エピローグ:丘の上の誓い
(語り手:夫・張楡生)
私が、生涯をかけて愛すると誓った女性、私の妻、京海。彼女の魂の深淵に触れようとする時、私の心はいつも、ある一つの光景へと引き寄せられる。それは、私がまだ彼女の存在を知らず、彼女もまた、私の名を聞いたことすらなかった、遠い日の夕暮れ。星火農場の、名もなき丘の上での、彼女の、たった一人の誓いの光景だ。
この話は、彼女自身から直接聞いたものではない。後に、彼女と共にあの地獄のような日々を生き抜いた、梁という名の、聡明で物静かな彼女の親友が、そして、炎のように情熱的で、誰よりも彼女を信奉していた紅という名の、もう一人の親友が、懐かしそうに、そしてどこか誇らしげに、断片的に語ってくれたものだ。その欠片と欠片を、私は愛という名の糸で紡ぎ合わせ、今、目の前に、ありありとその情景を思い描くことができる。
その日、星火農場での労働は、特に過酷を極めたらしい。季節外れの豪雨が用水路の堤を破壊し、彼らが血と汗で拓いた水田が、濁流に飲み込まれようとしていた。絶望がすべてを支配しようとしたその時、彼女は、濁流の中に真っ先に飛び込み、「私たちが、人間の壁になるのよ!」と叫んだという。その声に、若者たちの魂は再び燃え上がり、彼らは人間の鎖となって、奇跡のように、自分たちの土地を守り抜いた。
一日が終わり、夕闇が大地を包み込む頃。泥と汗にまみれた若者たちが、疲労の極致で、まるで抜け殻のように宿舎へと戻る中、彼女だけは、一人、近くの小さな丘へと、その足を引きずるようにして登っていったという。
丘の上に立つ彼女の、その小さな背中は、しかし、決して疲れてはいなかった。その瞳は、疲れの色など微塵も感じさせず、まるで、洗い清められた夜空に最初に灯る、一番星のように、強く、澄み切って輝いていた。
その視線の先には、地平線の彼方に、ぼんやりと光の滲みとして見える、大都市・上海があった。
だが、彼女の瞳に宿っていたのは、故郷を懐かしむ、甘い感傷ではなかった。
あの頃の彼女は、まだ、心の底から信じていたのだ。自分たちの世代が、この身を捧げる神聖な労働によって、あの上海を、そして全中国を、輝かしい社会主義の楽園に変えることができるのだと。吹き抜ける夜風に髪をなびかせながら、彼女は、毛主席への、そして中国共産党への、一点の曇りもない絶対的な崇拝と、未来への燃えるような情熱を、その小さな胸いっぱいに満たしていた。
過酷な現実さえも、理想の輝きに変えてしまう、その純粋で、どこまでも力強い姿。
後に私が知ることになるその姿こそ、私が生涯をかけて愛し、守り抜きたいと願った、彼女の魂の原風景だったのである。
しかし、今、この物語を語る私は、知っている。彼女がその丘の上で見ていたものが、それだけではなかったことを。
彼女のその輝く瞳の奥には、きっと、別の風景も重なって見えていたはずだ。
孤児院の門の前で、泣きながら手を振っていた、親友・明の姿。
「お前は旻の嫁になるんだ」と、屈折した愛情で彼女を縛りつけようとした、養母の哀しい顔。
「本を読め、賢くなれ」と、自らの希望を託してくれた、養父の不器用な優しさ。
そして、紅衛兵に吊るし上げられ、「人間性を信じることを諦めてはいけない」という最後の授業を遺して逝った、恩師・張先生の、血の滲んだ唇。
彼女の純粋な信仰は、やがて、時代の巨大な嘘によって、無残にも打ち砕かれる。
彼女は、牛棚の賢者たちとの対話を通して、この国の革命が、理想の裏側で、いかに多くの血を流し、いかに多くの魂を計画的に破壊してきたかという、耐え難い真実を知ることになる。彼女が信じた「党」が、家族の愛や、友の信頼さえも、「ブルジョア的」として断罪する、非人間的なシステムであったことを悟るのだ。
そして、彼女の心は、引き裂かれる。
梁という、魂の半身ともいえる青年と出会いながらも、その恋が「罪」とされる時代の中で、互いの未来を守るために、自らその恋を黒土へと還さなければならなかった、あの夜の痛み。彼女は、自分の出自を示す唯一の手がかりである金の腕輪の片割れを彼に託し、「同志」としての、永遠の、そしてあまりに切ない誓いを立てた。
そうだ、彼女が丘の上で見つめていたのは、輝かしい未来だけではない。
彼女は、その小さな背中に、数えきれないほどの喪失と、矛盾と、そして絶望を背負いながら、それでもなお、たった一人で、前を向いて立っていたのだ。
彼女の強さは、純粋な信仰心から来るものではなかった。
彼女の本当の強さは、この世界の、あまりにも醜悪で、理不尽な真実を知り尽くした上で、それでもなお、人を信じることを、愛することを、そして、明日を良くしようとすることを、決して諦めなかった、その魂の気高さにある。
彼女は、光だけを見ていたのではない。最も深い闇を知っているからこそ、彼女自身の光は、より強く、より尊く、輝くのだ。
丘の上に一人立つその少女が、やがて、私の人生の、そして私自身の「金色の星」になることを、この時の私はまだ知らなかった。
彼女が、あの星火農場で、数々の苦難の果てに、自らの力で「労働模範」の称号を勝ち取り、再び上海の地を踏むことを。
そして、そこで、病弱な親友・明と感動な再会を果たす。
それから、そののちに私という、平凡な男と出会うことになる運命を。
そう、私の妻、京海との出会いは、この丘の上の誓いから、もう少し先の、未来の話だ。
だが、この物語を語り終えようとする今、私の心は、もう、その時が来るのを待ちきれないでいる。
早く、彼女に会いたい。
そして、この腕で、彼女のすべてを、彼女が背負ってきたすべての過去を、強く、強く、抱きしめてあげたい。
もう、君は、一人じゃないのだと、伝えるために。
~FIN~
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