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路 金色の星―京海物語(青木家サーガ第2作)  作者: 光闇居士


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3. 老獪なる狐たちの、魂の問答

最初の対話は、元対外連絡部の副部長だった、ダンと名乗る老人から始まった。彼は、痩せてはいたが、その立ち居振る舞いには、ヨーロッパの外交官のような洗練さが滲み出ていた。彼は、京海が運んできた、水のような粥を啜りながら、静かに尋ねた。


「娘さん。君は、我々がなぜ、ここにいるか知っているかね?」


「…資本主義の道を歩む、実権派だからだと、聞いています」


「ふむ。資本主義ね」鄧老は、面白そうに目を細めた。「では、君は、マルクスが定義した『資本主義』が、どのような生産様式の上に成り立つか、説明できるかね?そして、我々が解放前に打倒した、あの地主と官僚が支配する旧中国の社会が、その定義に当てはまると、本気で思うかね?」


京海は、言葉に詰まった。それは、考えたこともない問いだった。


「旧社会は、封建主義では…?」


「ほう、封建主義。それは、中世ヨーロッパの制度だ。土地を媒介にした、君主と諸侯の間の、双務的な契約関係。果たして、皇帝が絶対的な権力を持っていた我々の国に、その言葉は当てはまるだろうか?我々の数千年の歴史を、無理やり西洋から借りてきた物差しで測ろうとすること自体に、無理があるとは思わないかね?」


それは、問答の形をとった、静かな毒の注入だった。鄧老は、党の正当性の根幹であるはずの、歴史認識そのものを、巧みに揺さぶってきたのだ。京海は反論しようとした。「しかし、党の歴史観は…」


「ああ、そうだ。我々が若い頃、理想に燃えていた頃は、コミンテルンから来た指導員たちが、そう教えてくれた。我々の党は、ソビエトの『長兄』の指導の下で生まれた、国際共産主義運動の一支部なのだ、と。だから、我々の歴史も、彼らの理論の枠組みで解釈しなければならなかった。…だが、本当にそうだったのかね?我々は、マルクスのために革命をやったのか、それとも、この国の民のためにやったのか。時々、分からなくなるよ」


挿絵(By みてみん)


京海は、衝撃を受けた。中国共産党が、ソ連の一支部に過ぎなかった?そんな話は、聞いたこともない。党は、中国の土壌から、人民の苦しみの中から、自然発生的に生まれた、偉大な存在だと教えられてきた。鄧老の言葉は、その神話に、最初の亀裂を入れた。


次の対話者は、かつて人民解放軍の野戦軍司令官だった、ファンという老人だった。彼は、片足を失っており、常に壁にもたれて座っていた。その目は、獲物を狙う鷹のように鋭かった。


「小娘、お前、ここの連中が、なぜ失脚したか、本当の理由を知っているか?」彼は、唾を吐き捨てるように言った。


「政治路線が、毛主席の思想と違っていたから…」


「路線だと?馬鹿を言え」方司令は、鼻で笑った。「政治とはな、路線や思想のことじゃない。椅子取りゲームのことだ。椅子は一つしかない。だが、座りたい奴は、常に二人以上いる。その時、どうやって勝者を決める?理論闘争か?違う。暴力だよ。誰が、相手を、より効果的に、より残忍に、排除できるか。それだけだ」


彼は、壁の向こうを睨みつけるように、続けた。「延安の整風運動を知っているか?あれは、思想統一のための、美しい運動だったと教えられただろう。嘘だ。あれは、毛主席が、ライバルたちを粛清するための、血の嵐だった。何千人もの同志が、『スパイ』の濡れ衣を着せられ、拷問され、殺された。なぜか?彼らが、違う意見を持っていたからだ。党の統一のためには、それが必要だったのだ。そして今、この文化大革命も、本質は同じだ。劉少奇や鄧小平が、本当に資本主義者だったと思うか?違う。彼らは、毛主席の椅子を脅かす存在になった。ただ、それだけのことだ」


京海の体は、震えていた。同志を、殺す?党の統一のために?彼女が信じてきた、人民のための、自己犠牲と友愛に満ちた党の姿が、音を立てて崩れ去っていく。そこに見えてきたのは、剥き出しの、血生臭い、権力闘争の論理だけだった。彼女は、唇を噛みしめ、反論した。「それは、革命の過程で、避けられなかった過ちです。一部の過ちが、党全体の崇高さを否定するものではありません!」


方司令は、彼女のその必死の抵抗を見て、初めて少しだけ表情を和らげた。「…そうだな。かつての俺も、そう信じていたよ」


極めつけは、リンと名乗る、元中央書記処の書記だった。彼は、インテリらしい、皮肉な笑みを常に浮かべていた。彼は、ある日、京海にこう語りかけた。


「娘さん。君のような純粋な瞳を見ていると、我々が、何を夢見ていたかを思い出すよ」


彼の口調は、穏やかだった。


「君は、共産主義の、最終的な目標を知っているかね?」


「すべての人民が、搾取や圧迫から解放され、平等で、豊かな社会を築くことです」


「それだけではない」林書記は、首を横に振った。「それは、ほんの入り口だ。我々の、本当の使命は、一つの国を救うことなどではない。全人類を、資本主義という、人間が人間を喰らう、非人間的なシステムの軛から、永遠に解放することだ。国家も、民族も、国境さえも超えて、地球上のすべての人々が、一つの共同体として生きる世界。それこそが、我々が目指したユートピアだ。中国革命は、そのための、最初の、そして最も重要な拠点作りに過ぎなかったのだ」


その言葉のスケールの壮大さに、京海は息を呑んだ。そうだ、これこそ、自分が信じてきた革命の、本当の姿だ。なんと、崇高で、美しい理想だろう。


しかし、林書記は、その皮肉な笑みを再び浮かべると、続けた。


「だが、見てみろ、この様を。その崇高な理想を掲げた我々が、今、何をしている?互いの些細な言葉尻を捉え、過去の罪を暴き立て、同志を『蛇』と呼び、憎み合っている。一体なぜ、こんなことになったと思うかね?」


京海は、答えることができなかった。


「それはな、娘さん」林書記は、その笑みを消し、氷のように冷たい目で、京海を見つめた。「恐怖によって、すべての人間関係を破壊するためだよ。家族、友人、師弟といった、人間が本来持つべき、自然な信頼の絆を、すべて断ち切らせるためだ。なぜなら、それらの絆は、『党への絶対的な忠誠』の、邪魔になるからだ。人々は、誰も信じられなくなる。孤独になり、無力になる。そして、孤独で無力な人間が、最後に唯一、頼れるものは何かね?」


京海は、林書記が何を言おうとしているか、悟ってしまった。


「党だよ。そして、その象徴である、偉大なる指導者だ。党は、まず、お前たちからすべてを奪う。家族の愛も、友の信頼も、師の教えも。そして、その空っぽになった魂に、唯一絶対の『党への忠誠』という、麻薬を注入するのだ。そうやって作られた国民は、決して裏切らない。なぜなら、裏切った先には、何もないのだからな。これこそが、この体制の、最も巧妙で、最も邪悪な発明品だよ。人間を、非人間へと改造する、巨大な工場。それが、我々が理想の果てに作り上げてしまった、この新中国の、本当の姿なのさ」


林書記の言葉は、京海の魂に、決定的な一撃を与えた。


親友の明との誓い。梁への、打ち明けられない恋。紅との、炎の中の友情。張先生への、永遠の敬意。彼女が、大切に、大切に、胸の中に抱きしめてきた、それらの人間的な感情のすべてが、この体制にとっては、打倒されるべき「私」の心であり、破壊されるべき「旧世界の絆」に過ぎなかった。


そして、彼女は理解した。自分たちがやっていることは、革命でも、建設でもない。それは、人間の心を、魂を、計画的に破壊していく、壮大な儀式なのだと。自分たちは、人民の社会を築いているのではなく、人民がお互いを信じられなくなる、巨大な地獄を築いているだけではないのか。


いや、違う、と京海は首を振った。そんなはずはない。この老人たちは、権力闘争に敗れた、ただの敗北主義者だ。彼らの言葉は、自分の失敗を正当化するための、歪んだ言い訳に過ぎない。そうだ、そうに違いない。彼女は、必死に自分の心に言い聞かせた。しかし、一度蒔かれた疑念の種は、彼女の心の中で、恐ろしい速さで根を張り始めていた。

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