9
スカーレットとしての記憶が植え付けられ、知っていたファルコール迄の道程。百聞は一見にしかずとはよく言ったもので、実際に目にするのは非常に新鮮で楽しい。
母子家庭で裕福でなかった薫にとって海外旅行は脳内で行うものだった。ようやく自力で生活するようになってからも、忙し過ぎてチャンスがなかったし。
だからか、ついつい周りの景色を目で追ってしまう。
初日の宿に着く頃には、目を見開き過ぎて付近が筋肉痛のようになってしまった。
「お嬢様、お久し振りですものね、王都から出られるのは」
事実は違うが一先ずナーサの言葉には頷いておいた。
初日ということもあり、宿の食堂ではこれからのことを話し合うべく四人で顔を突き合わせている。
「それでね、これからのことなのだけれど、」
薫は景色を凝視しながらも一日中考えていたことを三人へ告げた。
先ずは薫へ対する呼び方。お嬢様、スカーレット様は止めて欲しい。出来れば呼び捨てでとお願いしたところ、三人からは無言の抵抗が為された。
抵抗は想定内。けれど、お嬢様呼びは四十に手が届こうとしていた薫にはぶっちゃけ痛い。姿形はスカーレットでもそんな資格は無いように思えるので、スカーレット様と呼ばれるのもなんだか申し訳なくなってしまう。
だから、
「じゃあ、キャロルと呼んでちょうだい。敬語もなしで。あと、貴族の本音を隠して会話をするのもなしね」
三人にはミドルネームを縮めたと伝えたが、キャロルという呼び名は薫が過去に外国人留学生から呼ばれていた名だ。大学の時にアメリカからの留学生に自己紹介をした時に、薫をキャロルと聞き間違えられた。最初は違うと訂正したものの、呼びやすいからと通されたのが始まりだ。
「だって、皆はスカーレットと言う名前を呼び捨てるのに抵抗があるのでしょ。だったらキャロルなら問題ないのでは?」
そういう事を言っているのではない。三人の目は一様に否定の様相だ。けれどここは薫も引き下がれない。かくなる上は伝家の宝刀『侯爵令嬢の命令』を使ってみた。
命令されてしまうと三人はしぶしぶ頷くしかない。
「あとね、三人はこれからどうしたい?ナーサには散々言っているけど、誰か好きな人が出来たら結婚して侍女なんて辞めていいからね。ケビンとノーマンも。折角真っ当な暮らしが出来るのだから」
「お嬢様」
「う、うん」
薫がわざとらしく咳払いをすると慌ててナーサが言い直した。
「キャロルさん、わたしには好きな人すらおりま、いえ、いません」
「誰かを好きになるところからね、ナーサは。で、ケビンとノーマンは?今までは無理だったかもしれないけど、誰か呼び寄せたい人がいるなら遠慮しないでね」
「いえ、わたしにはそのような女性はおりません」
「もう、まだ話し方が硬いわね」
ナーサとはスカーレットとしての付き合いの長さがある。が故に、呼び方と敬語を使わないということが中々進まない。
ところがケビンとノーマンに関してはそもそものアイスブレイクが進まない。結局この日は年齢を聞くには至らなかった。
それでもいよいよ明日はファルコールという段になれば、なんとか薫が思い描いていた関係に成りつつあった。
「いよいよ明日はファルコールですね」
「そうね、まずは大工さん達の手配からね」
「簡単なことなら俺たちでも出来ますよ」
「それは頼もしいわ」
「キャロルさんに頼ってもらえるのは光栄ですね」
「もう、ケビンたら。そんなこと言われたら惚れちゃいそう」
毎夜の食事中の会話も楽しくなってきた。だから既にファルコールでも食事は共にする約束を取り付けてある。
「ファルコールでは楽しい毎日が過ごせそうね。なにせ、キャストール侯爵令嬢は心の病だから。楽しい生活で療養しなくちゃ」
「ふふ、そうですね、キャロルさん」
成人している三人は三日前からは夕食時にワインを軽く飲むようになっている。本当はいい年齢の薫も飲みたいところだが、この世界ではまだ飲酒可能年齢ではない。
美味しそうに飲む三人を前に十九歳の飲酒可能年齢になったら直ぐに仲間に加えてもらおうと誓ったのだった。