事故で死んで神様に遭遇してスキルをもらったけど、こんなスキルだから平凡に生きることにした
終電の地下鉄に駆け込み、なんとか乗ることができた。
よかった。これで、ちゃんと家に帰って寝ることができる。
プシューッという音と共にドアが閉まり、地下鉄が走り出す。
俺は、車内の空いている席に足を運んだ。頭はボーッとするし、足はフラフラする。休みの日以外は、ほとんど終電での帰宅。運が悪ければ終電に間に合わず、カプセルホテルに泊まることになる。
朝は始発に乗り、会社に向かう。
始発から終電まで。何かの宣伝文句のような労働状況。明らかなブラック企業。
俺は疲れ切っていた。厚生労働省が定めた過労死ラインの残業時間は八十時間らしいが、それなら俺は、月に二回は過労死しなきゃならない。
これだけ働いても、財布の中は寒いままだ。残業代なんて出やしない。今時珍しいくらいの、圧倒的なサービス残業だ。
とはいえ、週に一日は休みがある。そこだけはまともだ。まあ、残業時間と違って、休日の有無は誤魔化しにくいからだろう。
休みの日の楽しみと言えば、趣味のライトノベルを読むことくらいだ。部屋の掃除なんてする必要はない。家にいる時間が短いから、散らかりようがない。
最近のライトノベルの流行は、なんといっても転生、チート、ハーレム。冴えない人生を送る主人公が死んで、転生して、チートなスキルを得て、モテまくって、多少の苦難はありながらも上手く乗り越え、美女に囲まれながらウハウハな人生を送る。
くそっ。俺もそんな人生を送りてーよ!
俺を囲んでいるのは美女達なんかじゃない! 柔らかくもずっしり重い美女のおっぱいでもない! 地獄のような激務と、固く重い書類ばかりだ!
あーあ。俺も転生してぇなぁ。
チートな主人公に転生できて、プルンプルンのおっぱいを持つ美女達に囲まれたい。そんな人生を送れるなら、今すぐ死んでもいい。
最後に彼女がいたのは、いつだったか。最後におっぱいを揉んだのは、何年前か。大学のときだったっけ。ああ、もう、疲れ過ぎて記憶も曖昧だ。
地下鉄が、自宅の最寄り駅に着いた。
今日は夕飯なんて食べなくていいや。帰ったらすぐに寝よう。もう疲れた。意識を保つことさえ重労働だ。
耐えがたい疲労と睡眠欲に襲われながら、俺は地下鉄から降りた。
早く寝たい。一刻も早く寝たい。帰ったらスーツなんて脱ぎ捨てて、すぐにベッドに横になるんだ。スーツが皺になったって構うものか。もうどうでもいい。とにかく寝たい。
駅から出た。
俺の家は、地下鉄駅から徒歩七、八分ほど。家まで、信号を二つ渡る。
暗い夜道を歩いた。国道沿いを、車が走っている。
この国道の信号を渡って、もう一つ、片道一車線の道路を渡れば家に着く。
信号機の前についた。赤。目の前の車道を、ライトを点けた車が通り過ぎてゆく。
早く信号変われよ。帰りたいんだよ。俺の帰宅を邪魔するなよ。信号が変わらないなら、せめて車は通るなよ。車が通っていなければ、国道だろうが高速だろうが横切れるんだから。
俺の願いが通じたのか、車の通りが途切れた。光るライトがなくなった。
一秒でも早く帰りたくて、俺は、迷わず道路に足を踏み出した。
信号は赤のまま。
車のライトの光は、確かになかった。でも、なぜか、タイヤが道路を走る音が聞こえた。
プーッ!!
大きな音が耳に届いた。クラクションみたいだ。音の方を見た。
ライトの光はない。ただ、目の前に、大きな影があった。キーッ!──というブレーキ音とともに、こちらに向かってくる影。
無灯火運転のトラックだ。
そう気付いたのは、しばらく経ってからだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
気が付くと、真っ白な空間にいた。まるで雲の上のような空間。
まあ、俺は、雲の上なんて行ったことはないが。
「やあ、目は覚めた?」
「?」
声が聞こえて、そちらの方に顔を向けた。
黒猫がいた。どこにでもいそうな黒猫。ただし、普通の猫とは少し違う。
この黒猫は、二本足で立っていた。
「こんにちは。僕は神様だよ」
「猫の神様とか?」
黒猫が喋った。本来なら驚くべき出来事だ。それなのに、なぜか俺は、その事実をすんなりと受け入れた。
直前の記憶を思い浮かべる。
無灯火運転のトラックが目の前に迫ってきた。そこから記憶が途切れた。
考えられることはひとつだ。
俺は、トラックに轢かれた。
だとすれば、ここは、夢か死後の世界のどちらかだ。
「猫じゃないよ。神様。偉いんだから、もっと敬ってよ」
「ああ、はいはい。んで、これは夢か?」
「夢じゃないよ。君は死んだんだ」
「トラックに轢かれて?」
「物わかりがいいね。そう。トラックに轢かれて」
「ってことは、ここは死後の世界か?」
「うーん。ちょっと違うね」
「じゃあ何だよ?」
「人はね、死んだらほとんどすぐに生まれ変わるんだ。この世には、産まれてくる命が無数にあるからね。君も、すぐに生まれ変わるんだよ」
「世界の出生人数って、そんなに多いのか? まあ、地球の人口は確かに増え続けてるけど」
「違う違う。君が今度生まれるのは、地球じゃないよ」
「なんだよ? じゃあ、宇宙人にでもなるのか?」
「それもちょっと違うね。君は、君の世界で言う、異世界に生まれ変わるんだ」
一瞬、会話が途切れた。
異世界。生まれ変わり。つまり、ライトノベルのような異世界転生。
「マジでか!?」
「うん、マジ」
「ぃよっしゃあ! 異世界転生キター!!」
俺は思わず、両拳を握って頭上に振り上げた。
「さようならブラック企業! さようなら地球! さようなら人類! 俺は異世界転生するんだ!」
「ずいぶん嬉しそうだね」
「当たり前だ! 異世界転生にどれだけ憧れたか! ようやく夢が叶ったんだ!」
「そんなに嬉しいの?」
「もちろん! だって、神様ってことは、転生するときに俺に特殊スキルを与えてくれるんだろ!?」
「まあ、そうだね」
「どんなスキルなんだ!? 早く教えてくれよ!」
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃ」
分かりにくいが、今の声は、猫──神様の笑い声のようだった。表情の変化に乏しいが、目が笑みの形になっている。
「知りたい?」
「当然!」
「じゃあ、どんなスキルかを教える前に、前提を話すけど」
「うん?」
「君が転生するのは、ロス・シュワイマーっていう人間だ。ハラスメント共和国にある都市の、ある一家の息子。軍人の父と、専業主婦の母の子だ」
「なんか嫌な名前の国だな。なんかこう……嫌がらせが流行ってそうな」
「そんなことないよ。ハラスメント共和国は、しっかりとした国防と豊かな財政で、その世界では一番暮らしやすい国って言われてるんだ」
「国は名前によらないんだな」
「そうだね」
神様は言葉を切って、自分の左手を舐めた。その手で顔を擦り、後ろ足で首元を掻いた。まるっきり猫じゃねーか。
神様は話を続ける。
「ちなみに、君が生まれ変わる世界には、物語のような魔法なんてない。そういった意味では、人間の概念は地球とそれほど大差はないね。まあ、そのぶん、馴染みやすいと思うよ。文明の程度は、君の世界で言う産業革命以前くらいかな」
「なんだ。ないのか、魔法」
ファイアーボールとかサンダーボルトとかアイスクラッシュみたいな名前の魔法に、少し憧れたんだけどな。
まあいい。魔法がない世界で特殊なスキルを持ってるってことは、それだけで俺が無双できるってことだ。
「で、どんなスキルを俺にくれるんだ? 早く教えてくれよ」
「ふふん。知りたいかい?」
「もったいつけるなよ」
「じゃあ、教えるよ」
「ああ」
「……ドゥルルルルルルルルルウルルルウルルル……」
「は?」
「……ドゥルルルルルルルルルウルルルウルルル……」
「もしかしてそれ、ドラムロールのつもりか?」
「……ドゥルルルルルルルルルウルルルウルルル……」
「神様って割に、ずいぶん俗っぽいな」
「……ドゥルルルルルルルルルウルルルウルルル……」
「しかも長ぇよ、ドラムロール」
「……ドゥルルルルルルルルルウルルルウルルル……」
「いや、もうドラムロールはいいから。むしろ、もったいつけ過ぎてくどいから」
「ドン! シャーンッ!」
「それ、ドラムを叩いた音とシンバルの音のつもりか?」
「はい! 君に授けるスキルの発表です!」
「無視かよ。まあいいけど」
「君に! 授ける! スキルは!」
「どんなスキルだ?」
「なんと!」
「うん」
「なななななななななな、なんと!!」
「早く言えよ」
「ジャーン! これだ!」
神様は二本足で立ったまま、その場でくるくると回り始めた。まるでフィギュアスケーターのように。しばらく回った後に止まり、右手を頬に当て、左手を俺に向けてポーズを取った。
もし人間の姿でこんなポーズを取ったら、ただの痛い人だ。
でも、猫の姿でやられると……まあ、可愛くはないよな。なんかシュールだ。
「君に授けよう、このスキル!」
決めポーズのまま、神様は宣言した。必要以上に大きな声で。
「ドドドドドドドドッ! ドーンッ! 狙った相手の口の中に、自由自在に口内炎を作れる能力! 最強スキルここに降臨!」
……
…………
……………………
………………………………
「……は?」
「え? 聞こえなかったの?」
「いや、聞こえたけど。口内炎、って」
「どうだい? 凄いだろう? どんな奴の口の中にも、自在に、口の中の好きな場所に、口内炎を作ることができるんだ!」
「……」
沈黙。
真っ白な空間の中に、真っ白な沈黙が漂った。
霧なんて出ていない真っ白な空間なのに、俺の目の前には、確かに靄が掛かっていた。白けた空気、という名の靄。
俺は、盛大な溜め息をついた。
「なんだよ? そのしょぼいスキル」
「失礼だな」
猫の姿だから、神様の表情は分らない。だが、なんか怒っているように見えた。神様の周囲に「プンスカ」という文字が見えそうな怒り方だ。
「口内炎をナメちゃいけないよ、君。想像してみてよ。口内炎が、奥歯のすぐ横の頬肉にできたときのことを」
「はあ」
「喋っても歯に擦れて痛い、食べ物を食べても歯に擦れて痛い、水を飲んだら染みる、口呼吸をして口の中が乾いた後に口を閉じたら、唾液で染みて痛い。これ以上ない能力じゃないか」
「いや、確かに痛いと思うよ。想像しただけで痛い。でも、さ」
「なんだい?」
「もっと凄いスキルとかないのか? たとえば、銃で撃たれても平気で、刃物で切りつけられても怪我もしなくて、そのうえ遠距離からでも攻撃できる超能力とか」
「何言ってんだい? 現実を見なよ」
「いや、猫の姿をした神様にそんなこと言われても」
「とにかく!」
神様はフンッと鼻を鳴らした。
「この超絶スキルを持って、君はロス・シュワイマーに生まれ変わる! さあ! 行きたまえ!」
「はあ」
生返事をしながら、俺は空を見上げた。この空間では、ただ白い景色が続くだけだが。
やがて、視界がボヤけてきた。自分の存在が、この空間で希薄になってゆくのが分る。どうやら、転生するらしい。
薄くなってゆく意識の中で、俺は思っていた。
やっぱり、ライトノベルみたいな超絶スキルなんてないんだな。それなら、普通に頑張って、普通に生きよう。
もう、ブラック企業で働くことにならなければ、何でもいいや。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ハラスメント共和国。
大陸の中でもっとも大きな国力を持つ、世界の中心とさえ言われる国だ。
そこに、ロス・シュワイマーは誕生した。
ロスは幼い頃から賢く、努力家だった。勉強も運動も人並み以上にできた。まるで、どうすれば物事を上手くできるか、最初から分っているかのように。
やがてロスは、ハラスメント共和国の軍隊に入隊する。
彼は周囲からの人望も厚く、尊敬される人物だった。いつも、人の輪に囲まれていた。
だが、彼自身は決して驕り高ぶることもなく、謙虚に生きていた。平凡だが、順風満帆な人生。そんな言葉が、彼の人生にはよく当てはまった。
ロスが入隊した軍隊。彼が所属する部隊には、嫌われ者の部隊長がいた。パワハーラ、という名の部隊長。
パワハーラは高圧的で、部下にキツく当たり、怒鳴り散らすことも暴力を振るうことも日常茶飯事だった。
だが、そんなパワハーラの横柄な態度は、ロスが部隊に入った頃から影を潜める。怒鳴り散らすことも、部下に暴力を振るうこともなくなった。それどころか、いつも苦悶の表情を浮かべて、額に脂汗を浮かべるようになった。
何か重篤な病にでもかかったのではないか。そんな噂が流れた。しかし、病院で検査しても、何の異常も見られなかった。
それから、長い年月が過ぎた。
パワハーラが亡くなったときに、彼の家族が日記を見つけた。パワハーラの日記。
日記には、パワハーラの苦痛の日々が綴られていた。部下に高圧的な態度を取る度に、歯の横の頬肉に大きな口内炎ができるのだ。しかも、両頬に。一つだけではなく、複数個。それが痛くて痛くて、怒鳴ることもできなくなった。
ひどいときは、口内に四十八個もの口内炎ができたという。あまりに痛くて、食事すらままならなかったらしい。
やがてパワハーラは痩せ細り、定年を待たずして早期退職する。その後は、かつての姿が嘘のように、部屋に閉じこもって生活したそうだ。
パワハーラの後釜として部隊長となったロスは、小さく呟いたという。
「確かに口内炎をナメちゃ駄目だな」
その言葉の意味を知る者は、誰もいない。
◇おまけの裏設定
作中のパワハーラには、セックハラーという親友がいます。