王都オランデール伯爵家29
王宮からの承認を得ている通訳は費用が嵩む。国絡みの内容で必要となり依頼するならば割安だが、私的な場合はそう設定されているからだ。そもそも隣国から多くの貴族がやって来るのだ、既に優秀な通訳者に空きがあるはずがない。
時すでに遅し。オランデール伯爵は先が見通せない中、後は何が出来るか考えた。
セーレライド侯爵家と交わした契約書を細部まで確認したくても、書面は全て隣国の言葉で書かれている。翻訳を依頼することも考えたが、それでは全てを第三者に読み取られてしまう。契約に際し交わした手紙の内容も何もかも全てはサブリナの頭の中。ジャスティンが理解していたのは大筋だけだった。それはそうだろう、その大筋をジャスティンは伯爵に報告していたのだ。即ち、ジャスティンが今話せる内容は、伯爵も知ることにほかならない。
使えない。
この家で使えないのは役立たずの嫁サブリナだったはず。それが、本当はジャスティン、クリスタル、そして夫人だった。それぞれが樹液に群がる虫。しかし管理を怠ったのは伯爵自身。どうしてもっと早く、この三人がうまい汁を吸っているだけだと見抜かなかったのか。しかもその汁は恐ろしい程旨かった。他の汁では満足出来なくなってしまうくらい。だからジャスティン達はサブリナに大切と付けていたのだ。
新たな契約という言葉につられ、セーレライド侯爵の訪問に歓迎の返事など出さなければ良かった。
もっと慎重になり、契約に関しては時間が欲しいから今回は親睦を図る為に訪問して欲しいと書いていれば。
クリスタルが多少なりとも隣国の言葉を話し、会話の場に花を添えてくれたならば。
夫人が実家の伝手で隣国の言葉に堪能な者を知ってさえいたならば。
どれも現実にはならない仮定。今伯爵が実行出来る確実なことは、ジャスティンをこのまま伏せさせておくこと。それを理由に契約は改めて隣国へ書類を送るとセーレライド侯爵に伝えることだ。そしてクリスタルに最低限の言葉を復習させ、当日は笑顔で挨拶くらいはさせなくては。その上で、セーレライド侯爵に頭を下げ、この国の言葉を使ってもらえるよう依頼しなくてはいけない。
伯爵がジャスティンをそうだと思っていたように、セーレライド侯爵の息子も国境を越え取引をするくらいなのだからこの国の言葉を話すだろう。
「失礼いたします。旦那様、支払いに関してご連絡が」
セーレライド侯爵訪問の準備もしなくてはいけないというのに、家政までとは。ここで一言『サブリナを呼べ』を言えたならどんなに良かったことか。
しかしもう呼ぶことは出来ない。この邸中にいないのだから。それに既にそんな関係ではなくなっている。
どんなに業腹だとしても、伯爵は知りたいことを明らかにする為にいずれサブリナを訪ねなければならない。けれど良い厄介払いとサブリナをファルコールへ送ってしまった。
嫌な予感がする。ファルコールまでの往復費用を掛けて、サブリナに会うことが出来なかったら?キャストール侯爵家所有の建物、それもキャストール侯爵令嬢のいるところに無闇矢鱈と立ち入れるはずがない。
伯爵は手元の書類に目を通し執事に苛ついた声で問うた。
「何故メイド長すら把握していないのだ」と。




