4. 知恵という名の盾
京海の心の中の嵐を知る由もなく、雷は、ついに最後の総攻撃を開始した。
紅の父親が正式に失脚し、「反党集団の主要メンバー」として逮捕されたという確たる情報を手に入れたのだ。これは、決定的なカードだった。
「同志たち!紅は、反党分子の父親と、密かに連絡を取り合い、この農場を、反革命の拠点にしようと企んでいた!」
雷は、再び批判大会を招集し、紅を壇上へと引きずり出した。
「そして、その背後には、常にブルジョア思想に汚染された、京海と梁がいる!この三名こそ、我々の隊列に潜む、最大の敵だ!彼らは、牛棚の妖怪変化どもと結託し、この星火農場の転覆を企んでいたのだ!」
それは、あまりに荒唐無稽な、捏造だった。しかし、紅の父親が逮捕されたという「事実」が、その嘘に、恐ろしいほどの真実味を与えていた。仲間たちの目は、もはや、京海たちを、疑いと憎悪の色で見ていた。彼らは、自らの身の潔白を証明するために、誰かを生贄に差し出すことを、心のどこかで望んでいた。
梁が、前に進み出ようとした。京海が、それを、目だけで制した。もう、あの夜のような、自己犠牲ごっこは通用しない。この狂気の法廷では、真実も、論理も、意味をなさない。
京海は、壇上の雷を、静かに見つめた。その瞳は、もはや怒りも、悲しみも、恐怖さえも映してはいなかった。ただ、深く、そして底なしの、冷たい憐れみをたたえていた。彼女は、牛棚の老人たちから学んだ。この体制と、真正面から戦ってはいけない。それは、ただ、彼らの土俵の上で、彼らのルールに従って、殺されるだけだ。嵐の前では、柳のように、頭を垂れろ。
彼女は、一歩、前に出た。そして、誰もが予期しない言葉を、はっきりと口にした。
「雷同志の言う通りです。私たちは、罪を犯しました」
広場が、どよめいた。梁と紅が、信じられないという顔で、京海を見た。
「私たちは、紅同志の父親が、調査を受けているという事実を知りながら、そのことを報告せず、彼女を庇い続けました。これは、階級的立場が、革命的原則よりも、個人的友情という『私』の心を優先してしまった、我々の弱さの表れです。我々は、毛主席の教えに、背きました」
彼女は、あっさりと、自らの「罪」を認めたのだ。しかし、彼女の言葉は、そこで終わらなかった。彼女は、懐から、常に持ち歩いている赤表紙の「毛主席語録」を取り出し、高く掲げた。
「しかし、偉大なる毛主席は、こうも教えておられます。『過ちを犯すことを恐れてはならない。過ちを改めることを恐れよ』と!そして、『懲前毖後、治病救人(過去の過ちを懲らしめ、将来を戒め、病を治して人を救う)』。これが、同志に対する、我々の党の、一貫した方針であるはずです!」
彼女の声は、広場の隅々まで響き渡った。その声には、罪人の弱々しさはなく、むしろ、党の教義を説く、政治委員のような、揺るぎない力があった。
「私たちは、未熟で、過ちを犯しました。だからこそ、私たちはこの星火農場へ、貧農下中農から再教育を受けるために来たのです。雷同志、あなたは、私たちを、この農場から『敵』として排除するのですか?それとも、毛主席の教え通り、病にかかった『同志』として、我々を治療し、救ってくださるのですか?私たちに、労働と思想改造によって、真のプロレタリア戦士へと生まれ変わる機会を、与えてくださるのですか?」
彼女は、雷に、究極の選択を突きつけたのだ。毛沢東語録という、誰も逆らえない絶対的な権威を盾にして。
もし、雷が京海たちを断罪すれば、それは毛主席の「治病救人」の方針に逆らう、「個人的な復讐」だと見なされかねない。しかし、もし彼らを許せば、彼の権威は大きく傷つく。
雷は、狐につままれたような顔をしていた。彼は、京海が抵抗し、反論し、そこを叩き潰すというシナリオを用意していた。しかし、彼女は、彼の武器であるはずの語録を逆手に取り、見事な論理ですり抜けてみせたのだ。群衆もまた、戸惑っていた。京海の言葉は、あまりに「正しく」、反論のしようがなかったからだ。
京海は、続けた。
「我々は、人民の批判を、受け入れます。いかなる処分も、甘んじて受けます。我々三人には、まだブルジョア的な友情の絆が残っています。それを断ち切るためにも、我々を、バラバラの、最も厳しい部署へと配置してください。そして、我々の思想が、真に改造されたかどうか、人民の目で、厳しく監視してください!」
それは、全面降伏の形をとった、完璧な自己防衛だった。そして、雷にとっては、それを受け入れるしか、選択肢は残されていなかった。




