388
オランデール伯爵が怒るようなこと。それは一つだけではなかっただろうと夫人は断定した。時系列から考えて、ジャスティンに執務を行う能力がないことには比較的早く気付いたはず。サブリナと離縁した悲しみで体調を崩していたのではなく、何も出来ないから起き上がってこないのだと。加えて、その頃には伯爵家内の家政も上手く回っていなかったに違いない。そして伯爵は気付く、この二つに欠けたものが何かを。しかし時すでに遅し。それを直ぐに解決し立て直すことが出来る唯一の人物とは疾うに縁が切れてしまっていたのだ。しかもそれを自らが望み、縁を切る時には散々その人物の両親に悪態をついたときている。今更話をさせて欲しいとは本人にも、その両親にも言えるはずがない。特に本人は、クリスタルが迷惑を掛けた令嬢の侯爵家に滞在しているとは何と皮肉なことだと伯爵は思っただろう。
追い打ちをかけたのは、隣国セーレライド侯爵家の訪問。伯爵は問題が明らかになる前までは、今後の取引量を増やすことを考えていたのかもしれない。しかし取引は現状維持も疎か解消されてしまった。それは当然だろう、今まで取引の指揮を執っていたとされるジャスティンが挨拶にすら出てこないどころか、話が通じなくなってしまったのだ。
「夫人、ご存知だとは思いますが、ここにはそのセーレライド侯爵家の次男、トビアス様が滞在中です。それで、わたしはトビアス様から教えていただいたのですが、伯爵家は試されたようです。そして、今後取引を続ける相手ではないと見做されてしまったようで」
「デリシアさんじゃないけれど不思議よね。隣国のことをよく知る体で契約書まで作れる伯爵家が、当日は通訳を同伴したのだもの。伯爵は仕事が上手く回せなくても言葉くらいはジャスティン様にもどうにか出来ると思ったでしょうね。でも、それも駄目だった。そこで貴族学院を優秀な成績で卒業したクリスタル嬢に通訳をさせようと考えたのではないかしら?」
「恐らく」
「ところが優秀なはずのクリスタル嬢も隣国の言葉が使えなかった、どう合っているでしょう。わたくしがあなたに問うたことも含め」
「はい。提出レポートを作成したのは全てわたしです。それに担当する先生の名前を聞き、テスト問題の予想を立てたのも。ただセーレライド侯爵家は言葉に問題を感じたからではなく、伯爵家が取引の根本を理解していそうにないから解消すると決めたようです。加えて、当日感じた伯爵家のその場さえしのげればいいという雰囲気も好ましくなかったと。取引において同様の心構えを持たれたら危険ですから」
「伯爵はさぞ落胆したでしょうね、自分の息子と娘の実力に。その事実はセーレライド侯爵家が来る前に分かったから、せめて取引だけは何とかしようと事前に通訳の手配をした。それなのに取引を失ってしまった。落胆だけでなく、怒りも生まれたことでしょう。その後、伯爵は現状と過去の齟齬からあなたの実力を完全に信じざるを得なかった。それまでは、『そうかもしれない』程度だったものが、完全に『そうだ』となったのだと思うわ。そうすると今度は、あなたの評価を伝えていた者の言葉が怪しくなる。それは、家政を教える立場の夫人とその補佐役のメイド長。序にジャスティン様の侍従とあなたの侍女もね。まあ、結果を伝えてしまうと、夫人はジャスティン様の体調を気遣い社交には姿を現さない。侍従と侍女は解雇だったかしら」
ここまでの話だけも、伯爵家内の雰囲気は悪くなって当然だとデリシアは思った。それに夫人は『解雇だったかしら』と考え込むように言ったが、二人は確かに解雇された。それも、当日までの給金支払いもなく即刻解雇で。執事長の話し方から、仕事が出来なければこうなるという見せしめのようにあの時デリシアは感じたのを覚えている。ここまでの内容だけでも十分なのに、夫人の話はまだ終わろうとしないことにデリシアは自分のこれからを真剣に考えなければならないと思ったのだった。




