く「金色の星」だった。




