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令嬢生命、その言葉が命そのものではなく、令嬢としての価値を表しているのは分かる。けれど、貴族家に生まれた娘ならば、本人にとりそれは命そのものに近い。失えば悲観のあまり心の病になることもあるし、自ら修道院へ向かう者もいる。最悪の場合、命を絶つ者もいるくらいだ。
あの夢の中のスカーレットも最終的に命を絶ってしまった。デズモンドに令嬢生命を絶たれて。しかし、スカーレットが自ら命を絶ったのは、令嬢生命を失ったからではない。現にデズモンドに遊ばれ、捨てられたと貴族社会で知られることになっても、スカーレットは未婚のまま出産までしている。
スカーレットが命を絶ったのは、二度と戻って来ない、否、最初からデズモンドにはなかった愛を求め過ぎてしまったからだ。心から愛したデズモンドに裏切られてもベンジャミンを産んだスカーレット。それは、子供という愛の結晶を産むことで、一縷の望みに賭けたのだろう。形のない愛を、子供という姿で表し、デズモンドの愛を取り戻そうと。
ただそのベンジャミンの存在がスカーレットの正気を徐々に失わせた。そして、ベンジャミンとデズモンドの区別すらつかなくなる結末へ向かって行く。
『ベンジャミン、心から愛しているわ』というスカーレットの最期の走り書き。愛を求め続けたスカーレットが、最期だけは与える側になり常に持ち続けた欲求から解放されるとはなんと皮肉なことだろう。
目の前で真実を告白しようとしているデズモンドは勿論夢の中の人物ではなく、創造主の描いた世界を知らない。けれど、軽々しく令嬢生命を奪おうとしたなどとは言って欲しくなかったと薫は思った。
「令嬢生命を奪うことは、命を奪うことに等しいわ」
「ああ、分かっている。違うな、過去においても分かっていた。それなのに、そうしていた、人倫に悖る行為だ。でも、もう繰り返したくない…」
美しい顔のデズモンドの表情が陰る。それは、明らかに後悔の念に駆られているようだった。
薫が今ここでデズモンドの過去の行いを問い質すことは簡単だ。けれど、それは無意味。もう過ぎてしまったことだし、行ったところでデズモンドの自責の念を煽るだけ。だったら、もう繰り返したくないというデズモンドの気持ちに寄り添うべきだ。分岐点に立つデズモンドが、行きたい道へ進めるように。
「ごめんなさい、あなたの話を遮ってしまって。でも、もう遮らない。だから、教えて。そして、考えましょう。あなたがここでデズモンド・マーカムらしく生きて、そんな気持ちになってまで手に入れたかったものを得られるように。どうしてか分からないけれど、わたしはあなたを信じられるの。あなたが手に入れたいものが、悪いことには繋がらないと」
そしてデズモンドが薫に伝えた内容は重いものだった。




