十年前の約束
姫は何度も思い返す。
昔は鮮明に覚えていたはずが、年月が経つにつれて記憶の輪郭があやふやになる。
「行ってきます、マージェリー姫」
片膝をつき、幼い姫の片手を取り手袋越しにそっと口づけを落とした。
こうべを垂れた黒髪のさらりとした感じや、程よく筋肉のついた肩を覚えている。
しかし顔はどうだったのだろう。
はっきりと思い出せない。
魔王討伐隊のリーダーである彼はそのまま旅立ち、戻って来なかった。
しかし魔王が倒されたことは明白だった。
しばらく世界はずっと曇天だった。
飢餓にあえぐ小さな村は、魔物の襲撃で壊滅した。
頑丈な防護壁と結界に守られた大きな町は無事だったが、よほど腕に自信のある者しか、町の外へ出ることができなかった。
しかしある日、『勇者一行』がこの国の王都へやってきた。
世界を旅してきた彼らは、行く先々でその土地を支配していた魔族を倒し、名を上げていた。彼らの評判は風の噂で聞き及んでいた。
国王は彼らを『魔王討伐隊』に任命し、魔王城を目指して諸悪の根源、魔王を討つことを命じた。
報酬は十分の一を前払いし、あとの九割を後払いとした。
いくら強くとも、ただの人間の彼らが、本当に魔王を倒せると信じ抜くことは難しかった。ただ一縷の望みだった。
「見込みがないとお思いですか」
勇者は哀しそうに言った。
「そうではない。いまは国中が困窮していて、情けないことに余裕がないのだ。もしお主らが魔王を倒して世界が平和になった暁には、何なりと褒美を取らせよう。そのときは私の命すら惜しくない」
「では、もし私が魔王を倒して帰ってきたら、この国とお姫さまを私にください。お姫さまをお嫁さんにして、私が王様になります」
「何を抜かすか、小僧っ」
「今すぐ叩き斬ってやる」
国王の側近が剣を抜く素振りをして口々に叫んだが、国王はそれを制した。
「勇者よ。ならば命を賭けても惜しくはないのだな。お主の覚悟、しかと受け取った。もし本当に魔王を倒して戻れば、王位と姫をやろう」
その約束が十年前のこと。
そして三年前に突然それは訪れた。
空が地平線まで晴れ渡り、真っ青になった。
マージェリー姫は生まれて初めて、灰色ではなく青い空を目にし、その美しさに絶句した。
太陽の光が射し込むバルコニーに駆け出ると、空気が清々しく澄んでいることを肌と肺で感じた。
ああ始まった、とハッキリと分かった。
暗黒の時代が終わり、新しい世界が幕開けたのだ。
彼らが遂に魔王を倒したのだ。
しかし彼は一向に帰ってこない。
あの日からもう三年だ。
「魔王と相討ちしたのでは」という説がまことしやかに囁かれている。
「深手を負って、帰路半ばで死んだのだろう」
「それならそれで伝達があってもいいものを」
「その場にいた者も全滅したんじゃろう」
「それならそれで良いが」
「約束は失効じゃの」
「王はいつまで待たれるつもりか」
「マージェリー姫ももう二十歳。結婚せねば」
国の長老たちが話し合っているのが聞こえてくる。
「いや、それはできぬ。代わりにソニア姫がいらっしゃる」