Memento Amoris
彼女と暮らし始めて、もうすぐ二年になる。
一緒に朝を迎え、夜は共に眠る。
言葉はなくても、視線は交わさなくても、僕は彼女の傍にいるだけで満たされる。
僕はなんて幸せ者なんだ。
彼女はとても物静かだ。
まるで、世界の音に興味などないように。
誰とも話さないし、出掛ける事もない。
彼女は家にいるのが好きみたいだ。
けれど、そんな彼女だからこそ、僕は安心できる。
僕と、ずっと一緒にいたいって気持ちが伝わってくる。
この部屋には、僕以外誰も来ない。
人見知りの彼女が嫌がるからね。
誰も僕たちの時間に割って入ってこない。最高だ。
蛍光灯の白い光の下で、彼女は椅子に座っている。
少しうつむいて、遠くを見つめるように。
その姿が、僕はたまらなく愛おしい。
今日も綺麗だよ。
**
彼女と出会ったのは、三年前だ。
出会った頃の彼女には、心の病気があった。
いつもどこかに消えてしまいそうな、そんな儚げな顔をしていた。
だから僕から声をかけた。
彼女はあの頃、いつも壊れそうだった。
いつもなにかに脅えて、おどおどして、下を向いていた。
僕だけが彼女の“沈黙”を受け入れられた。
だから、彼女は僕のところに来た。それだけのことだった。
でも、彼女は僕と付き合うようになってから、次第に明るくなっていったんだ。
以前に比べたら、外にもよく出かけるようになったし、僕以外の人と話す事も増えた。
友達もできたみたい。
付き合いだして一年が経ったある日、些細なことで大喧嘩をしてしまったことがある。
僕は普段怒ったりしないから、彼女はとても驚いていたのをよく覚えている。すごく震えていて、付き合い出した当初の彼女が戻ってきたみたいだった。
その頃から彼女は全然話さなくなったんだ。
僕のせいかもしれないね。けど、僕は嬉しかった。
また彼女と僕だけの世界が戻ってきたからね。
僕の周りは、彼女のことについて色々と言った。
「病院に連れて行け」とか、「別れた方がいい」とか。
でも、そんな声は僕には届かない。
だって彼女は、ちゃんとそこにいるんだから。
それだけでいいじゃないか。
**
7月29日、今日は彼女の誕生日だ。
僕は昼からケーキを焼いて、部屋を少しだけ飾った。
風船の代わりに、白いドライフラワーを窓辺に吊るす。
甘すぎない匂いが、彼女に似合っていると思った。
昨年は、7月の誕生石であるルビーの宝石をプレゼントした。
僕たちの情熱的な愛にはぴったりの石だ。
彼女は毎日ルビーを身につけてくれている。とてもよく似合っている。
ろうそくは一本だけ。
この二年、彼女はとてもよく頑張った。
毎日、ただ僕のそばにいてくれた。
みんな全然わかってないんだ。
本当に弱いのは僕なんだ。僕は、彼女がいないとダメなんだ。
「誕生日、おめでとう」
僕は彼女の耳元にそっと囁く。返事はない。わかってる。
でも、その沈黙こそが、僕をより安心させる。
ここに確かに愛があると、確信できるんだ。
彼女の目は、月明かりを浴びてキラキラと輝いて見えた。
それだけで、僕はこの世界に生きている意味を感じる。
僕は本当に幸せ者だ。
最近、彼女の肌が乾燥している。
指先の色が淡くなり、頬の輪郭がわずかに崩れてきている。
昨年は、一時期お腹が出ていたんだけど、今は真逆だ。すっかり痩せこけてしまった。
でも僕は、そこに時間の流れを感じられて嬉しかった。彼女と僕だけの歴史を感じるんだ。
彼女がどんな姿になろうとも、僕は彼女を愛していると誓う。
部屋の温度はいつもかなり低くしてある。
彼女が汗をかかないように。彼女は汗っかきだからね。
それに、最近ではコバエやゴキブリもなんだか多くて……
彼女は虫が嫌いだから、僕がちゃんとしないと。
最近は芳香剤を変えたんだ。
ラベンダーからミントに。少し冷たくて、すっきりした香りの方が、今の彼女にはよく似合う。
**
彼女は一日中ベッドにいることが多いけれど、たまに夜窓際に座らせるんだ。
外の空気を吸わせてあげたいし、それに、彼女は月を眺めるのが好きだから。
月を眺めながら彼女が何を考えているのか、僕にはわからない。でもそんなことはどうでもいいんだ。
彼女がそこにいてくれることだけが、大事なんだ。
僕は今日もそっと彼女の手を握る。
骨のように細くなった指先。けれど、冷たさはもう馴染みすぎて、違和感もない。
僕は彼女に微笑む。僕は今、心が満ち足りているんだ。
僕たちのこの完璧な愛を、みんなに伝えたい。
僕たちほど愛し合っている恋人は、きっとこの世のどこにもいないだろうからね。
**
この日記は、都内のとあるマンションの一室にて発見された。
室内には遺体が二体確認された。
男性(28)は、女性に寄り添うような状態で死亡しており、死後数日が経過していた。
女性(享年不詳)は保存処置を施されたまま椅子に座らされており、その腐敗状態と検視結果から、少なくとも一年以上前に死亡していたと推定される。
女性の目には、ルビーの石が埋め込まれており、腹にはガーゼや衣服が詰め込まれていた。
腐敗した皮膚には、何度も縫い合わせたような跡があった。
発見当時、部屋の窓は遮光され、室温は異様なまでに低く保たれていた。
ミント系の強い芳香剤が複数個設置されており、外にほとんど匂いも漏れていなかった。
防音の施されたマンションであったため、壁も厚かったようだ。
近隣住民の証言によれば、男性はいつも礼儀正しく、残酷なことをするような人間には見えなかったという。
また、何年か前から女性を見なくなり、彼らは破局したのだろうと思っていたそうだ。
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【現場検証員・記録】
ドアを開けた瞬間、息を呑んだ。
部屋は静まり返っていた。
真っ白なドライフラワーが、窓辺でゆれていた。
中央の椅子に座った女性は、まるで眠っているようで――
だが、その容姿がすべてを物語っていた。
その足元で、彼は穏やかな顔をして崩れ落ちていた。
一冊の日記を抱くようにして。
誰かがそっと、呟いた。
「こんな風に盲目的に“愛”を信じられるなんて……ある意味、幸せだったのかもしれないね」
外では、蝉が鳴いていた。
室内には、ほんのりとミントの香りが、残っていた。