表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
路 金色の星―京海物語(青木家サーガ第2作)  作者: 光闇居士


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/31

第二部『星火、燃え上がるとき』 第六章:さらば、上海

挿絵(By みてみん)

【しおの ひろゆき】



私の名前は、ミン。ただ光を意味するだけの、ありふれた名前。この上海の空の下には、私と同じ名前を持つ少女が、星の数ほどいることでしょう。私は、そんな星屑の一つに過ぎません。特別に美しいわけでも、賢いわけでも、強いわけでもない。ただ、私には、たった一つだけ、誰にも譲れない誇りがあります。

それは、私が、京海ジンハイの、一番の親友であるということです。

京海。その名を口にするだけで、私の胸の奥に、小さな太陽が灯るような気がします。彼女は、私の太陽。私の、一番星。私がこの灰色の世界で生きていられるのは、彼女という光が、いつも私の進む道を照らしてくれるから。

今、私の手元に、その京海から届いた一通の手紙があります。市の収容施設の、ざらついた机の上で、私はもう何度目になるか分からないその手紙を、そっと開きました。インクの匂いに混じって、あの喧騒に満ちた上海駅の匂いが、そして、彼女自身の、太陽のような匂いが立ち上ってくるかのようです。


________________________________________

拝啓、私の愛する明へ

これを読んでいる頃、私はもう、上海にはいません。

今、私は、西へ向かう緑色の列車の中にいます。窓の外を、見たこともない景色が、ものすごい速さで流れていきます。家々が、木々が、電信柱が、まるで過去の記憶のように、あっという間に遠ざかっていく。ガタン、ゴトン。この規則正しい揺れと音が、まるで新しい時代の心臓の鼓動のように聞こえます。

心配しないで、明。これは、逃亡なんかじゃないわ。これは、私の旅立ち。毛主席の偉大な呼びかけに応えるための、輝かしい第一歩なのだから。

________________________________________


手紙のその一文を読みながら、私は、彼女と最後に会った日のことを思い出していました。それは、彼女がこの「上山下郷運動」への参加を決意し、出発する数日前のこと。私は、施設の許可を得て、彼女の家を訪ねました。提藍橋の、あの三階建ての洋館へ。

彼女の養母であるユーおば様は、私を、値踏みするような冷たい目で見ました。飢饉の時に、私が彼女たちの家へ転がり込んだ日のことを、決して忘れてはいないのでしょう。

「あら、明ちゃん。よく来たわね。京海なら、荷造りをしているわ。あの子ったら、親の心配も考えず、勝手にこんな大事なことを決めてしまって。本当に、育てにくい娘だよ」

その口調には、棘がありながらも、どこか誇らしげな響きが混じっていました。京海が「毛主席の呼びかけに応える」という、誰も反論できない大義名分を手に入れたこと。そして、目の上のたんこぶだった彼女が、ようやくこの家から出ていくこと。その二つが、おば様の心を複雑にしているのが、私には分かりました。

屋根裏部屋へ続く、あの急な階段を上ると、小さな扉が開いていました。中では、京海が、たった一つの古い布袋に、持ち物を詰めているところでした。彼女は私の姿を見ると、ぱっと顔を輝かせ、太陽のように笑いました。

「明!よく来てくれたね!」

その笑顔は、孤児院の頃と少しも変わっていませんでした。どんな困難も、悲しみも、その光の前では溶けて消えてしまうような、魔法の笑顔。私は、その笑顔が見たくて、いつも彼女の隣にいました。

孤児院。思い出すのは、いつも灰色の壁と、冷たい床の感触。そして、空腹の痛み。私は、生まれつき体が弱く、いつも隅っこで縮こまっているような子供でした。年長の子供たちに、なけなしの配給の乾パンを奪われ、声を上げて泣くこともできずにいた、あの日。私の前に、小さな体で立ちはだかってくれたのが、京海でした。

「やめなよ!これは明のだもん!」

彼女は、自分だって怖かったはずなのに、少しも怯まなかった。そのまっすぐな瞳の力に、ガキ大将たちの方がたじろいでいました。そして、私に、自分の分の乾パンを半分、分けてくれたのです。あの時の、乾パンの甘い味。彼女の笑顔の温かさ。それが、私の人生の、最初の光でした。


________________________________________

列車の中は、すごい熱気よ。私と同じように、農村へ向かう知識青年たちで、ぎゅうぎゅう詰め。みんな、腕に赤い腕章を巻いたり、「毛主席語録」を手にしたりして、大声で革命歌を歌っているわ。その顔は、希望と理想で、きらきらと輝いている。

「我々は、広闊な天地へ行くのだ!」

「我々の手で、社会主義の新農村を建設するのだ!」

みんな、そう叫んでいる。もちろん、私も、そう信じているわ。この旅は、私の腐ったブルジョア的根性を叩き直し、貧農下中農から再教育を受け、真のプロレタリア革命戦士として生まれ変わるための、素晴らしい機会なのだと。

出発の日、駅には、たくさんの人が見送りに来ていた。私の養父母も来てくれたわ。養父の建国は、私の手を握って、『体を大事にしろ。何かあったら、すぐに手紙を書くんだぞ』と、何度も繰り返していた。その目は、少し潤んでいたように見えた。養母の秀英は、最後まで難しい顔をしていたけれど、『向こうに着いたら、指導者の言うことをよく聞いて、真面目に働きなさい』と言ってくれたわ。あれが、彼女なりの愛情表現だったのかもしれない、なんてね。

________________________________________


私は、京海がなぜ、この道を選んだのかを知っていました。それは、彼女が手紙に書いているような、純粋な革命的熱情だけが理由ではないことを。

最後に会った日、屋根裏部屋で、彼女は私にだけ、本当の気持ちを打ち明けてくれました。

「このまま、あの家にいたら、私は殺される」

彼女の声は、静かでしたが、その中には、凍るような決意が秘められていました。

「養母は、来年には私をミンと結婚させるつもりよ。そうなったら、私は一生、あの家から出られない。私の人生は、完全に終わる。それだけは、絶対に嫌なの」

彼女の視線が、壁に貼られた「上山下郷運動」のポスターへと向けられました。

「だから、行くしかないのよ。これは、逃げ出すための、唯一の口実。毛主席への『忠誠』という、誰も反対できない鎧を着て、私は自由になるの」

その言葉を聞いた時、私の胸は、憧れと、そして切なさで、いっぱいになりました。彼女は、なんて強いのだろう。絶望的な状況の中で、自ら活路を見つけ出し、自分の足で運命を切り拓こうとしている。それに比べて、私はどうだろう。収容施設という、与えられた場所で、ただ毎日をやり過ごしているだけ。

私は、彼女に尋ねました。

「怖くないの?知らない土地で、一人で暮らすなんて」

京海は、窓の外を見ながら、静かに答えました。

「怖いよ。もちろん、怖い。でもね、明。ここにいて、心を殺されて生きるより、ずっといいわ」

そして、彼女はくるりと振り返り、私の両手をぎゅっと握りました。その手は、驚くほど熱かった。

「それに、私には、あなたがいるじゃない。明が、上海で待っていてくれる。そう思うだけで、どんなことでも乗り越えられる気がするの。あなたは、私の希望の光よ」

私の、希望の光。その言葉が、私の心の中で、何度も何度もこだましました。違う、京海。光は、あなたの方だよ。あなたは、いつも私を照らしてくれる太陽。私は、その光を浴びて、ようやく咲くことができる、しがない月見草に過ぎないのに。

私は、彼女に何も言えませんでした。ただ、こみ上げてくる涙をこらえるので、精一杯でした。


________________________________________

私が向かうのは、「星火農場」という場所らしいわ。なんて、ロマンチックな名前でしょう?「星の火」よ。小さな火花が、やがて広野を焼き尽くす燎原の火となるように、私たち知識青年も、この農場で、革命の火花になるのね。

同級生だったフーも、この列車に乗っているわ。彼は相変わらず、紅衛兵のリーダー気取りで、大声でみんなを扇動している。私のことを見つけると、嫌味ったらしくこう言ったわ。『なんだ、人民の敵であるお前も、ようやく自分の罪を自覚して、労働改造を受け入れに来たか』って。

私は、にっこり笑って、こう返してやったの。『ええ、そうよ。あなたのような、口先だけの革命家じゃなくて、私は実践で、毛主席への忠誠を示すつもりなの』って。そしたら、彼はぐうの音も出ないで、顔を真っ赤にしてたわ。痛快だった!

でも、本当は少しだけ、不安なの。ここには、張先生のような人はいない。私の魂を導いてくれる、本もない。あるのは、この布袋の奥深くに隠した、先生の形見の一冊だけ。これから私は、たった一人で、自分の羅針盤を頼りに、進んでいかなければならないのね。

________________________________________


張先生。その名前は、私にとっても、忘れられない名前です。京海は、手紙の中で、よく先生の話をしてくれました。先生が、いかに彼女に知る喜びを教えてくれたか。いかに、彼女の魂の王国を豊かにしてくれたか。

そして、その先生が、紅衛兵たちに吊るし上げられ、命を落とした日のことも。

その知らせを聞いた時、私は、自分のことのように胸が張り裂けそうでした。京海が、どれほどの絶望を味わったか。想像するだけで、息が苦しくなりました。彼女の光が、消えてしまうのではないかと、本気で心配しました。

でも、彼女は、消えなかった。彼女は、その絶望の底から、自らの力で這い上がってきたのです。張先生の死は、彼女から多くを奪ったけれど、同時に、彼女に、決して揺らぐことのない、鋼の意志を与えたのだと、私には分かります。

彼女は、ただ本の世界に逃げ込んでいた、夢見る少女ではなくなった。彼女は、現実と戦うことを決意した、一人の戦士になったのです。そう思うと、悲しいはずなのに、なぜか胸が熱くなります。私の愛する京海が、また一つ、強く、美しくなった。そのことが、誇らしくてたまらないのです。


________________________________________

ああ、明。あなたに見せたいわ。この車窓からの景色を。

上海の、灰色で窮屈な建物はもう見えない。どこまでも続く、緑の田園風景。土の匂い。風の音。なんて、広いの。なんて、自由なの!

時々、思うの。もし、あの飢饉の冬に、あなたと再会できていなかったら、今の私は、どうなっていただろうって。きっと、養母の言うなりになって、旻と結婚して、あの家の屋根裏部屋で、一生を終えていたかもしれない。あなたを見つけ出し、守らなければという思いが、私に、家を出て街をさまよう勇気をくれた。あなたとの再会が、私の運命を変えたのよ。

だから、今度は私の番。私が、この広闊な天地で、自分の足で立てるようになったら、必ず、あなたを迎えに行く。二人で、一緒に暮らすの。誰にも邪魔されない、私たちの家で。それが、私の新しい夢よ。

________________________________________


「私の、新しい夢」。その文字が、涙で滲んで、よく見えなくなりました。ああ、京海。あなたは、いつもそうだ。いつも、私に、夢を与えてくれる。

孤児院で、乾パンをくれた時。

飢饉のどん底で、私を見つけ出し、背負ってくれた時。

そして今、手紙の中で、未来の約束をしてくれる時。

あなたは、私にとって、ただの親友ではありません。あなたは、私がなりたかった、全てのものです。太陽のように明るく、誰にも臆せず、自分の信じる道を進んでいく。私は、そんなあなたに、ずっと、ずっと憧れてきました。

この気持ちは、何なのでしょう。友情という言葉だけでは、表しきれないような気がします。あなたのことを思うと、胸がぎゅっと締め付けられて、甘く、そして少しだけ痛むのです。あなたが、他の誰かのものではなく、私だけの「京海」でいてくれたらいいのに、と、時々、独りよがりな願いを抱いてしまうことさえあります。これは、もしかしたら…。

いいえ、言葉にするのはやめておきましょう。この気持ちは、私の心の中にだけ、大切にしまっておきます。私にとって、京海は、恋という言葉ではあまりに陳腐になってしまうほど、もっと大きくて、もっと神聖な存在なのですから。彼女は、私の、金色の星なのです。


________________________________________

そろそろ、この手紙も終わりにするわ。隣の席の青年が、じろじろこちらを見ているから。読書家らしくて、難しい顔で、分厚い本を読んでる。ちょっと、話しかけてみようかしら。どんな人と出会えるのか、楽しみだわ!

明。どうか、元気でいてね。私のことを、忘れないでね。私も、絶対にあなたのことを忘れない。距離離れた星火農場の空の下から、いつも、あなたのことを想っています。

次に手紙を書くときは、私の新しい生活の報告で、あなたを驚かせてみせるわ!

追伸:あの金の腕輪のこと、覚えている?養母

が、出発の日の朝、こっそり私に返してくれたの。『これは、お前の本当の親が遺したものだ。いつか、お前の助けになるかもしれない。肌身離さず持っていなさい』だって。最後まで、素直じゃない人よね。でも、少しだけ、嬉しかった。この重みが、私に、一人じゃないって教えてくれる気がするの。

あなたの永遠の親友、京海より

________________________________________


私は、そっと手紙を閉じました。頬を伝う涙を拭うと、不思議と心は晴れやかでした。不安も、寂しさも、今はもうありません。あるのは、彼女への絶対的な信頼と、未来への希望だけ。

頑張って、京海。

あなたの信じる道を、まっすぐに進んで。

私は立ち上がり、収容施設の窓を開けました。西の空は、夕焼けで、燃えるようなオレンジ色に染まっていました。あの空の向こうに、今、京海を乗せた列車が走っている。

彼女は、星の火になるために旅立った。

いいえ、彼女自身が、もうすでに、金色の星なのだ。

その光が、やがてこの国を、そして私の心を、明るく照らし出す日が来ることを、私は固く、固く信じています。

そして、その時、私の心の中に、新しい、そして力強い決意が芽生えました。京海の手紙にあった「迎えに行く」という言葉。その言葉は、私に、ただ待っているだけではない、別の道を指し示してくれたのです。

あと半年。半年もすれば、私も十六歳になります。そうなれば、この市の養育施設を出て、自分の進路を決めることができる。これまでは、ただ漠然と、市内の工場にでも就職するのだろうと考えていました。でも、もう迷いはありません。

待っているだけなんて、私らしくない。京海に、与えられるばかりの私ではいたくない。

私も、行く。

あなたのいる、その場所へ。

京海、待っていて。私も、あなたと同じように、毛主席の偉大な呼びかけに応えるわ。私も「上山下郷運動」に志願する。あなたのいる、あの「星火農場」へ。それが偶然か、あるいは必然か、同じ場所へ配属される保証なんてどこにもないけれど、それでもいい。私は、私の意志で、あなたに近づく努力をする。

さあ、私も、私の戦いを始めなければ。彼女に、胸を張って再会できる日のために。彼女の隣に立つにふさわしい、強い自分になるために。

夕焼けの空に向かって、私は、声には出さずに、そっと呟きました。

「待っててね、京海。私も、すぐに、あなたの空へ飛んでいくから」

彼女という一番星を追いかけて、私もまた、小さな星になる。二つの星が、広大な大地の上で再会する日を夢見て、私の、新しい物語が、今、静かに始まろうとしていました。

挿絵(By みてみん)

【しおの ひろゆき】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ