第一部:籠の中の反逆者 (1954-1966) 第一章:金色の飾り
1949年5月27日、上海。
硝煙の匂いは、まだ黄浦江の湿った風に混じり、街の隅々に粘りつくように残っていた。数日前まで響き渡っていた銃声は、今はもう遠い雷鳴のように、散発的に聞こえるだけだ。アジア一の魔都と呼ばれたこの街は、主を変えた。人民解放軍の兵士たちが纏う、簡素で実用的な灰緑色の軍服が、外灘の壮麗な西洋建築群を、まるで墨汁が一滴ずつ染みていくように、ゆっくりと覆い尽くしていく。
その建ち並ぶ石造りの巨人の一つ、かつてキャセイ・ホテルと呼ばれた豪華ホテルの分厚い扉を、一隊の兵士が押し開けた。先頭に立つのは、李強、まだ二十歳になったばかりの若い兵士だった。湖南の貧しい農村で生まれ育った彼にとって、この光景は夢か幻のようだった。磨き上げられた大理石の床、天井から下がる水晶のシャンデリア、螺旋を描く壮大な階段。それはブルジョアジーの退廃の象徴だと、政治学習で繰り返し教えられてきた。しかし、目の前に広がる圧倒的な美は、彼の若い心を、教え込まれた憎悪とは別の、畏敬にも似た感情で揺さぶった。
「気を抜くな! 敵の残党が潜んでいるかもしれん」
分隊長の趙が、低いがよく通る声で命じた。彼は歴戦の勇士で、その顔には幾多の戦場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、岩のような厳しさが刻まれている。彼の胸元では、「人民解放軍」と白く染め抜かれた赤い布製のバッジが、薄暗いロビーの中で唯一の鮮烈な色彩のように見えた。兵士たちは頷き合い、銃を構え直す。灰緑色の簡素な八角帽を被り、襟に鮮やかな赤い襟章を付けた兵士たちの、土埃にまみれた軍靴が踏むには、足元の深紅の絨毯はあまりに柔らかく、あまりに贅沢だった。
空気は、死んだように静まり返っていた。しかし、その静寂の中には、置き去りにされた者たちの残り香が満ちていた。微かに漂う高級な香水の甘い匂い、こぼれた洋酒の芳醇な香り、そしてそれら全てを覆い隠す、埃と恐怖の酸っぱい匂い。彼らは国民党の高級官僚や、彼らに富を吸い上げられていた買弁資本家たちが、いかに慌ててこの巣から逃げ出したかを、その残り香から嗅ぎ取っていた。
分隊は、階段を慎重に上り、階上を掃討し始めた。一室、また一室と、重厚な扉を蹴破る。中は、どこもかしこも狼藉の跡が生々しかった。床には、引き裂かれた絹のチャイナドレスや、中身の抜かれた革のトランクが散乱している。化粧台の上には、倒れた銀の写真立ての横で、口紅が血の跡のように転がっていた。ある部屋では、テーブルの上に飲みかけのブランデーとグラスが二つ、まるでついさっきまで誰かがいたかのように置かれていた。主を失った贅沢品たちは、声なき骸のように、解放軍の兵士たちの前にその無残な姿を晒していた。
李強は、床に落ちていた小さな革靴を、銃の先でつついてみた。子供用の、真珠のような飾りがついた愛らしい靴だった。こんなものを履く子供は、どんな暮らしをしていたのだろう。自分たちが、土色の肌に汗を光らせ、擦り切れた灰緑色の軍服を着て、飢えと搾取から人民を解放するために命を懸けて戦っている間に、この街では、こんなにも違う時間が流れていた。彼の心に、燃えるような階級的憤怒と、得体のしれない虚しさが同時に込み上げてくる。
「最上階だ。ここは特別室のはずだ。一番の大物が使っていただろう」
趙分隊長が呟き、一行は最上階のスイートルームの前に立った。両開きの、彫刻が施された豪奢な扉だ。兵士たちが数人がかりで体当たりをすると、錠がけたたましい音を立てて壊れ、扉が内側へと開いた。
中は、下の階のどの部屋よりも広く、そして奇妙なほど整然としていた。まるで、嵐が過ぎ去った後の、嵐の目のように。窓の外には、夕暮れに染まり始めた上海の街並みと、蛇行する黄浦江が広がっている。部屋の中央には、天蓋付きの巨大なベッドが鎮座していた。そして、そのベッドの上には、燃えるような、真っ赤な真絹の掛け布団が、不自然にこんもりと盛り上がっていた。
分隊の誰もが息を呑んだ。この静けさは異常だ。趙分隊長が手で合図を送り、二人の兵士がベッドの両脇に回り込む。李強は、ゴクリと唾を飲み込みながら、銃を固く握りしめた。心臓が、肋骨の内側で警鐘のように鳴り響いている。
趙分隊長が、ゆっくりとベッドに近づいた。彼は銃を構えたまま、空いている方の手で、真紅の布団の端を掴んだ。部屋中の視線が、その一点に集中する。
次の瞬間、趙分隊長は、掛け布団を勢いよく剥ぎ取った。
そこにいたのは、銃でも、手榴弾でも、ましてや敵の残党でもなかった。
真っ白なシーツの海の中央に、ぽつんと、一人の赤子が横たわっていた。
兵士たちの荒い呼吸が、一瞬にして止まった。時間の流れが、まるで分厚い蜜の中を進むように、ねっとりと遅くなる。
赤子は、生まれてまだ数ヶ月といったところだろうか。あまりに小さく、あまりに無防備だった。この世の醜悪さなど何も知らない、黒曜石のように澄んだ瞳で、天井のシャンデリアをじっと見つめている。その肌は、上質な白磁のように滑らかで、頬は熟れた桃のようにほんのりと赤い。
そして、兵士たちの目を釘付けにしたのは、その小さな体に付けられた異様な装飾品だった。
ぷっくりとしたその右手首と左手首には、純金でできた腕輪が。そして、か細い両の足首にもまた、同じく純金の足輪が、ずしりと嵌められていた。夕暮れの光が窓から差し込み、その黄金を鈍く、妖しく光らせる。それは、祝福の証というにはあまりに重々しく、まるでこの小さな体をこの世に繋ぎ止めるための、美しい枷のように見えた。
「……赤子だ」
誰かが、かすれた声で言った。その一言で、部屋の張り詰めていた空気が、ぷつんと音を立てて切れた。兵士たちは、互いに顔を見合わせる。その顔には、安堵と、それ以上の深い困惑が浮かんでいた。
ここは敵の巣窟だ。この赤子は、人民を搾取し、国を売り、そして我々と殺し合った、あの国民党の誰かの子供に違いない。憎むべき敵の血を引く者だ。
だが、目の前の存在は、そんなイデオロギーなどまるで意味がないと嘲笑うかのように、ただ無垢に、そこに在るだけだった。不意に、赤子が小さな声で「あう」と呟き、ふにゃりと笑った。
その瞬間、李強は、自分の胸の奥が、熱いもので締め付けられるのを感じた。
「どうしますか、分隊長」
一人の兵士が尋ねた。
「上の指示を仰ぐべきです。処置を誤れば、我々の規律が問われます」
「敵が残していった『砂糖菓子に包まれた毒』という可能性も…」
兵士たちの間で、囁き声が交わされる。ある者は戸惑い、ある者は警戒し、ある者は憐憫の情を浮かべていた。彼らは、昨日まで銃弾の飛び交う中で死線を乗り越えてきた戦士だ。人を殺すことには慣れていた。だが、この小さな命を前にして、どうすればいいのか、誰にも分からなかった。
趙分隊長は、しばらくの間、腕を組んで赤子を黙って見つめていた。その岩のような顔に、様々な感情が通り過ぎていく。やがて彼は、静かに口を開いた。
「我々は何のために戦ってきた?」
その問いに、誰も答えられなかった。
「我々は、人民を解放するために戦ってきた。この国に生きる、すべての人々を、圧制から救うためにだ。違うか?」
趙分隊長は、兵士たち一人一人の顔を見回した。
「この赤子も、人民の一人だ。親が誰であろうと、どんな血が流れようと、これからなる新中国に生まれた人民には違いない。我々人民解放軍が、人民を見捨てることなど、断じてあってはならん」
その言葉は、静かだったが、部屋の隅々まで響き渡った。それは、政治委員の演説よりも、ずっと兵士たちの心を打った。そうだ、我々は、この子のようなか弱い者を守るために、銃を取ったのだ。
「李強」
趙分隊長に呼ばれ、李強ははっとして顔を上げた。
「お前が抱いてやれ」
「は、はい!」
李強は、銃を背中に回し、おそるおそるベッドに近づいた。赤子を抱くなど、もちろん初めての経験だ。彼は、どうすればいいのか分からず、戸惑いながら、その小さな体の下に両手を差し入れた。
赤子の体は、驚くほど温かく、そして柔らかかった。ずしりとした重みが、彼の腕に伝わる。それは、命の重みそのものだった。腕輪と足輪の、ひやりとした金属の感触が、赤子の肌の温かさと奇妙な対照をなしている。李強が不器用ながらも抱き上げると、赤子は、彼の軍服の襟を、その小さな指で、きゅっと掴んだ。その指先が、彼の首筋に近い赤い襟章に、ふに、と触れた。革命の象徴である赤と、生まれたばかりの命の無垢な指先の対比が、李強の胸を激しく打った。
彼の心の中で、何かが音を立てて溶けた。階級的憤怒も、イデオロギーも、すべてが洗い流されていく。腕の中にいるのは、敵の子ではない。ただ、守るべき、か弱く、愛おしい命だった。感動に近い、激しい感情が彼の胸を貫いた。この子を守りたい。この子のために、新しい国を作らなければならない。彼は、心の底からそう思った。
その夜、分隊は軍用のトラックで、夜の上海を走っていた。赤子は、李強の腕の中で、すやすやと眠っていた。趙分隊長は、知り合いの伝手を頼り、一軒の孤児院を探し当てていた。
トラックが止まったのは、租界時代の面影が残る、静かな郊外の一角だった。高い塀に囲まれた、レンガ造りの建物。門の上には、古びた十字架が掲げられていた。キリスト教系の孤児院だ。新政府の方針とは相容れない部分もあるだろうが、今は子供を預けるにはここしかない、と趙分隊長は判断した。
門を叩くと、中から現れたのは、質素な黒い服を着た、初老の中国人女性院長だった。彼女は、襟に赤い布を付け、八角帽を被った、銃を背負う兵士たちを見て一瞬身を硬くしたが、李強の腕の中の赤子を見ると、その厳しい表情を和らげた。
趙分隊長は、事情をかいつまんで説明した。ホテルで見つけたこと、親は分からないこと。
「この子の名前は?」と院長が尋ねた。
趙分隊長は、少しの間考え、そして言った。
「首都は北京の京。この上海の海で見つけた。…京海とでも、呼んでやってください」
それが、私の母、京海の名前の由来となった。
院長は、深く頷き、京海を李強の腕からそっと受け取った。金の腕輪と足輪は、いつか親が見つかるかもしれない唯一の手がかりとして、院長が責任を持って預かることになった。
京海は、見知らぬ女の腕に移されても、眠り続けたままだった。李強は、その寝顔を名残惜しそうに見つめていた。自分の指先に、まだ彼女の温もりと、襟の赤い布地に触れた小さな指の感触が、生々しく残っている。
重い鉄の門が、ゆっくりと閉ざされていく。門の向こうに、京海の、そしてこの国の新しい運命が始まろうとしていた。
兵士たちは、再びトラックの荷台に乗り込み、夜の闇へと走り去った。李強は、荷台に揺られながら、上海の街の無数の灯りを見つめていた。腕の中の温もりは消えたが、彼の胸の中には、確かな熱が灯っていた。それは、一つの命を救ったという静かな誇りと、これから築き上げるべき未来への、重い責任感だった。
その時彼は、まだ知る由もなかった。自分たちが救ったその小さな命が、これから始まる激動の時代を、太陽のような笑顔で駆け抜け、数えきれないほどの嵐を乗り越えていくことを。そして、その腕に嵌められていた黄金の枷が、彼女の人生を生涯にわたって彩る、謎と冒険の始まりの合図であったことなど、知る由もなかったのである。
創作コンセプトと筆者の理念:『路 金色の星―京海物語』に込めた誓い
【創作コンセプト】
ひとりの少女の瞳が映し出す、引き裂かれた理想の時代
本作は、1950年から1970年という、中華人民共和国が最も激しく揺れ動いた時代を、ひとりの少女・京海の視点から描く大河ロマン。
物語の核は、「時代の鏡」としての京海である。
国民党政権が遺した高級ホテルで金色の装飾品と共に発見された謎の出自を持つ彼女は、旧社会の残り香と新社会の理想が混濁する時代の象徴である。彼女の天真爛漫な明るさ、鋼のような忍耐力、そして燃えるような情熱は、過酷な運命に翻弄されながらも、決して消すことのできない「人間の生命力そのもの」として描かれる。
読者は京海の冒険と成長を追体験することで、歴史の教科書が決して語らない、生身の人間の息遣い、街の匂い、そして時代の熱狂と絶望を肌で感じることになるであろう。また、これは単なる歴史小説ではなく、理不尽な世界を笑顔で駆け抜け、自らの手で運命を切り拓いていく、普遍的な魅力を持つヒロインの成長物語であり、友情と冒険の人間模様である。
【作者の理念】
我々がこの物語を今、語らねばならない理由。
私がこの物語描くための筆を取った根底には、現代を生きるすべての人々に伝えたい、三つの強い想いがある。
第一に、「希望」がいかにして「欺瞞」へと変貌したかを暴くこと。
中国共産党は建国前夜から初期にかけて、確かに多くの人々に「新中国」という輝かしい希望と夢を与えた。封建的な悪習を断ち切り、万人が平等な社会を築くという理想は、多くの若者を熱狂させた。本作の主人公・京海も、当初はその理想を心から信じ、党と毛沢東主席に純粋な情熱を捧げようとする。
しかし、その夢と希望は、最高指導者である毛沢東自身の猜疑心、権力欲、そして狂気によって、無残にも粉々に砕かれます。大躍進政策による未曾有の飢饉、文化大革命という名の党内抗争。本作は、京海という純粋な魂の持ち主の目を通して、その理想が裏切られ、国家が自国民に牙を剥いていく様を、一切の忖度なく描き出したい。
第二に、「人民のために」という化けの皮を剥がし、体制の邪悪な本質を告発すること。
「共産主義」「社会主義」が掲げる美しいスローガンの裏で、いかに個人の尊厳が踏みにじられ、暴力と理不尽が日常と化したか。その真実を伝えたいという強い怒りが、私を突き動かしている。この物語は、過去の歴史を語るだけではなく、その邪悪ともいえる統治体制は形を変え、今この瞬間も厳然と継続している。京海の親友・紅が、文化大革命で純粋な情熱を燃やした末に、やがて精神的な拠り所を求め、1990年代以降に江沢民政権から「憎悪と恐怖」の対象として激しい迫害を受ける気功を習う「法輪功」の一員となるという鮮烈な伏線を敷くのはそのためである。中国共産党が人々の魂から信仰心を奪った空白に何が生まれたのか、そして体制がその本質において、常に「異質なもの」を暴力で排除し続ける存在であることを、この伏線は未来への警告として示せると考え、さらなる続編ー息子義成の2000年~2014年までの中国破天荒な経済発展時代の波に身をゆだねる物語へ継いで行かせる。
第三に、それでもなお、人間の尊厳と希望は消せないと証明すること。
どれほど強大な権力が人々を抑圧しようとも、愛、友情、そしてささやかな日常の喜びを求める心までを奪うことはできない。京海の不屈の笑顔は、最も暗い時代にあっても人間が失わない「希望の光」の象徴であり、彼女の物語を通して、理不尽に立ち向かう勇気と、明日を信じることの尊さを描くこと。それこそが、この物語が目指す最終的な地点である。
この小説は、エンターテインメントの形を取りながらも、歴史の真実を次世代に継承し、巨大な権力構造の下で生きることの意味を問い、そしてどんな暗闇の中にも必ず光はあるという希望を届けるための、筆者のすべての人への応援歌であり、魂からの叫びである。
光闇居士




