3. 嵐の夜、炎の中の告白 (1968年初頭)
1968年の冬は、星火農場にとって、最も暗い季節となった。
上海で吹き荒れていた武闘の嵐が、農場にも飛び火してきたのだ。紅衛兵の各派閥が、互いを「反革命的」と罵り合い、農場の主導権を巡って、対立を深めていた。雷は、最も過激な一派を率い、穏健派である王場長たちを「修正主義者」として攻撃し始めた。農場は、生産の場ではなく、政治闘争の舞台と化していた。
そんな一触即発の空気の中、雷は、ついに決定的な行動に出た。
彼は、数人の手下と共に、深夜、梁が寝ている宿舎に押し入った。そして、彼のわずかな私物の中から、一冊の古いノートブックを発見したのだ。それは、梁が父親から受け継いだもので、中には、父親が読んだ西洋哲学に関する考察や、いくつかの詩が、美しい文字で書き留められていた。
「見つけたぞ!反革命分子の、黒い証拠だ!」
雷は、そのノートを高く掲げ、勝利を宣言した。
「こいつは、ブルジョアジーの毒草に汚染されている!父親の反動思想を受け継ぎ、我々プロレタリアートの間に、その毒を撒き散らそうとしていたのだ!」
梁は、顔面蒼白になってノートを奪い返そうとしたが、屈強な男たちに押さえつけられた。事態は、瞬く間に農場全体に広まった。雷たちは、その夜のうちに、梁を「現行犯の反革命分子」として糾弾するための、即席の批判大会を開くことを決定した。
知らせは、嵐のように京海の耳に届いた。彼女は、血の気が引くのを感じた。この時代の「反革命分子」というレッテルが、何を意味するか。それは、死刑宣告にも等しい。張先生の、あの無残な最期が、脳裏に焼き付いて離れない。
紅が、京海の元へ駆け込んできた。彼女の顔もまた、恐怖と混乱で歪んでいた。
「京海、どうしよう…!梁が…!」
「落ち着いて、紅。考えましょう」
京海の声は、震えていなかった。絶望的な状況であればあるほど、彼女の頭脳は、氷のように冴え渡る。
「雷たちの目的は、梁じゃない。彼をダシにして、王場長たち穏健派を一掃し、農場の実権を握ることよ。これは、ただの批判大会じゃない。クーデターなのよ」
その時、外で、銅鑼の音がけたたましく鳴り響いた。批判大会の始まりを告げる合図だ。もう、時間がない。
農場の広場には、松明が焚かれ、異様な熱気と殺意に満ちていた。梁は、広場の中央に引きずり出され、両腕を後ろにねじ上げられていた。その顔には、もはや色はない。ただ、固く結ばれた唇だけが、彼の最後の抵抗を示していた。
雷が、壇上に立ち、ノートを振りかざして演説を始めた。
「同志たちよ!我々の隊列の中に、蛇が紛れ込んでいた!こいつは、その毒牙で、我々の革命を内側から食い破ろうとしていたのだ!」
群衆は、それに呼応して、拳を突き上げ、スローガンを叫んだ。「反革命分子を打倒せよ!」「ブルジョアジーの犬を叩き出せ!」
京海は、群衆の後ろの方で、その光景を見ていた。彼女の頭の中で、いくつもの選択肢が、火花のように明滅していた。力ずくで助けに入るか?いや、無駄だ。雷たちに、新たな攻撃の口実を与えるだけだ。王場長に助けを求めるか?いや、彼自身も、今や泥舟に乗っている。
どうすれば、梁を救える?
どうすれば、この狂気の流れを、止められる?
彼女の視線が、壇上の雷と、その足元で燃え盛る焚き火に注がれた。そして、彼女の心は、決まった。
彼女は、静かに群衆をかき分け、前へと進み出た。誰もが、彼女の予期せぬ行動に、息を呑んだ。彼女は、壇上の雷をまっすぐに見据え、凛とした、しかしどこか哀しげな声で言った。
「そのノートは、私のものです」
広場が、水を打ったように静まり返った。雷でさえ、一瞬、何を言われたのか理解できない、という顔をした。
「なんですって?」
「だから、言っているの。そのノートは、私が梁同志に、読んでほしいと頼んで預けた、私のものだと」
それは、あまりにも大胆で、あまりにも明白な嘘だった。だが、京海のその態度には、嘘を真実に変えてしまうほどの、圧倒的な迫力があった。
「私が、彼をそそのかしたのです。私が、ブルジョア思想に汚染されていたのです。彼には、何の罪もありません。裁かれるべきは、この私です」
彼女は、自ら、梁の罪をすべて被ろうとしていた。それは、自己犠牲というより、もっと計算された、捨て身の戦術だった。雷たちの真の狙いが、梁個人ではなく、彼を通して穏健派を攻撃することにあるのなら、雷は、この予期せぬ「大物」の登場に、戸惑うはずだ。京海は、農場の誰もが知る、労働模範であり、若者たちの中心人物だ。彼女を裁くことは、梁を裁くことよりも、ずっと大きなリスクと反発を伴う。
梁が、信じられないという顔で、京海を見つめていた。「京海!何を言うんだ!やめろ!」
その叫びは、京海が、彼の前に立ちはだかることで、遮られた。
雷は、混乱していた。だが、彼はすぐに、この状況を自分に有利に転換できると考えた。そうだ、京海こそが、本丸だ。彼女を屈服させれば、農場の若者たちは、すべて自分の支配下に入る。
「そうか!やはりお前だったか、京海!お前こそが、この農場にブルジョア思想を持ち込んだ、元凶だったのだな!」
雷が、京海に歩み寄ろうとした、その時だった。
「待ちなさい!」
その声に、誰もが振り返った。そこに立っていたのは、紅だった。彼女は、顔を蒼白にさせながらも、その瞳には、決意の炎が燃えていた。彼女は、京海の隣に立つと、震える声で、しかしはっきりと叫んだ。
「そのノートは、私たちのものです!私と、京海が、一緒に読んでいたものです!梁同志は、私たちの学習の手助けをしてくれていただけです!罪があるというのなら、私たち二人を、一緒に裁きなさい!」
紅の、魂の叫びだった。彼女は、選んだのだ。革命の純粋性という、冷たい教義ではなく、友の命という、温かい人間性を。思想と友情の狭間で苦しみ抜いた末に、彼女は、一人の人間として、愛する友と共に、炎の中に飛び込むことを決意したのだ。
広場は、完全な混乱に陥った。まさか、農場の二人のヒロインが、自ら罪を名乗り出るとは。雷の描いた単純なシナリオは、完全に崩壊した。
その時、京海は、振り返って梁を見つめた。松明の炎が、二人の顔を赤く照らし出していた。その瞳の中で、二人は、最後の、そして最も雄弁な会話を交わしていた。
梁の瞳は、言っていた。『なぜだ。なぜ、君が…』
京海の瞳は、答えていた。『あなたを、失いたくなかったから』
梁の瞳が、苦痛に歪んだ。『君を、こんな危険に晒してしまった…』
京海の瞳は、優しく、そして力強く、微笑んでいた。『いいえ。これで、良かったの』
それは、暗黙の、炎の中の告白だった。言葉にしてしまえば、ブルジョア的だと断罪される、その感情。しかし、互いの命を賭して相手を守ろうとする、その行為そのものが、どんな愛の言葉よりも、深く、強く、真実だった。
彼らは、気づいていた。この恋は、もはや、二人だけのものではない。紅を、そして、あるいは農場の未来さえも巻き込む、危険な火種になってしまったことを。




