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路 金色の星―京海物語(青木家サーガ第2作)  作者: 光闇居士


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3. 革命という名の破壊、そして師の死(1966年)

1966年5月、その嵐は、雷鳴と共にやってきた。


中国共産党中央委員会から「五・一六通知」が発せられた。それは、プロレタリア文化大革命の開始を告げる、宣戦布告だった。党内に潜む「ブルジョア階級の代表者」を打倒せよ、という毛沢東の号令一下、中国全土はかつてない狂乱の渦に叩き込まれた。


京海が十六歳になった夏、学校は完全にその機能を停止した。「授業をボイコットして革命に身を投じよ(停課鬧革命)」。そのスローガンの下、生徒たちは教室を飛び出した。そして、彼らは自らを「紅衛兵」と名乗り始めた。腕に巻かれた赤い腕章が、彼らに無限の権力を与えた。


虎が、その先頭に立っていた。彼は、学校の紅衛兵組織のリーダーとなり、その権勢は教師たちを凌駕した。彼らの最初の標的は、校舎そのものだった。


「古い世界の象徴は、すべて破壊する!」


虎の絶叫を合図に、紅衛兵たちは窓ガラスを叩き割り、机や椅子を廊下に投げ捨てた。最も悲惨だったのは、図書館だった。


京海は、その光景を、廊下の隅から震えながら見ていた。紅衛兵たちが、図書館から次々と本を運び出し、校庭に山積みにしている。その中には、彼女がかつて夢中になって読んだ古典文学も、西洋の物語も含まれていた。


「これは、封建主義の毒だ!」


「これは、ブルジョアジーの媚薬だ!」


彼らは一冊一冊、罪状を読み上げるように叫び、本を高く掲げてから、火のついた松明を投げ込んだ。ページが、まるで悲鳴を上げるように縮れ、黒い灰となって空に舞い上がる。知性の炎ではなく、憎悪の炎が、人類の遺産を焼き尽くしていく。京海の目から、涙が溢れた。それは、自分の体の一部が焼かれているような、耐え難い痛みだった。


数日後、虎たちが京海の前に現れた。その目は、狂信的な光で爛々と輝いていた。


「京海。お前を仲間に誘ってやろうと思ってな」


虎は、尊大な態度で言った。


「お前の出自は問題だ。反動的なブルジョアの血が流れているかもしれん。だが、お前は頭がいいし、弁も立つ。今、我々の側に立って、その才能を革命のために捧げるならば、お前の過去は清算してやる。毛主席は、過ちを犯した者でも、革命に身を投じるならば歓迎すると言っておられる」


仲間の一人が、赤い腕章を京海に差し出した。革命への、招待状だった。


京海は、燃え盛る本の山と、目の前の級友たちの顔を、静かに見比べた。彼らの顔には、もはやかつての面影はなかった。あるのは、思考を停止した者の盲目的な陶酔と、破壊への渇望だけだった。彼女は、差し出された腕章を押し返すと、はっきりと、そして快活に言い放った。


「ありがとう、でも遠慮しておくわ」


「何だと?」


「私は、本を燃やすような人たちと、仲間になるつもりはないから。あなたたちがやっていることは、革命じゃない。ただの破壊よ。毛主席が望んでいるのは、新しい中国を『建設』することでしょう?破壊することじゃないはずよ」


その場が、凍りついた。虎の顔が、怒りで紫色に変わっていく。


「…貴様…!この期に及んで、まだブルジョアジーの肩を持つか!お前は、人民の敵だ!」


「敵で結構よ。あなたたちの『人民』に、私は含まれていないみたいだから」


京海は、くるりと背を向けて、その場を去った。その背中に、虎の呪詛のような声が突き刺さった。「後悔するなよ、裏切り者め…!」。この瞬間、京海は紅衛兵の明確な敵となり、自らを最も危険な立場へと追い込んだ。


案の定、次の標的は、教師たちだった。彼らは「反動学術権威」「牛鬼蛇神(妖怪変化)」として、次々と吊るし上げられた。中でも、最も執拗な攻撃を受けたのが、張文遠先生だった。彼は「西洋ブルジョア思想を、純粋な青年の魂に毒した、最大の罪人」として、糾弾大会の壇上に引きずり出された。


京海は、校庭の隅で、その光景を直視することができず、ただ俯いていた。張先生は、頭に「反動分子」と書かれた紙の三角帽子を被せられ、首からは「私はブルジョアジーの忠実な犬です」と書かれたプラカードをぶら下げられていた。虎たちが、彼の髪を掴んで頭を無理やり下げさせ、その背中を蹴りつけた。


「自己批判しろ!」


「人民に謝罪しろ!」


群衆と化した生徒たちの、憎悪に満ちたシュプレヒコールが、夏の空に響き渡る。張先生は、血の滲んだ唇で、かろうじて声を絞り出した。


「…私は…間違っていました…」


その声を聞いた時、京海の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。


その夜、京海はいてもたってもいられず、危険を承知で、張先生が住む古いアパートを訪ねた。扉を叩くと、中から現れた張先生は、まるで別人のように変わり果てていた。顔は腫れ上がり、歩くのもやっとという状態だった。彼は、京海の姿を見ると、驚いたように目を見開いた。


「京海くん…!なぜここに。見つかったら、君まで…!」


「先生に、会いたかったんです」


部屋に招き入れられた京海は、言葉を失った。部屋の中は、紅衛兵に荒らされ、床には破られた本の残骸が散乱していた。それは、張先生の魂そのものが引き裂かれた跡のようだった。


張先生は、ゆっくりと椅子に腰かけると、かすれた声で言った。


「…見ての通りだよ。私の王国は、滅びてしまった」


彼は自嘲するように笑ったが、その目には深い絶望の色が浮かんでいた。


「だがね、京海くん。君に、最後の授業をしなければならない」


彼は、ベッドの下の床板を一枚剥がした。そこには、小さな空洞があり、一冊だけ、本が隠されていた。ロマン・ロランの『魅せられたる魂』だった。彼はその本を、震える手で京海に差し出した。


「彼らは、私の本をすべて焼いた。私の体を打ちのめした。だが、私の頭の中にあるもの、私の魂だけは、奪うことはできなかった」


張先生は、京海の目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥に、消える寸前の蝋燭のような、最後の光が灯っていた。


「京海くん。これから、もっと酷い時代が来るだろう。誰も信じられなくなるかもしれない。正義も真実も、どこにあるのか分からなくなるだろう。だが、それでも、これだけは忘れないでおくれ」


彼は、京海の手を、力なく、しかし強く握った。


「決して、自分の頭で考えることをやめてはいけない。そして、人間を信じることを、人間性そのものを、諦めてはいけない。どんな暗闇の中でも、愛や、美や、真実を求める魂は、必ず存在する。君のその魂だけは、誰にも、何ものにも、奪わせてはいけないのだよ」


それが、張先生の最後の授業だった。


「行きなさい。そして、生き延びるんだ。私の分まで、本を読み、世界を見つめ、真実を語り継いでくれ。それが、私の最後の願いだ」


京海は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、何度も頷いた。彼女は、託された本を胸に抱きしめ、夜の闇へと駆け出した。


その三日後、張文遠先生が亡くなったという知らせが、学校中に広まった。校舎の裏手で、首を吊っているのが発見されたのだという。紅衛兵たちは「ブルジョアジーの犬が、人民の裁きを恐れて自殺した」と勝ち誇ったように発表した。だが、それが自殺であるか、あるいは屈辱の果ての「死」であったのか、真実を知る者は誰もいなかった。


京海は、その知らせを、屋根裏部屋で一人聞いた。彼女は、声を出さなかった。涙も出なかった。ただ、胸に抱いた『魅せられたる魂』の、硬い表紙の感触だけが、現実の全てだった。絶望が、冷たい霧のように彼女の全身を包み込んでいた。


世界は終わった。


光は消えた。


彼女は、何日も屋根裏部屋から出てこなかった。秀英が扉を叩いて「いつまでそうしているんだい!革命が怖くて隠れているのかい、この臆病者!」と罵る声も、遠くに聞こえるだけだった。


絶望のどん底で、彼女は、張先生から託された本を開いた。ページをめくると、先生の震える文字で、走り書きが残されていた。


『嵐の中で歌うのが、魂だ』


その一文を見た瞬間、京海の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。声を殺し、体を震わせ、彼女は泣き続けた。張先生の死は、彼女からあまりにも多くのものを奪い去った。だが、その死は、彼女の魂の最も深い場所に、決して消えることのない炎を灯してもいた。


生きなければならない。


この狂気の時代を、生き抜かなければならない。


先生の死を無駄にしないために。焼かれた本たちのために。そして、まだ見ぬ未来のために。


涙が枯れた時、京海の顔には、十六歳の少女とは思えないほどの、静かで、しかし鋼のような決意が浮かんでいた。


街では、紅衛兵たちが「毛主席万歳」を叫び、革命歌を歌う声が、地鳴りのように響き渡っている。下の階では、秀英が「さあ、これで邪魔者はいなくなった。お前も年頃だ。来年には旻と一緒になるんだよ」と、勝利宣言のように語るのが聞こえた。養父の建国は、恐怖に顔を歪め、ただ沈黙している。


逃げ出さなくては。


この家から。


この狂気の上海から。


そうでなければ、自分は物理的に殺されるか、あるいは魂を殺されるか、そのどちらかだ。京海の視線が、壁に貼られた一枚のポスターに吸い寄せられた。それは、紅衛兵たちが貼っていったものだった。


『広闊な天地には、なすべきことがたくさんある。知識青年は、農村へ行こう!』


その文字が、彼女の目には、地獄からの脱出路を示す、唯一の道しるべに見えた。農村へ。そこがどんなに厳しい場所であろうと、この家で魂を殺されるよりはましだ。自分の運命は、自分で切り拓く。張先生が、そして本が、そう教えてくれた。


京海は、託された『魅せられたる魂』を、小さな布袋の奥深くにしまい込んだ。これが、彼女の新しい武器であり、羅針盤だった。屋根裏部屋の丸窓から、彼女は燃えるような夕焼けに染まる上海の街並みを見つめていた。それは、彼女が愛し、そして憎んだ街だった。


「さようなら、私の子供時代」


彼女は、誰にともなく呟いた。金色の星は、今、自らの力で軌道を変え、まだ見ぬ暗黒の宇宙へと、一人飛び立とうとしていた。


絶望の淵で、少女はひとつの決意を抱いた。


それは、過去との決別であり、未知なる未来への宣戦布告だった。


養母が用意した「童養婿婦」という名の鳥籠。


紅衛兵が振りかざす「革命」という名の凶刃。


愛する師を奪い、魂の糧である本を焼き尽くした、この狂気の街。


そのすべてに、彼女は今、訣別を告げる。


屋根裏部屋の窓から見下ろす上海の街は、革命の熱に浮かされ、赤黒く燃え盛っていた。だが、十六歳の京海の瞳に、もはや涙はなかった。悲しみを乗り越え、絶望を食い尽くしたその瞳に宿るのは、夜明け前の空のように、静かで、冷徹で、そしてどこまでも澄み切った光。


彼女の手の中には、恩師が命と引き換えに遺した一冊の本。


彼女の胸の中には、引き裂かれた親友との、鋼の約束。


そして、彼女の魂の中には、どんな嵐にも消されはしない、金色の星が燃えている。


「広闊な天地には、なすべきことがたくさんある」


壁のスローガンが、彼女を未来へと誘う。それは、理想に燃える青年のための呼び声などではない。これは、地獄からの脱出路であり、彼女が自らの手で掴み取る、自由への最後の切符だ。


さようなら、上海。さようなら、無力だった私。


少女の時代は、今、終わる。


一人の女性として、自らの足で、自らの意志で、運命の荒野へと歩み出すために。


列車は西へ。彼女が向かう先は「星火農場」。そこは理想郷か、それとも新たな地獄か。数々の出会いと裏切り、そして許されざる恋が、彼女を待ち受ける。金色の腕輪が秘めた謎は、いまだ解かれぬまま。





第一部 完


――第二部『星火、燃え上がるとき』。歴史の奔流に身を投じた京海の、より激しく、より鮮烈な戦いが、今、幕を開ける!

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