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薫はジョイスのこの行動に一瞬驚きはしたものの、二つの仮説を立てて乗り越えた。一つは良く知る人物達のキスシーンにどうしていいか分からず感情を落ち着かせる為に手を掴んだ。それが偶々薫の手だった。二つ目は、幼い子供が偶然キスシーンを目にして『どうしてあのお姉さんとお兄さんはちゅうしてるの?』と母親の手を引くような感じ。まあ、どちらにしてもジョイスは今もの凄くテンパっているはずだ。何を隠そう実はいい年齢の薫もこの状況をどうしていいか分からない。だから自分も同じようなものだと伝える為に、薫はジョイスの手を少しだけ握り返して同意を示したのだった。
「お二人とも、愛を確かめ合うことは非常に結構なことです。けれどここはキャロルの部屋、それ以上はいけません」
「「…」」
侍女というのはお目付け役でもある。仕える者が間違った行動を取ることを予防もしなければならない。その方法は人それぞれだろうが、ツェルカは強かった。ずっとリッジウェイ子爵家に仕え、サブリナが子供の頃から世話をしているのだ、必要なことを場合によってはビシッと言える人ということだ。お陰で愛を確かめ合う二人はツェルカの言葉で我に返った。しかしジョイスはその言葉に違う反応をしてしまったよう。薫は消えてしまいそうなぐらい小さな声でジョイスが『それ以上…』と呟いたのを聞いてしまった。だから再び手を少しだけ握り返し、落ち着くよう促したのだった。
「サビィとノーマンはゆっくり二人で話し合うといいわ」
ツェルカからの注意に反省の色を見せる二人。そんな二人に薫は助け舟を出す序に、ジョイスの『それ以上…』に話し合いというオプションもあると示しておいた。その可能性は低いとしても。
そして二人が去るとツェルカは『今回もまたサブリナお嬢様を救って下さりありがとうございました。また、大変お恥ずかしい姿をお見せしてしまったことを深く謝罪いたします』と言って深々と頭を下げた。
「いいのよ、ツェルカ。サビィは辛い時間を何年も過ごしたのだもの、その反動で今を噛みしめているのでしょう」
薫が何と無しに言った言葉。でも、聞いていたツェルカもジョイスもそれはそのままスカーレットにも当てはまると感じた。ジャスティンの言葉を酷いと憤慨したのも、言葉の暴力を知っているからだったのだろうと。
使った言葉は違う。けれどジャスティン同様ジョイスも言葉の暴力を使った。それなのに、スカーレットはジョイスをあの環境から抜け出し今を楽しむここに置いてくれている。だから変えられない過去を悔やむのではなく、これからに貢献しなければならないとジョイスは思った。
「ツェルカ、俺をここに連れて来てくれてありがとう。俺はリプセット公爵家の人間として、オランデール伯爵家の人間が他家と揉め事を起こさないよう努めなければならない。大袈裟かもしれないが、もしもサビィが離縁せずにオランデール伯爵家で自死でも選んでいたら大変なことになっていただろう。その理由が闇に葬られてしまっていたら尚更。オランデール伯爵家のご子息には考えを改めてもらわなければ」
ジョイスはそう言うと自分の意思を示すように握るスカーレットの手に力を込めた。貴族のように感情を隠すことなく、態度で示すノーマンに触発されたジョイスが勇気を出して握ったスカーレットの手。それは振り払われることなく、時折会話をするかのように力が返ってきた。だからジョイスは、再び思いがこの手から通じるようにと握ったのだった。
薫さん、恐らく分かっていません…。




