ラクダとケーキ
妹の幸子は階段をいつもより音を立てて上り、兄の部屋のふすまを断りもなく開けた。
「ちょっと!うちのケーキ食べたでしょ!」と幸子は怒鳴り声で言った。
兄の狭い部屋で出すような声の大きさではなかった。
それが今日、はじめての兄妹の会話だった。
そして、二日ぶりでも会話でもあった。
何の変哲もない土曜日、時刻は午前10時半だった。
兄は畳の上で横になり、漫画を読んでいた。古本で買ったらしき漫画は随分と茶色になっているみたいだった。
「でかい声だな。たった2メートルぐらいしか離れてないだろ。おれは対岸にはおらんで。」と兄は幸子の顔を見ずに、対照的に気の抜けた声で言った。
だが、幸子は気にせず、「なぁ!うちのケーキ食べたでしょ!」とさきほどと声のボリュームを変えずに再び言った。
それに今度は兄の部屋に足を踏み入れていた。
「うるさいのぉ!お前、高校で応援部にでも入部したんか?」と兄はまだ幸子の顔を見ず、目線を漫画に向けながら言った。だが、声は少し大きくなっていた。
幸子は今年、高校に入学したばかりだった。そして、入部した部活は、部員が全員静かな茶道部だった。
無駄な音はご法度なのだ。
「ふざけんな!」と幸子は言い、兄の部屋の角で山ずみにされているぬいぐるみの中から、何のキャラクターかわからないラクダのぬいぐるみを手に取り、横になっている兄に向かって投げつけた。
ラクダのぬいぐるみは素早くニ回転し、見事に兄の頭に当たってから、軽く跳ね、畳の上で仰向けになった。
それをよく見てみると擬人化されたラクダのようだった。
「イテッ!何すんねん!」と兄はぬいぐるみが当たった箇所を手で抑えた。
「それはこっちのセリフだわ!勝手に人のケーキ食べんな!」と幸子は言った。
「あぁ、可哀想に、ラクタン。」と兄はラクダに目を向け、そう悲しい声を出してから、やっと幸子の顔を見た。
ラクダのぬいぐるみから出た埃が窓から入る午前の陽の光に映し出され、部屋中に舞っているのが分かった。
ちゃんと掃除をしてないのも可哀想だと、幸子は心の中で思った。
両者は埃が舞う空気を間に、にらみあっていた。
目と目が合う時は、冬眠終わりの熊のようにいつも危険な状態なのだ。
だが、数秒もしないうちに、
「お前、痩せたな。なんか綺麗になっとるで。」と兄は言ってきた。
またつまらない、笑えない兄の冗談なのだとすぐに理解できたのだが、
その言葉に幸子は少し黙ってしまった。
そして、
「...はぁ?何?...気持ち悪いんだけど。」と言った。声のボリュームはやや下がってしまっていた。
「いや、本当に。シュッとしたで。多分、ケーキ食べてたら違ってたで。得や。美人は得や。」とにやけながら言い、視線をまた漫画へと戻した。その顔は幼い頃から飽きるほど見てきた兄のからかい顔だった。
幸子はまた兄が漫画の世界に入り込む前に、
「謝って!食べたことを謝れ!」と言った。
すると、「ごめん、ごめん。美味しく頂きました。やっぱ生クリームも食べたいんか。」と兄は笑いながら言ってきた。
それは茶道部をからかった発言だとすぐに理解できた。
幸子はその言葉に呆れてしまい、
「クソバカ!」と言って、ふすまを閉めずに階段を降りていった。
そして、また音を立てて降りている途中、なんでエセ関西弁を喋ってんの。と幸子は心の中でバカにした。
幸子は16歳で兄は大学生で19歳だった。そして、もうすぐで20歳になる。
幸子は、兄が大学進学をきっかけにして家を出る事を望んでいたが、兄は家賃が勿体無いし、大学は家から近いし、ご飯が食べれるから実家がいいと言い張り、家から出なかった。
そして、過保護気味の両親はそれに反対をしなかったし、むしろ喜んでいるようだった。
「賑やかでいいじゃない。」と言うばかりだった。
幸子にとって賑やかとは、喧嘩の怒号なのだ。良いわけがない。
昔から兄妹仲が悪い訳ではなかったが、幸子は今、兄と一緒の空間にいると、名の知れぬストレスが溜まっていく時期なのだ。
幸子は一階に降りると、また台所まで歩いていった。
怒りを収める為に、何か甘いものが欲しかった。固形物だって、ジュースだってなんだっていい。
幸子はいつもより荒く、力強く冷蔵庫の扉を開け、中を見てみた。
だが、ぱっと見で幸子の心を満たしてくれそうな食べ物はなさそうだった。
ソーセージ、豆腐、ケチャップ、お茶、無糖ヨーグルト。
幸子は無糖の二文字を見ると残念がった。なんでわざわざ無糖を選ぶのかが昔から理解できなかったのだ。
幸子はさらに冷蔵庫の奥を探してみた。
すると、先程探した時には見つからなかったケーキ屋さんの白い箱がチラッと見えたのだ。
幸子はそれに気がつくと思わず、「あっ」と声に出した。
さっき、ちゃんと見たはずなのに...。
そして、冷蔵庫の中を整理してから、小さな白い箱を取り出した。
手に持った瞬間、ケーキ一つ分の重さがちゃんと伝わってきた。
幸子は特徴のない白い箱を食卓の上に置き、持ち手部分のシールを剥いでから開き、中身を確認してみた。
そこには勿論、昨日の学校帰り、幸子が買ったいちごのショートケーキがあった。
つやつやにコーティングされたいちごが乗った白いケーキだ。
その時、タイミングよく母親が買い物から帰ってきた。
「ただいま~」と声がし、ビニール袋が擦れる音が聞こえてきた。
幸子は母の顔を見ると、おかえりも言わずに、
「お母さん!これ奥にやったでしょ!」と白い小さな箱を指さしながら、母に言った。
「うん。そうだったかしら?」
「そうだよ。昨日は手前に置いてたから、気付かなかったよ!」と少し怒りを込めて言った。
「あら、そう。けど、あるからいいじゃない。」と母はさっそく買ってきた食材を仕舞おうとしながら、どうでもよさげに言った。
先ほどの兄妹喧嘩については何も知らないのだ。
幸子は下唇を軽く前に突き出し、その場で立っていた。
そして、考えがまとまると箱を閉じ、ケーキを入れたまま、また冷蔵庫に戻した。
どうしてか食べる気分にはなれなかったのだ。
「そうそう、幸子。お兄ちゃんから聞いた?」と今度は母が手に野菜を持ちながら聞いてきた。
「何を?」と返事をした幸子の声はいつもの声とはまだ違っていた。
「あらっ、言ってないのね。お兄ちゃん、明日、家から引っ越すって。」
「...えっ!そうなの!」と幸子は驚きながらも、二階に届かないようにと抑制された声で言った。
「そう。私たちにも教えずに、突然の事よ。まったくね~」と母は色んな感情が入り混じったような声でそう言った。
「どこに?ここから近いの?」
「うん。大学からは近いけど、家からだと反対の方角だからね。」
「えっ、一人暮らし?」
「いや、誰かと住むみたいよ。」
「えっ、彼女?」
「知らないわよ。けど、そうかもね。」と母は笑った。
「人と一緒に住んだ方が、安いってよ。」
幸子は少し混乱し始めた。
兄がいきなり引っ越しをし、それに彼女がいる可能性なんて考えた事もなかったのだ。
すると、階段を降りる兄の足音が聞こえてきた。
「あらっ、どこかにいくの?」と母は兄の姿を見て言った。
兄は服を着替えていた。ラフな格好ではなく、初めて見る服で、小洒落た格好だった。
「うん。ちょっと出てくるわ。」
「晩御飯はうちで食べるでしょ?」
「いや、今日は晩御飯いらないわ。明日帰ってくる。」
「あら、そう。気をつけてね。」
「うん。いってきます。」と兄はそそくさと家を出ていった。
幸子は何も言わずに兄の後ろ姿を見送った。
経った数分で、兄が遠くに、対岸に行ってしまったように感じた。
「あぁ、せっかく今日色々買ってきたのに。もう家族全員揃って食べれないかもしれないのにね。」と母は残念そうに言った。
「お母さん、それは大袈裟だよ。一生の別れじゃないんだから。」と幸子は言った。
「そうね。大袈裟だわね。」と母は笑った。
母が食材を仕舞い終えると、
「ねぇ、お母さん、ケーキ食べる?」と幸子は聞いた。
「あなたが食べなさいよ。せっかく買ったんなら。」
「いや、なんか食べたい気分じゃないの。」
「そう。けど、気分なんてすぐ変わるものよ。だから、後で食べなさい。」
「...うん。ならそうする。」と幸子は弱々しい声で言った。
幸子は自分の部屋に戻る事にした。
階段をゆっくりと上がった。今回は音を立てなかった。
そして、なぜか兄の部屋のふすまが開けたままである事に気づいた。
いつもならちゃんと閉めてあるのだ。
幸子は兄の部屋をチラッと見た。
そう言われてみると、随分と荷物が減っているように見えた。
そして、姿勢を正されたラクダのぬいぐるみが壁にもたれていた。
栄養を蓄えているコブがペタンコになりながらも、倒れないようにバランスを取っていた。
ラクダの視線は窓の方に向けられており、
その小さな瞳には光が反射し、輝いているように見えた。
いや、見ようによれば、どこか潤んでいるようにも見えるのだ。
足を止めた幸子は、これから隣の住人は彼になるのだろうか?と思い、
兄の部屋に向かって、
「ごめんね。」と小さな声で言った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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兄の彼女は関西人の設定です。