第三章:小さな童養婿婦(どうようせいふ)
養父・王建国の腕に抱かれて長い道を歩いたあの日から、京海の世界は音を立てて変わった。孤児院という、どこまでも平坦で、灰色の空が等しく広がっていた世界から、彼女は上海の心臓部、虹口区の提藍橋という名の、まるで巨大な生き物のように脈打つ場所へと運ばれたのだ。
彼らの新しい家は、道行く人々が思わず見上げるような、古びてはいるが堂々とした三階建ての洋式楼房だった。かつて、遠いヨーロッパでの虐殺を逃れたユダヤ人たちが、この上海の地で束の間の安息を得た時代に建てられたというその建物は、周囲の低く連なる伝統的な家々の中にあって、ひときわ異彩を放っていた。褪せた赤茶色の煉瓦壁、アーチを描く窓枠、そして屋根の傾斜の脇には、まるで秘密の隠れ家のような小さな屋根裏部屋がちょこんと乗っている。彼らの住まいは、その最上階である三階と、おまけのように付いてきたその屋根裏部屋だった。
「さあ、着いたぞ。ここがお前の新しい家だ」
王建国はそう言って、京海を地面に降ろした。京海は小さな口をぽかんと開けたまま、目の前にそびえる建物を下から上まで見上げた。孤児院の建物も大きかったが、それは横にだだっ広いだけだった。こんな風に、空に向かって縦に伸びていく家は初めてだった。まるで、巨大な積み木だ、と京海は思った。
その日の夕方、荷解きとも呼べないほどのささやかな荷物を整理していた時のことだ。王建国が、孤児院の院長から託された小さな、しかしずっしりと重い布包みを、妻の兪秀英に手渡した。
「院長先生がな、これは京海が発見された時に身につけていた、唯一のものだそうだ。大切に持っていてやってくれ、と」
秀英は訝しげにその包みを受け取り、紐を解いた。彼女の指先が、中から現れたものに触れた瞬間、その目がかすかに見開かれた。ころりと手のひらに転がり出たのは、鈍く、しかし純粋な輝きを放つ、一対の小さな金の腕輪と足輪だった。純金であろう、見た目よりも遥かに重い。表面には、今では失われた精緻な技術で彫られたであろう、龍とも鳳凰ともつかぬ、縁起の良い獣の文様が刻まれている。
王建国は「おお…」と感嘆の声を漏らした。
「これは…たいしたものだ。あの子の親は、よほどの身分だったのかもしれんな…」
実直な彼の声には、驚きと共に、この小さな少女が背負ってきたであろう運命に対する、一種の畏敬の念がこもっていた。
しかし、兪秀英の心に走ったのは、全く質の異なる感情の電流だった。まず彼女の心を貫いたのは、長年の貧困が生み出した、金という物質そのものへの渇望。次に湧き上がったのは、この輝きが象徴するであろう、自分たちの知らない京海の過去に対する、どす黒い嫉妬と警戒心だった。――ただの捨て子ではなかったのか?一体どこのブルジョアジーの娘だというのだ?―― その輝きは、京海が自分たちの理解や支配の及ばない、全く別の世界の出自であることを雄弁に物語っていた。
秀英は、表情を一切変えぬまま、素早く腕輪と足輪を布に包み直した。
「……だから何だというのです。過去がどうであれ、あの子は今、私たちの娘です」
彼女は夫に、そして自分自身に言い聞かせるように、きっぱりと言い放った。
「こんな高価なものを子供に持たせては、変な気を起こしたり、どこかで無くしたりするのが関の山。大きくなって、物事の分別がつくようになったら、その時にちゃんと渡してあげます。それまでは、私が責任を持ってしまっておきますから」
その言葉に、建国は反論できなかった。妻の言うことにも一理ある。だが、その腕輪を自分の箪笥の奥深く、嫁入り道具の入った古い木箱の底に隠す秀英の横顔に、彼は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。あれは、京海自身のものだ。いつか必ず、あの子の手に返さねばならない。その「いつか」は、本当に妻の言う通りなのだろうか。建国の心に、小さな疑念の種が蒔かれた。
こうして、京海の出自を示す唯一の手がかりは、彼女自身の記憶にすらないまま、養母の心の奥底と同じくらい、暗く深い場所へと封印された。
あたりには、嗅いだことのない様々な匂いが渦巻いていた。すぐそこの角を曲がった公衆食堂からは、豚の脂がじりじりと焦げる香ばしい匂いと、八角や桂皮の甘く痺れるような香りが混じり合って漂ってくる。その隣の公衆便所からは、鼻を刺すアンモニアの匂いが風に乗って流れ、人々が燃やす練炭の煤けた匂いが、常に空気の底流に澱のように溜まっている。
養母の兪秀英は、京海の手を強く引き、軋む音を立てる木製の階段を上り始めた。
「こら、ぼさっとしない!これから毎日上り下りするんだから、さっさと覚えなさい」
冷たい声に背中を押され、京海は短い足で必死に階段を駆け上がった。三階の突き当たりにある、分厚い木の扉。秀英が鍵でそれを開けると、中はひんやりとした空気に満ちていた。家の中には、すでに小さな「王子様」がいた。
「旻、ただいま。お姉ちゃんを連れてきたわよ」
奥の部屋のベッドの上で、ひとりの男の子が体を起こした。王旻。夫婦が京海よりも先に引き取っていた、もう一人の養子だった。
京海が不思議そうに旻を見つめていると、早速、秀英は京海を連れて階下へ降り、近所の奥さんたちが井戸端会議をしている輪の中へと入っていった。
「みなさん、この子が田舎から引き取ったうちの娘よ」
秀英は、まるで自慢の品でも披露するように、京海の肩をぐいと前に押し出した。
「七つよ。うちの旻と同じ年の生まれだけど、この子は春が早いからね。あの子の面倒をよく見てくれる、しっかりした姉さんなの」
「名前は京海。私の姓をとって、兪京海と名付けたわ」
京海は心の中で、え?と声を上げたが、秀英の有無を言わせぬ強い視線に射竦められ、口をつぐんだ。こうして、彼女の「小さな姉さん女房」としての教育が始まった。秀英は、まだ幼い京海に、家の仕事を次々と叩き込んでいく。
新しい生活は、物質的には豊かだった。これは、党員である王建国と兪秀英が、一般民衆よりも優先的に良い配給と待遇を得ているからこその暮らしだった。建物の表通りは新しい中国の活気に満ちているが、一歩裏手の「里弄」に足を踏み入れると、人々の混沌としたエネルギーが満ち溢れていた。それは、共産党が示す「理想の社会」の表の顔と、そこに生きる人々の剥き出しの「現実」の姿そのものだった。
養父の王建国は、妻の厳しいやり方に、内心では眉をひそめていた。
ある晩、夫婦の間に小さなひずみが生まれる口論が起きた。
「秀英、まだ早すぎる。京海はまだ子供だぞ」
「何を言っているんです。あの子はもう七つでしょう。それに、いずれ旻の嫁になる身。家のことを早く覚えるに越したことはないわ」
「だが、あの子はうちの『娘』でもあるんだ!」
「甘やかしてどうするんです!あの子は、私たちの老後を支えるために来たのよ!」
京海は隣の部屋のベッドの中で、息を殺してそのやり取りを聞いていた。「旻の嫁」「老後を支えるため」。言葉の意味は完全には分からなかったが、自分が何か、とても重たいものを背負わされていることだけは、ひしひしと伝わってきた。
そんな京海にとって、この家で唯一、心から安らげる場所が、あの屋根裏部屋だった。
秀英から「あそこは埃っぽいから入るんじゃないよ」と釘を刺されてはいたが、こっそりとその小さな扉を開け、自分だけの秘密基地にした。秀英の厳しい声も、建国の心配そうな顔も、病弱な旻の咳も、ここまでは届かない。
彼女は丸窓のそばに座り込み、何時間でも外を眺めた。眼下には里弄の瓦屋根が広がり、遠くには黄浦江を行き交う船のマストが見える。夜になると、里弄の家々から漏れるランプの灯りが、まるで地上に撒かれた星のように瞬き、空には大きな月が浮かんだ。
その頃、下の階の部屋では、兪秀英が時折、あの金の腕輪と足輪を木箱から取り出しては、ひとり静かに眺めていることがあった。ランプの光を受けて妖しく輝く黄金。彼女はその重みを手のひらで確かめながら、京海の存在そのものについて考えていた。この輝きは、自分たちが与えた「兪京海」という名や、「童養婿婦」という役割では到底覆い隠すことのできない、少女の本来の運命を暗示しているようだった。そのことが、秀英を苛立たせ、同時に得体のしれない恐怖に似た感情を抱かせた。だからこそ、彼女はこの輝きを自分の手元に封じ込め、京海を自分の描く筋書き通りに動かそうと必死になるのだった。
屋根裏部屋の京海は、もちろんそんなことは知らない。彼女はただ、丸窓に頬を寄せ、夜景の向こうにまだ見ぬ未来を見ていた。それは、養父母の期待や、時代の大きなうねりとは関係のない、彼女自身の物語の始まりだった。自分の本当の過去を物語る唯一の証が、すぐ下の階で複雑な感情と共に秘匿されていることなど知る由もなく。
この小さな窓から見える世界が、やがて彼女が駆け抜けていく広大な舞台そのものであること、そして、いつかあの金の腕輪が彼女の運命の扉を開く鍵となることを、まだ誰も知らなかった。ただ、窓の外で輝く月だけが、この「金色の星」の最初の観客として、その小さな背中を静かに見守っていた。




