2. 暗闇に灯る、歌と一椀の粥
日は暮れ、労働は終わる。しかし、青年たちにとって、本当の試練は、夜の宿舎で始まった。
肉体の疲労は、精神の壁を脆くする。宿舎の中は、絶望と、苛立ちと、郷愁が渦巻いていた。ある者は、上海の家族を思って、布団の中で声を殺して泣いた。ある者は、「こんなはずじゃなかった」と、互いに不満をぶつけ合い、喧嘩を始めた。虎のような、上海では威張っていた者たちも、ここでは何の権威も持たなかった。彼は、慣れない労働で体を痛め、一番大きな声で不平を漏らしていた。
紅は、そんな彼らをまとめようと、必死だった。
「同志たち!夜は、政治学習の時間だ!毛主席語録を読み、我々の思想を鍛え直そうではないか!」
彼女は、ランプの灯りの下で、分厚い語録を開いた。しかし、疲れ果てた青年たちの耳に、その言葉は届かなかった。それは、空腹の者にとっての、絵に描いた餅のように、空虚で、苛立たしいだけだった。
そんな重苦しい沈黙を破ったのは、またしても京海だった。
その夜、一人の少女が、高熱を出して倒れた。医者などいないこの農場で、それは命に関わる事態だった。誰もが、どうすることもできず、ただ遠巻きに見ているだけだった。
京海は、黙って立ち上がると、自分の寝床から、予備の掛け布団を持ってきた。そして、熱に浮かされる少女の体を、優しく拭いてやり、その布団をかけた。次に、彼女は自分の夕食の、まだ手をつけていなかった粥の椀を持ってくると、匙で少しずつ、少女の口元へと運んだ。
「食べなさい。少しでも食べないと、力が出ないわ」
その声は、命令でも、叱咤でもなかった。ただ、深く、穏やかな、慈しみに満ちた響きを持っていた。
紅は、その光景を、呆然と見ていた。彼女は、病気の同志を前に、思想の重要性を説こうとしていた。しかし、京海は、ただ、目の前の命に必要なものを、静かに与えていた。一枚の布団と、一椀の粥。そのどちらが、本当に人間を救うのか。紅は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
やがて、京海は、病気の少女のそばに座り、静かに歌を口ずさみ始めた。それは、革命歌ではなかった。上海の路地裏で、子供たちが歌っていた、古い、古い子守唄だった。
その素朴で、優しいメロディは、ランプの揺れる薄暗い宿舎の中に、ゆっくりと染み渡っていった。すすり泣きが、止んだ。言い争いが、消えた。疲れ果てた青年たちは、まるで魔法にかかったように、その歌声に耳を傾けた。歌は、彼らのささくれた心を、母親の手のように優しく撫でた。それは、彼らがほんの数時間前に離れてきたばかりの、温かい日々の記憶を呼び覚ました。
歌い終わった時、宿舎は、深い静寂に包まれていた。それは、絶望の沈黙ではなく、嵐の後に訪れるような、穏やかで、清らかな静寂だった。青年たちは、互いの顔を見合わせた。その目には、敵意や不信ではなく、同じ苦しみを分かち合う、仲間としての連帯の光が、初めて灯っていた。
梁は、その一部始終を、息を詰めて見ていた。彼は、京海という人間の、本当の凄みを理解した。彼女の強さは、鋼の意志だけではない。この、他者の痛みを包み込む、海のような優しさこそが、彼女の魂の核なのだ。彼女は、思想で人を動かすのではない。愛で、人を癒すのだ。彼は、ポケットから、いつも持ち歩いている小さな手帳を取り出すと、震える手で、こう書き留めた。
『星は、自らは燃えず。ただ、光を与えることによって、暗闇を照らす』
この夜を境に、宿舎の空気は変わった。青年たちは、京海を中心に、一つの共同体としてまとまり始めた。彼女は、リーダーとして振る舞ったわけではない。しかし、誰もが、自然と彼女の周りに集まってきた。彼女が繕い物をしていれば、手伝う者が現れた。彼女が次の日の作業の工夫を考えていれば、知恵を貸す者が現れた。
紅も、京海に心酔していた。彼女は、自分のやり方が間違っていたことを悟った。
「京海、あなたはすごいわ。私には、あなたのような真似はできない。私は、どうすればいいのかしら」
「紅、あなたはそのままでいいのよ」
京海は、優しく微笑んだ。
「あなたの情熱は、みんなの心を燃え立たせる力があるわ。私には、それはできない。私たちが力を合わせれば、きっと、もっと強くなれる」
二人の少女は、固い握手を交わした。一人は太陽のように皆を温め、一人は炎のように皆を鼓舞する。対照的な二つの力が、この星火農場の若者たちを支える、二本の柱となった。




