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路 金色の星―京海物語(青木家サーガ第2作)  作者: 光闇居士


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第五章:革命のプレリュード 1. 灰色の空の下の、秘密の王国(1961年 - 1964年)

三年続いた未曾有の大飢饉は、巨大な獣が満腹になって去っていくように、ゆっくりと、しかし確かな爪痕を残して中国の大地から後退していった。1961年、灰色の空の下に沈んでいた上海の街にも、ようやく生気が戻り始めていた。配給所の行列は短くなり、人々のこけた頬にもわずかに色が差し、食卓には水で薄めていない粥が上るようになった。京海が十一歳になる年だった。


王家の冷え切った食卓にも、その変化は訪れた。しかし、腹が満たされ始めると、心の飢えがより鮮明に浮かび上がってくる。明を家に匿ったあの日、養父・王建国が下した決断は、彼と妻・兪秀英の間に横たわっていた亀裂を、もはや修復不可能な断層へと変えていた。二人の会話は必要最低限になり、家の中には常に薄氷が張っているような緊張感が漂っていた。


秀英の、京海に対する態度は、飢饉の頃のあからさまな罵倒とは違う、より陰湿で粘着質なものへと変化した。彼女はもはや京海を大声で叱りつけなかった。その代わり、凍てつくような冷たい視線で一日中彼女を監視し、ため息をつき、存在そのものを否定するような空気を放ち続けた。その態度は、こう言っているようだった。「お前のせいで、この家はめちゃくちゃになった。お前という『他人』を招き入れたせいで、私と夫の関係は壊れたのだ」と。


「京海。旻の服の綻び、まだ直していないのかい。お前は学校で一体何を習っているんだい。女の甲斐性というものを」


「京海。床の隅に埃が溜まっているよ。そんなことも気づかないようでは、良い嫁にはなれないね」


その言葉の一つ一つが、京海を「童養婿婦」という名の見えない檻に閉じ込めようとする呪文だった。かつて京海の輝きに嫉妬していた秀英は、今やその輝きを自らの手で曇らせ、管理することに、歪んだ喜びを見出しているようだった。


一方、妻との関係に絶望した建国は、その愛情と希望のすべてを京海に注いだ。彼は、この聡明な養女が、自分たちが成し得なかった何かを成し遂げてくれると信じていた。妻の目を盗んでは、彼は京海に本を買い与えた。それは、新しい中国を讃える児童文学や、革命英雄の伝記といった「安全な」本だったが、文字に飢えていた京海にとっては、乾いた喉を潤す甘露だった。


「父さん、ありがとう」


「京海。たくさん本を読んで、立派な人間になるんだぞ。誰にも負けないくらい、賢くなるんだ」


建国の不器用な励ましは、京海にとって何よりの支えだった。彼女は、この息の詰まる家の中で生き延びるため、そして養父の期待に応えるために、猛烈な勢いで本を読んだ。


京海が小学校五年生になった時、運命的な出会いが訪れた。新しい国語の担任として赴任してきた、張文遠ジャン・ウェンユエン先生。彼は四十代半ばで、度の強い眼鏡の奥にある瞳は、常に何かを憂いているように優しく、そして悲しげだった。彼は、かつての「反右派闘争」で、親友が目の前で吊るし上げられ、自らも「ブルジョア的傾向がある」と自己批判を強要された過去を持つ知識人だった。その傷は彼の心を深く抉り、教壇での言動を慎重にさせていたが、文学への情熱と、子供たちの知性を育むことへの使命感だけは、消すことができなかった。


張先生はすぐに、クラスの中で異彩を放つ京海の存在に気づいた。彼女の作文は、同級生たちが判で押したように革命のスローガンを並べる中で、瑞々しい感性と、物事の本質を捉えようとする深い洞察力に満ちていた。授業中に彼女が発する質問は、いつも核心を突いていた。


ある日の放課後、張先生は京海を呼び止めた。


「京海くん。君は、本を読むのが好きなんだね」


「はい、先生」


「どんな本を読むんだい?」


「父さんが買ってくれる本なら、何でも読みます。『紅岩』も『林海雪原』も、三回読みました」


張先生は、満足そうに頷くと、少し声を潜めて言った。


「…もっと、違う本も読んでみたくはないかね?」


彼は、自分のカバンから、表紙が擦り切れた一冊の本を取り出した。それは、中国古典文学の傑作、『水滸伝』だった。


「これは、私の蔵書だ。少し難しいかもしれないが、君ならきっと読めるだろう。ただし、これは学校の推薦図書ではない。誰にも見られないように、こっそり読むんだよ。読み終わったら、感想を聞かせてくれないか」


その瞬間から、京海と張先生の、秘密の貸し借りが始まった。京海にとって、屋根裏部屋は単なる物置ではなく、自由な精神が羽ばたくための神聖な王国となった。彼女は、秀英の監視の目を抜け出し、小さな丸窓から差し込む月明かりを頼りに、ページをめくった。梁山泊に集う百八人の好漢たちの活躍に胸を躍らせ、『三国志演義』の英雄たちの知略と運命に心を揺さぶられた。


張先生は、京海の驚異的な読解力と感受性に舌を巻き、次第に貸し与える本の種類を広げていった。それは、厳しく禁じられているわけではないが、決して推奨もされない、古い時代の文学や、西洋から翻訳された物語だった。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、スタンダールの『赤と黒』。主人公たちが、社会の因習や自己の内面と葛藤しながら、自らの魂の道を切り拓いていく物語は、京海の心に深く、深く刻み込まれた。彼女は、ジュリアン・ソレルの野心に危うさを感じ、ジャン・クリストフの不屈の精神に自らを重ねた。本の中には、現実の世界にはない自由があった。イデオロギーや階級では測れない、人間の複雑で豊かな感情の宇宙が広がっていた。


読書は、彼女を現実から守るための、強固な鎧となった。秀英の刺々しい言葉も、旻に「お嫁さん」と呼ばれる時の胸の痛みも、本を読んでいれば忘れられた。


彼女のもう一つの支えは、児童収容施設にいる明との手紙のやり取りだった。月に一度、検閲済みの葉書が届く。そこには、明の拙いながらも懸命な文字で、日々の暮らしが綴られていた。


「ご飯はまだ少ないけど、お芋が食べられるようになりました」


「勉強の時間があって、字をたくさん覚えました」


「京海の手紙が、一番の楽しみです」


京海は、返事に、自分が読んだ本の物語を書き綴った。梁山泊の英雄がいかにして悪徳役人を懲らしめたか、ジャン・クリストフがいかにして絶望の淵から立ち上がったか。彼女は、物語の力を信じていた。この物語が、明の心に希望の種を蒔き、生きる力になってくれるはずだと。二人の少女は、離れ離れの場所で、同じ物語を共有することで、その魂を固く結びつけていた。


しかし、外の世界では、再び不穏な空気が濃度を増していた。1962年、毛沢東は「階級闘争を絶対に忘れるな」と繰り返し強調し始めた。社会主義教育運動が始まり、芸術や文化の領域でも、プロレタリア階級の思想が絶対的な基準として掲げられるようになった。京劇では、皇帝や貴族ではなく、労働者や兵士を主人公にした「革命現代京劇」が推奨された。人民解放軍の模範兵士であった雷鋒レイ・フォンのキャンペーンが全国で展開され、子供たちは彼の「党への無私の奉仕」を暗唱するよう求められた。


個人への崇拝、思想の純化。その流れは、静かだが確実に、人々の精神を一つの方向へと塗りつめようとしていた。屋根裏部屋の王国にいる京海だけが、その流れに逆らうように、多様で、複雑で、自由な人間の魂が描かれた物語の海を、一人旅し続けていた。彼女はまだ知らなかった。その小さな王国が、やがて来る嵐の中で、彼女が立てこもる最後の砦になるということを。

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