とある国の離宮10
努力、しかしそれは行えば良いというものではない。特に自己満足を得る為ではなく、相手がいる場合には。
テレンスは『殿下の愛称はマリアですか?』という言葉を咄嗟に留めることが出来て良かったと思ったのだった。
マリア・アマーリエの父親は一人。しかしその一人の父親には複数の妻がいる。そして、複数の妻の中で唯一マリア・アマーリエを愛称で呼んでいただろう母親は既にこの世の人ではない。
テレンスが言おうとしていた言葉に、マリア・アマーリエが肯定をしようと否定をしようと今は亡き母親を思い出させることは必至だ。しかし今の関係を前進させる為にも愛称は必須に思える。
「自分で言い出したことですが、特別な関係になった殿下と二人きりの時に愛称で呼び合うのは照れくさいですね」
「では、止めにする?」
「いいえ、止めません。わたしの愛称はテリーです」
「そう、分かったわ。わたくしはリエ」
「リエ…」
「どうかした?」
「呟いてみたら愛おしさが増しました」
「あなた、恥ずかしい方ね」
頬を赤くしてそっぽを向いたマリア・アマーリエが愛しく、そして可愛らしいとテレンスは思った。互いに愛称を伝え合っただけだが、今はそれで十分。呼び合うことで、互いを結ぶ見えない糸が太くなっていくようにテレンスには思えたのだった。
「ところで共寝のことは侍従長に伝えればいいですか?」
「それは、本気では」
「わたしは本気です。折角愛称呼びをして欲しいというわたしの懇願をリエが受け入れてくれ、互いに呼び合う機会を設けてもらえるのですから。勿論婚約者とはいえ、節度ある行動を取りますからご安心下さい」
「あなた、本当に恥ずかしい方なのね」
「どうか、テリーと」
「…テリー、侍従長には何と言うの。わたくしが侍従長と顔を合わせられなくなるような恥ずかしいことは言わないでもらいたいわ」
テレンスの懇願を受け入れてくれるマリア・アマーリエ。拒絶ではなく受容されることに喜びが増す。だからだろうか、テレンスはもう一つリクエストをしたくなった。受け入れてもらえることを願いながら。
子供の頃、スカーレットだけがアルフレッドをアルフと呼んでいたことを思い出したのだ。あれはスカーレットにだけ与えられた特権だったのだろう。
「リエではなく、リエーと呼んでいいですか?わたしだけのあなたの呼び方が欲しい」
テレンスは自分だけが使う呼び方を欲した。しかも、自分の愛称と同じような響きのものを。婚約期間中何度もマリア・アマーリエにリエーと囁き、そう呼ばれること、そう呼ぶテレンスの存在を当たり前にしたいと思ったのだった。
「…テリーだけ」
「リエー、そんな表情でそう言われると、二年が百年の長さに思えそうです」
「わたくし、まだ許可していないわ」
「でも許可して下さるつもりでしたよね?」
「あなたは恥ずかしくて、狡い方なのね」
「いいえ、絵描きで役者だとお伝えしたはずですが。あなたの毎日を色とりどりの世界にする為の」
「やっぱり狡いわ。そう言われてしまったら許可するしかないもの」
「ありがとうございます」
こうして一つ一つ会話を積み重ねていくことが重要だとテレンスは感じた。そして今更ながら考えずにはいられなかった。あんなに時間を共にして、様々な話をしてきたアルフレッドとスカーレットがたった一人の女性により終わりを迎えてしまうなどとはと。




