第二章:光と影の孤児院
1953年、上海。フランス租界の西の端に、その孤児院は時代の澱のようにひっそりと佇んでいた。赤煉瓦の壁は煤け、かつては聖母子が描かれていたであろうアーチ型の窓のステンドグラスは、数年の風雨と管理者の無関心によって色を失い、ただのくすんだガラスの集合体と化している。元は欧州系のキリスト教会が運営していたこの場所も、新しい中国の誕生と共にその庇護者を失った。今では「上海市第四児童養育院」という無味乾燥な看板が、錆びた鉄門の脇に掲げられているだけだ。
「公平分配」という新しい政府のスローガンの下、ここに集められた子供たちの境遇は、しかし決して公平ではなかった。配給される粗末な食事は常に足りず、繕いの跡が幾重にも重なった服は、体の大きさに合っていないことの方が多かった。子供たちは、飢えと寒さという共通の敵を持ちながら、その実、見えない線で引かれた派閥とカーストの中で生きていた。年長者が年少者を支配し、体格の良い者が華奢な者を威圧する。それは、親という絶対的な庇護を失った幼い魂が、自らを守るために編み出した、哀しい生存戦略だった。
この小さな、しかし残酷な社会の中心から少しだけ外れた場所に、いつも京海はいた。
彼女が三歳になったばかりの、ある日の昼下がり。孤児院で一番大きな法国梧桐の木の下で、事件は起きた。年長の少年たちが、ひとりの女の子を取り囲んでいた。女の子は、京海が孤児院に来て初めて口をきいた、明だった。明は生まれつき体が弱く、いつも所在なさげに俯いている、素直で実直な、しかしそれ故に標的にされやすい少女だった。
「お前の持ってるその飴、どこで手に入れた?」「先生に媚びでも売ったんだろ」
下卑た笑い声と共に、少年の一人が明の小さな手をこじ開けようとする。明が必死で握りしめているのは、視察に来た共産党の幹部が気まぐれに与えた、けして手に入らない貴重な果物の飴だった。涙をいっぱいに溜め、声もなく首を横に振る明の前に、不意に小さな影が躍り出た。
京海だった。
「やめなよ!」
まだ舌足らずな、しかし鈴が鳴るように凛とした声が響く。少年たちは一瞬きょとんとし、次の瞬間には嘲るように笑った。
「なんだ、チビの京海じゃないか。お前も欲しいのか?」
「これは明のだもん!いじめるのはダメ!」
京海は両手を広げ、まるで母鳥が雛を守るように明を背後にかばった。その姿はあまりに小さく、頼りなく、少年たちの腕力の前では一瞬で吹き飛ばされてしまうだろう。だが、その双眸に宿る光は、彼らがこれまでに見たことのない種類のものだった。そこには恐怖も、媚びも、打算もなかった。ただ、まっすぐな怒りと、友を守るという純粋な意志だけが、太陽の欠片のように燃えていた。
少年たちは面食らった。この孤児院では、誰もが強者におもねり、弱者から搾取することで自分の立場を確保する。それが暗黙の掟だった。理不尽に立ち向かうなど、最も愚かで、最も損をする行為のはずだ。しかし、目の前の小さな少女は、その「常識」をいとも容易く踏み越えてきた。そのあまりの純粋さが、かえって少年たちの心に奇妙な楔を打ち込んだ。彼らは顔を見合わせ、ばつが悪そうに鼻を鳴らすと、「つまんねえの」と呟いて散っていった。
嵐が去った後、京海は振り返って、まだ震えている明の前にしゃがみこんだ。そして、自分の服のポケットをごそごそと探り、中から少し欠けた乾パンを取り出した。
「明、これ、あげる。半分こしよう」
「……京海」
明の瞳から、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。それは、いじめられた悲しさよりも、守ってくれた友の温かさが胸に染みた故の涙だった。明は嗚咽しながら、固く握りしめていた飴を京海の小さな手のひらに押し付けた。
「ううん、これも、京海と半分こする」
梧桐の木漏れ日の下、ふたりの少女は、欠けた乾パンと一粒の飴を分け合った。それは、この灰色の日々の中で、宝石のように輝く誓いの儀式だった。この日を境に、ふたりは姉妹のように、片時も離れなくなった。
京海の不思議な魅力は、そこにあった。彼女は、誰かに認められようとか、より良い暮らしを手に入れようとか、そういう計算ずくの行動を決していたしない。ただ、面白いから笑い、悲しいから泣き、間違っていると思えば、相手が誰であろうと「ダメ」と言った。その裏表のない、太陽のような性質が、知らず知らずのうちに周りを照らしていた。
彼女が歌い出せば、つられて子供たちの輪ができ、合唱が始まった。彼女がどこからか見つけてきた石ころやガラスの欠片で遊び始めれば、それはたちまち子供たちの間で最新の「おもちゃ」になった。先生たちも、彼女には不思議と心を許した。他の子供たちが養子縁組の機会をうかがい、視察者の前で必死に笑顔を作り、おべっかを使う中で、京海だけはいつも自然体だった。彼女の笑顔は、誰かに見せるためのものではなく、心の中から湧き出てくる喜びそのものだった。その笑顔は、荒んだ孤児院の職員たちの心さえ、束の間和ませる力を持っていた。
いつしか京海は、孤児院の子供たちの間で、派閥や年齢を超えた特別な存在となっていた。彼女は「女王」のように君臨したわけではない。むしろ、誰もがその光に集まりたくなる「金色の星」。彼女の周りには、いつも穏やかで、快活な空気が流れていた。子供たちは、京海と一緒にいると、自分たちがみすぼらしい孤児であることを、ほんの少しだけ忘れられるような気がしたのだ。
1954年、晩秋。
その日、孤児院の鉄門の前に、一台の自転車が止まった。降り立ったのは、一組の夫婦だった。男は王建国。四十代半ばで、がっしりとした体躯は元軍人であることを偲ばせる。今は国営工場の保安の仕事に就いているが、その実直そうな顔には、長年の貧困と苦労が深い皺となって刻まれていた。隣に立つ妻は、兪秀英。夫より幾分若く見えるが、その目元には常に猜疑心と世間への警戒心が浮かんでいる。彼女もまた、かつては党の地下組織で宣伝工作に従事した、芯の強い女だった。
夫婦には長年子供がなかった。貧しさの中で子育てなど夢のまた夢だったが、新中国となり、ようやく夫婦で安定した職を得た今、彼らは自分たちの「老後」を真剣に考え始めていた。党員でありながら、彼らの頭を支配していたのは、旧社会の封建的な慣習、「童養婿」という考えだった。まず、将来働き手となり、自分たちの面倒を見てくれるであろう男の子の赤子を、既にもらい受けていた。そして今日は、その子の「妻」となる女の子を探しに来たのだ。病弱な養子の世話を焼き、やがては嫁としてこの家に入り、自分たちに尽くしてくれる、丈夫で、素直で、「上質そうな」女の子を。
院長の案内に従い、夫婦は子供たちが集まる遊戯室へと足を踏み入れた。その瞬間、室内の空気がぴんと張り詰めたのを、兪秀英は敏感に感じ取った。子供たちが、一斉にこちらを見た。その目に宿るのは、品定めをするような、媚びるような、あるいは絶望を隠したような、幼い顔には不釣り合いな光だった。何人かの女の子は、すっと立ち上がり、作り物めいた笑顔で近づいてきた。
「おじさん、おばさん、こんにちは!」
「私、お歌が歌えます」
「私、お掃除が得意です」
子供たちは、必死に自分という商品をアピールする。この灰色の世界から連れ出してくれるかもしれない、千載一遇の機会なのだ。王建国は戸惑いながらも、実直な性格から、一人一人の言葉に耳を傾けている。だが、兪秀英は冷めた目でその光景を眺めていた。彼女の目は、子供たちの必死さの裏にある計算高さを見抜いていた。こんな風に擦れてしまった子供は、いずれ自分たちの手に負えなくなるだろう。もっと純粋で、無垢で、自分たちの思い通りに「育てられる」素材でなければならない。
彼女の視線が、部屋の隅で繰り広げられている、ささやかな光景に吸い寄せられた。
そこでは、他の子供たちの喧騒から離れ、二人の少女が窓際に座り込んでいた。一人の少女が、もう一人の少女の髪を、指で優しく梳かしている。髪を梳かれているのは、いつも気弱そうにしている明だった。そして、その髪を慈しむように梳かしている少女こそ、京海だった。
京海は、夫婦の存在に気づいているのかいないのか、ただ目の前の親友の髪を整えることに夢中になっているようだった。彼女は何かを口ずさみながら、時折、窓の外に広がる灰色の空を見上げては、にこりと笑う。その笑顔には、何の含みもなかった。まるで、空の向こうに、自分だけに見える美しい何かを見つけたかのように、ただ純粋に、喜びに満ちていた。その瞬間、雲の切れ間から一筋の陽光が差し込み、窓ガラスの埃をきらきらと照らし出した。光は京海の横顔を黄金色に染め上げ、彼女の笑顔を一層輝かせた。
その光景に、王建国は息を呑んだ。
他の子供たちが、自分たちという「未来」に媚びを売る中で、あの少女だけが、ただ「今」を生きていた。友を慈しみ、空を見て笑う。その何気ない姿が、彼の荒んだ心に、まるで清らかな水が流れ込むように染み渡った。あれこそ、自分が探し求めていたものではないのか。計算を知らない、太陽そのもののような生命力。この子なら、病弱な息子の隣で、そしてこの貧しい家で、希望の光となってくれるかもしれない。
「あの子だ」
王建国は、ほとんど無意識のうちに呟いていた。院長がその指差す方を見て、ああ、と頷く。
「京海ですね。とても明るくて、良い子ですよ」
だが、隣に立つ妻、兪秀英の心境は、夫とは全く異なっていた。
彼女もまた、京海のその太陽のような笑顔を見ていた。しかし、彼女が感じたのは、感動や希望ではなかった。それは、ひりつくような「妬み」だった。
なぜ、この子はこんな風に笑えるのだろう。親も知れず、こんな場所で育ちながら、何の屈託もなく、世界に愛されているかのように笑えるのだろう。自分は、党のために青春を捧げ、貧しさに耐え、夫に尽くし、子供のいないという欠落感を抱えて、必死で生きてきた。一度だって、あんな風に心から笑えたことなどなかった。それなのに、この名も知れぬ孤児は、いとも簡単にそれを手に入れている。
その輝きは、兪秀英にとって、自らの人生の欠落と不幸をまざまざと見せつける、残酷な光に他ならなかった。彼女の笑顔は、美しい。美しいからこそ、妬ましい。愛らしい。愛らしいからこそ、いつかこの手で捻じ曲げてしまいたくなるかもしれない。
女として、そして母になれなかった女として、彼女の心に、暗く、複雑な感情の渦が生まれた。この子を養女にすれば、家に光が差すかもしれない。しかし同時に、その光は、自分の心の闇を、より深く、より醜く照らし出すことになるだろう。
それでも、夫の喜びように満ちた顔を見て、彼女は反対することができなかった。それに、打算的な計算も働いていた。あれほど無垢であれば、自分たちの思い通りに染め上げるのは容易いはずだ。あの太陽を、自分たちの家の、自分たちの息子のためだけの「籠の中の太陽」にしてしまえばいい。
「……ええ。あの子にしましょう」
兪秀英は、心の渦を押し殺し、静かに頷いた。
京海が、自分が選ばれたことに気づいたのは、院長に呼ばれて夫婦の前に立った時だった。大きな手をした実直そうな男が、自分を見て嬉しそうに笑っている。その隣で、綺麗な顔立ちの女の人が、自分をじっと見つめている。その目に浮かぶ複雑な光の意味を、四歳の京海にはまだ知る由もなかった。
「このご夫婦たちと、家族になるんだよ」
そう言われても、京海にはぴんとこなかった。「家族」というものが、一体何なのか、彼女には分からなかった。ただ、いつも一緒にいた明と離れ離れになることだけは、すぐに理解できた。
出発の日、京海は、王建国が差し出した大きな手に、自分の小さな手を重ねた。その手は温かく、ごつごつしていた。孤児院の門の前で、明が声を殺して泣いていた。京海は明に駆け寄り、強く抱きしめた。
「大丈夫。またすぐに会えるよ。絶対だよ」
根拠のない、しかし力強い約束だった。
王建国は、そんな京海をひょいと腕に抱き上げた。がっしりとした胸板と、規則正しい心臓の鼓動が伝わってくる。それは、生まれて初めて感じる「父」というものの温かさだった。しかし、京海は彼の胸に顔をうずめることはしなかった。彼女は、王建国の肩越しに、どんどん小さくなっていく孤児院の門を、そして、いつまでも手を振り続ける明の姿を、じっと、じっと見つめていた。
涙は出なかった。
新しい世界への扉が開かれようとしている。その先で何が待っているのか、彼女にはわからない。ただ、養母となる兪秀英の、自分に向けられる笑顔が、なぜか少しだけ冷たく感じられたことだけが、小さな胸に不思議な感触として残っていた。
養父の背中の向こうに消えていく過去(孤児院)と、腕に抱かれて運ばれていく未来(新しい家)。後ろを向きながら、前へと進む。この長い帰り道が、金色の星のように輝く少女・京海の、波乱に満ちた冒険の、本当の始まりとなるのだった。




