風車蓮
春・花小説企画参加作品です
中華風で若干流血有り。
――決して忘れてはならない記憶
――記憶の中の季節はいつも春だった
「ねえ、紅雨 」
ぽかぽかと暖かい春の陽気の中、少年は庭の畑の草を抜く少女に声をかけた。
「何、苑攸? 」
紅雨と呼ばれた少女は作業を止めて、彼の方に顔を向けて首を傾げる。
「何でもない」
「変なの」
意味ありげに笑う彼に、彼女はくすくすと笑う。
そして畑の草抜きが一段落し今度は庭の片隅で花を咲かせる植物の周りの草抜きを開始した。
少年は軒先でつまらなそうにその様子を見ていたが、意を決したのか彼女の傍に座り込み同じように草を抜きはじめる。
「そこに座ってていいのに」
「だって退屈だし」
少し動いて彼の場所を確保しつつ彼女は申し訳なさそうに呟く。しかし、苑攸と呼ばれた少年は気にするなといった様子で、そんな様子に申し訳なさそうな彼女の口から笑みがこぼれる。
お互い年の頃は十代半ばだろう、互いに肩を寄せて笑い合うそれは恋人というより実に仲の良い兄弟のようであった。
「……俺のことどう思う? 」
「大事な親友だよ。他に友達いないが」
帰ってきたのはごく当たり前の純粋な言葉。
彼女にとって彼は初めての友人であり無くてはならない存在。
だが悲しいことに苑攸の言葉の真意は彼女には伝わらなかったようである。
「そっか。俺もだ」
言う苑攸はほんの少し落胆した様子であったが、気を取り直した様子で目の前に咲いている花に目を向けた。このいまいち華やぎにかける庭に咲く唯一の花。
彼はその一輪に手を伸ばしつつ口を開いた。
「ねえ、この花って……」
***
――それから十年後
八州国南部の楼州が州都南喜。
戦乱の渦巻くその街で。
街の一角、一つの人影が壁に背を預けて息を吐いた。
傷だらけの手にはやや小振りの戟、そして顔の半ばまで隠れるよう目深に被った外套は赤黒く染まっていた。
「……こんなところで何を思い出しているんだ私」
一瞬脳裏を過ぎった楽しかったころの記憶を振り払いつつその人物は呟く。
戟に付いた血を拭いつつ発せられた声は意外にも若い女のもの。
今はそんなこと思い出している状況じゃないのに……馬鹿だ。
頬に付着した血を拭い彼女は街の中央の高台に連なる黒い甍を視界に映す。
甍の連なり、楼州州城に青地に地を駆ける銀狼を描いた旗が揚げられていた。
……この国のものでは無い異国の旗。
終わりの無い平和なんてない。
かつて大陸の宝珠とさえ謳われた豊かな国。
今、その宝珠は淀み砕けつつあった。
内紛による混乱、そこにつけこんだ西夷の王は八州国への侵攻を開始したのだ。
侵功は迅速に行われ、漣州、楼州の南部二州が瞬く間に落とされた。
そして今、州都を占領している西夷と州都の門を破った楼、寧の二州師が衝突し、そして自国の苦境を助けようと一部の民が武器を手に立ちあがった。
しかし西夷の将は思いのほか優秀であるらしく、街の各所に効率よく配置した伏兵と城から間断なく放たれる弩や投石機が八州国軍を苦しめる。
……戦況ははっきり言って西夷側に傾いていた。
州城にたなびく旗を憎しみに満ちた目で睨み据えた彼女は、得物を頼りに立ち上がる。
「…………か」
髪に挿した髪飾りの感触を確かめつつ、自分にも聞こえぬ小さな声で感慨深げに呟く。
髪飾りに託された言葉が、心の中に蘇った。
「! 」
思った瞬間彼女は戟を素早く構えつつ後ろに跳ぶ。
先ほどまでいた場所を銀が通り抜け、地面に数本の矢が突き刺ささった。
背筋に冷たいものが走るのを感じつつ、さらに横に跳ぶと間断なく突き出された槍が外套の一部を引き千切った。
彼女は瞬時に状況を理解して舌打ちする。
弓兵と槍兵。
……一瞬遅れていたらやられていた。
再び彼女を狙った矢を、戟の柄で払い落し見通しの悪い路地に入りこむ。
しばらくは弓兵は動けず、これで相手は目の前の槍兵のみになった。
しかし彼女の表情には安堵の色は無く、得物を振り回して相手を牽制する。
彼女は夏の大気で乾燥した唇を湿らせつつ相手を見据える。
鎧や得物の槍の形状から見てどう見ても友軍では無い。
相手は男、正面からの力押しでは敵わない。
しかし彼女の顔には恐怖の色は無かった。
『そもそも戦うために、敵兵を殺すためにここにいる』
歯を食いしばり、彼女は一つの想いを胸に敵を屠るべく地を蹴った。
八州国の歴史書に記された、西夷の侵攻のおりに活躍した一人の女。
『風車蓮』
義勇軍に加わっていたという女は為した勲功にもかかわらず、その奇妙な名と勲功に関する記述の他に彼女に関する記述はほとんど無い謎の多い人物である。
――近年発見された別の古書に記述される一人の老婆が語った話以外は。
***
――風車蓮の記述の数年前
「この花か? 鉄線蓮という花だ」
髪飾りについた花の名を問われた女は花に指をふれつつ目を細めた。
それは一刻ほど前に遡る。
楼州のとある街、安くて美味いと評判の飯店で彼女らは偶然相席になった。
近くの村から買い出しに来たという女の名は芳春
戟を片手に旅をしている女の名は紅雨。
全く異なる生き方をする二人。
しかしそれ故だろうか、二人は気が合ったようである。
他愛の無い話に花を咲かせる中、芳春は紅雨の髪を飾るそのあまり見かけぬ花飾りに目がとまったのだ。
紅雨の頭の左側に編み込むようにして結った黒髪を飾るのは掌ほどの大きさの花。
六枚の白い花弁の中央にまるで蓮のような紫色の花弁が咲いている。
それは芳春の記憶になかったが、その珍しい造形に惹かれた。
「鉄線蓮、ね。初めて見たわ」
「確かに、ここじゃあまり見かけないな」
「紅雨の出身って」
「この州だ。親は榎州の出だが」
榎州とはこの楼州の北東の州であり、その面積のかなりの部分を占める森林と豊かな自然が特徴的な州。鉄線蓮は決して珍しい花では無いが、本物の花というと紅雨自身も楼州ではあまり見たことが無かった。
「ま、これは母さんの形見だけど……そして奴に対する目印でもあるんだ」
紅雨にしては何となく口にした程度の言葉だったが、彼女はどこか楽しげであった。
強いて言うなら恋する乙女と言った様子か。
その様子に芳春はくすりと笑い、紅雨はどうしたのかと首を傾げた。
「いや、意外だなって思って」
芳春の目の前の彼女は女のなりをしているものの、その脇には物騒な長柄の武器が立てかけられている。
「失礼な。これは護身用だよ」
彼女は箸を置いてぽんと長柄を叩いて苦笑した。
「そりゃそうね」
現王の治世のおかげで非常に豊かで平和なこの国、しかしさすがに女が丸腰で一人旅は厳しいらしい。芳春は納得しつつも、目印とはどういうことかと問う。
「なに、つまらん話だよ」
紅雨は苦笑し、余興とばかりに口を開く。
淡々とした口調で語りつつ彼女は今までの半生を思い起こしていた。
彼女の生まれは楼州の中でも北西の隣の漣州に近い山中。物心つく前に母は身罷り、父親に育てられたため母親の顔は覚えていない。
しかし、庭の片隅に咲いていた鉄線蓮の花が彼女を見守るかの様にいつも春になれば咲いていた。
『この花はお前の母さんだよ』
まだ物心ついたばかりの頃の父のそんな言葉は今でも鮮明に覚えている。
炭焼きのようなことをして生計を立てていた父を助けながらの生活。
母がいないのは寂しいとも思わなかったし一月に数度は村に下りるので特に人恋しいとも思わなかった。
そのまま変わりなく繰り返される日常、それが当たり前になっていたころ……
彼女の世界に大きな変化が起こる。
「ほんっとうに助かったよ! 」
二人が山菜取りから帰ってきたところ、戸口に少年が行き倒れていた。
助け起こしたところ本人は断じて迷子では無いと主張していた少年はよほど腹が減っていたのか 彼女が差し出した握り飯をがつがつと貪った。
この地方の人間の特徴である日焼けした肌に、ぱっちりとした目と通った鼻筋。しかしその整った顔立ちを台無しにするばさばさに荒れて色褪せた髪の少年。
「これおじさんが作ったの? 」
「そうだ。美味いか」
「うんっ! 」
少年のあまりに元気な様子に楽しそうに言葉を交わす父の傍ら、彼女は奇妙なものを見るかのような様子で彼を見ていた。
おそらく近隣の村の子だろう。こんな山奥に二人だけで暮らす親子を全く気味悪がる事もないなんて……妙な奴だと彼女は思った。
「ねえ、君はここに住んでいるの? 」
「そうだが」
彼女の言葉は女性らしいものからほど遠く、警戒の念もあって酷く冷たく無愛想に響いた。
しかし、彼は気分を害した様子はなく彼女に手の平を差し出した。
どういう意味だろう?
彼の意図を量りかねて彼女は傍らの父親を見上げる。
父親は意味ありげな笑みを浮かべて、彼女の背をポンとたたいた。
握り返してやれということらしい。
「よろしく……」
父の無言の圧力に負けたのか彼女は曖昧な笑みを浮かべて彼の手を握った。
「友達になろう」
「ともだち? 」
彼女の手を握りつつ彼はそう言い、その言葉の意味すら分からぬ彼女は首を傾げた。
当時は流民まがいの彼女ら親子に対する風当たりは強かった。
故に己に近づこうとする者は父以外には初めてであり、警戒の念を抱いた。
「ねえ」
「……」
彼の笑顔を見ているとそんなことを考えるのが馬鹿馬鹿しくなり、彼女は乱暴に彼の手を握った。
「僕は苑攸」
「……紅雨、だ」
初めに少年、そしてその無言の視線に促されるように彼女は己の名を呟いた。
舞い落ちる花弁。
おおよそ己に似合わぬその名を彼はいい名前だね、と彼は言った。
その言葉に複雑な気持ちになりつつも彼女は思った。
……悪くはないな、と。
初めての友人。それは彼女の生活を大きく変えた。
「また来たのか……物好きな」
「うん。邪魔だった? 」
戟の先を突き付ける彼女はその先にいた者に対して溜息をついた。
野盗かと思い奇襲を仕掛けてみれば、昨日会ったばかりの苑攸だったから無理もない。
「邪魔では無い。だが紛らわしい真似をするな」
一歩間違えば戟で串刺しにしてしまうところだ。
憮然とした様子の紅雨に苑攸は大丈夫だよ、と危機感の無い笑みを浮かべる。
「それにしても紅雨は槍使えるんだ」
変わらず呑気な様子の彼に彼女はぴくりと目の端を震わせる。
槍ではなく戟であると訂正する気力も起きず再度溜息をついた。
「……妙なやつ」
「褒め言葉と取っておくよ」
そんなやり取りが繰り返されつつも次第に二人の関係は自然なものとなり、苑攸は彼女の元をほぼ毎日訪れる様になっていた。
苑攸は住んでいる村を教えてはくれず、素性の良く分からない少年であった。
しかし彼女も、彼女の父も娘の初めての友人を快く迎えた。
「ねえ、この花って風車に似ていないか? 」
そんなある日、鉄線蓮の手入れをしていた時改めて苑攸はそれに意識を向けた。
「風車……確かに似ているな」
苑攸の手には一輪だけ千切った鉄線蓮の花。
別にあの時から比べてかなり増えてしまったので紅雨も一輪くらい千切ったところで咎めることは無く、じっと彼の手にある花を見つめる。
くるくると指を擦り合わせて花を回転させる様を見ていると、何となく得心が行き彼女は手をぽんと叩いた。
確かに西に傾く陽を背にくるくる回る様子はよく子供が息を吹きかけて遊ぶ玩具に似ている。
「私は車輪に似ていると思ったが」
「さすがにそれはあまりに夢の無い表現だろう。仮にも花だ」
「悪かったな」
からかうような様子の彼を睨みつけてその手から花を引ったくり、掌の上でくるくると回した。
愛らしいというよりすっきりとした品のある花、彼女は父のの言葉も手伝ってか彼女はそれに母の面影を見ていた。
母はおそらく花が好きだったのだろう。
……一体この花に込めた想いは何なのか。
父は時が来たら教えるといつもはぐらかされ、彼女は今まで知ることができなかった。
「紅雨はこの花が好きなのか? 」
「……どちらかといえば」
苑攸の問いに答えつつ庭の隅に植えられている鉄線蓮を見つめる。兄弟の様に育ち、よく世話をしたその花は昔よりかなり花を増やし、彼女が開墾してほとんどが畑となっている華やぎに欠けた庭を彩っていた。
「ん? 」
突然、手の平の中の花の感触が消えた。
落としたのかと首を傾げて彼女は足元を見まわしてみる。
……見当たらない
どこに行ったのかと思った時髪にすっと何かが滑り込む感触が彼女を撫でた。
「似合うじゃん」
反射的に顔を上げた先、鼻の先が触れ合うほどの距離に苑攸の顔があった。
反射的に身を逸らした彼女は、恐る恐る彼の手が触れていた部分に触れて目を見開く。先ほどまで彼女の手の平の中にあった感覚がそこにあった。
「突然何を」
「いや、単に似合いそうな気がしたから」
夕闇の中で彼の唇の間から覗く歯が白く光る。確かに彼の言葉の通り彼女の整ってはいるものの決して可愛らしいとは言えない顔立ちを引き立てるかのようにとても似合っていた。
「……ありがとう」
彼女はしばらく沈黙していたが呟いて口元を緩める。彼女は気づかなかったであろうがその頬は夕日の紅さとは異なる紅が差していた。
「そろそろ夕餉の支度をせねば。今日はお前は食っていくのか? 」
心の中に渦巻く感情を誤魔化すかの様に彼女は髪に花を挿したまま立ち上がり、襦裙についた埃を払いつつ問う。そろそろ父親が疲れ切って帰ってくるだろうから暖かいものを食べさせてやらねばならない。
基本的に家事全般は彼女の担当であり、人数の勘定にはいつの間にか彼女ら家族に溶け込んだ苑攸も入っているようである。
「ああ、あとできれば泊めてくれない……」
「却下。すぐにできるからとっとと食って家に帰れ」
冗談めかして苑攸はそんなことを口にするが彼女はあっさり却下して、手伝えとばかりに手招きした。
「酷ぇ」
やはり先ほどのことは彼女に気に障ったのだろうかと思いつつも、それ以上気に病むことなく彼女の後を追った。
二人の間での恋愛感情。
確かにその瞬間だけはそのような感情があったようである。
しかしこれ以降も一年余り二人の交流は続いたがその関係は良き友人のものであり互いに異性として意識することは無かった。
ある日、彼は彼女にこう言った。
「俺は紅雨に感謝しているよ」
「また改まって何を言うかと思ったら」
突然の改まった様子に不思議そうな紅雨に彼はいつもとは違う寂しげな笑みを浮かべた。
「妙なこと言ってごめん」
その言葉に紅雨はポンと彼の肩を叩き、口を開く。
「私もね、苑攸がいてくれてよかったと思う。始めは妙な奴と思ったけど」
そういって紅雨は彼の頬に軽く口付ける。苑攸は目を白黒させて驚いたが赤面しつつも吹き出し、紅雨もつられるかの様に笑った。
――その日を境に苑攸はここを訪れなくなった。
――それから二年。
「……来ないな」
戟を振るっていた手を止めて大地を石突でトンと叩きつつ、あの時より少し成長した彼女は溜息を吐く。
穂先の横に引き切るための刃が付いているそれは彼女の良き相棒であるが、やはり苑攸の代わりにはならない。
苑攸が来なくなった時、突然のことに彼女はそれを受け入れることができず、ひょっこり現れるのではないかと毎日待ち続けた。
戟の鍛錬をし、畑を耕しながら。
来る日も来る日も。
季節は鉄線蓮が咲く季節を二度繰り返し、もうすぐ鉄線蓮の季節も終わる。
しかし、便りの一つもなく彼女はどこか期待を抱きつつも日常を過ごす。そんな彼女の傍らには鉄線蓮が変わらず咲き続けていたが、彼女はその光景も僅かに色褪せてしまったように錯覚した。
彼女は自問する
『奴に惚れていたのか? 』
否。
『奴がいない毎日を考えられるか? 』
否。
『ならば……奴に会いたいか? 』
是!
根本的な感情……それは孤独に対する不安。昔はいつも一人でいることも多かった。しかし、一度友人という存在を知ってしまった後は孤独が怖かった。
彼女の切れ長の目に何とも言えない光が揺らぐ。
一人は寂しい。
しかし、狭い世界で育った彼女には旅に出るという選択肢は無かった。
「どうするべきなのか……」
戟を振るいつつ彼女は呟く。
先端で突き刺すように、横刃で薙ぎ引き裂くように、叩き潰すように。
石突で突き砕くように。
苑攸がいなくなって今まで早朝のみであった戟を振るう時間が明らかに増えた。
苛立ちを鎮めるために振るわれる戟の動き。
棒術と槍術を複雑に組み合わせて一つの形を為すそれは実に見事でその刃先に宿る凶暴さには息を飲まずにはおれないだろう。
しかしその見えない敵を屠る様な動きは……どこか祈る様でもあった。
「…………」
家の戸口、彼女に見えぬ場所で影が動く。
ちらりと戟を振るう彼女の様子を見て、塀に背を預けつつ複雑な表情を作ったのは彼女の父。娘の顔に浮かんでいた今にも泣きそうな表情に彼は静かに目を閉じ、ぼそぼそと何かを呟いて祈るかの様に茜色の空を仰いだ。
***
「苑攸を探しに出ようとは思わなかったの? 」
平和な国でもここまで人生は変わるものか、ひとしきり二人は感心する。
しかしふと不自然に思ったのか芳春は彼女にそう問うた。
芳春の言葉に紅雨は首を左右に振って目を伏せた。
狭い世界に育った彼女はそのような発想を持たなかった。
「そもそも育ててくれた父を置いて出て行くなんて……考えつきもしなかった」
それを愚かというなら言えばいい、と彼女は笑った。
「そんなものは人それぞれよ。私だってほとんど村暮らしだし」
否定も肯定もせず芳春はくすりと笑う。優しげな顔の彼女であるがところどころすっぱりと言い捨てるようであり、故に紅雨も離しやすいようである。
「ま、結局は追い出されたんだがな」
彼女はそう言って続き、彼女と鉄線蓮にまつわる物語の最後の一片を語った。
***
「……どういうこと? 」
卓を挟んで信じられないといった様子で紅雨は向かいの父の顔を凝視する。
「そのままの意味だよ。お前ももう十七だし、一人で充分すぎるほどやっていける」
父の様子は落ち着いているがその声には強い決意の色が滲んでいた。
彼は亡き妻に瓜二つに育った娘をまっすぐ見据え、再び告げる。
「この家を出て行け」
再び彼女の肩がびくん、と跳ね唇が震えた。
「でも、父さん一人置いて」
頭を左右に振りながら拒む彼女の声は震えを隠し切れておらず、その表情には怖れがありありと滲み出ていた。本当は今まで生きてきた世界の外に出て行くのが恐ろしかったのだ。
「父さんなら大丈夫だ。こんな山奥でお前を腐らせるために戟の扱いを教えた訳では無い」
「じゃあ」
ハッとした様子で問う紅雨に父親は顎髭を撫でつつ苦笑する。
「あそこまで強くなるとは思わなかったがな……全て昔から決めていたことだ」
外に出ればしばらく彼女は放浪の身となるだろう。その過程で簡単には死なぬように父は彼女に武器を与えた。戟は女の使う得物には向かぬが、彼が教えられるのはこれくらいだったのだ。
「そしてこれはお前の母さんの望んでいたことでもある」
紅雨の母は死の床にて残していく父に娘のことについて遺言を託した。そしてその時が来るまでは絶対に娘に教えないでとも。
もう二十年近い年月が経ったが彼はそれを守り通した。
やはり……口には出さぬものの彼は亡き妻を愛していたのだろう。
そして、期は満ちた。
「お前にはもっと広い世界を見て欲しい」
「でも……」
「苑攸君を探したいんだろう」
ぱったりと来なくなって二年が経った友人の名を出されて彼女は露骨に息を飲んだ。
彼を探しに行きたかった。その気持ちはいまだに褪せていない。
「何、二度と来るなというわけじゃない。一度は旅に出てみろ」
父は皺の刻まれた顔を笑みの形に歪めつつさらに言葉を続ける。
父が物を売りに行った街で聞いた噂。苑攸らしき行商人の存在を。
その言葉で彼女の決意は遂に固まった。
「旅に出るよ」
その決意の声は家の中に凛と響いた。
「それでこそ俺達の娘だ」
彼女の眼に決意の色を見たのか、父は立ち上がる。
部屋の片隅に置いてある行李の元に歩いていき、その中から小さな袋とそして小さな箱を持ってきた。
「これは父さんからの餞別だ……路銀の足しにしろ」
歩み寄りつつ投げ渡された袋を宙で受け取ると、硬い音が鳴り手の平にずっしりとした重さを感じる。
「ありがとう。父さん」
その言葉に父はこれくらいしかできないがな、と目を細めた。
「そしてこれが……母さんからだ」
再び彼女の向かいに腰を下ろしつつ卓子に小さな箱を置き、その組み木細工の蓋を複雑に動かして開ける。紅雨はその様子を淡々と見守っていたが箱の中身を見た瞬間、驚きに目を見開き息を飲んだ。
「鉄線蓮? 」
もちろん本物の花では無く、布でできた飾りのついた花釵である。恐る恐る触れてみると滑らかな手触りと丁寧に縫い合わされた継ぎ目が彼女の皮膚を撫でる。
「母さんが作ってくれていたものだ」
紅雨の母は彼女がお腹にいる頃からせっせとこれを作っていた。男だったら無駄になるだろうという父の言葉にもきっと女の子よ、と微笑みつつ。
そして彼は紅雨に告げる。
今まで端的にしか話していなかった彼女の母がどのような人であったか。
彼女の母は豊かな生活から一転、隠遁生活をすることとなったことについては何も不平を言わずいつも楽しそうであった。
夫である紅雨の父を愛した。
そして娘の幸せと健やかな成長を願い、そしてこのような子供に育ってほしいという願いを込めて花飾りを作った。
娘がどう育つかはわからない、だけど想いを形にして置きたかったのだ。
物心ついたらこれを渡して教えてあげるのと言っていた彼女の願いはついには叶わず、彼女は小さな娘を置いて先に黄泉へ下ることとなった。
『ああ、本当に口惜しい』
……いずれあの子を旅に出す時にこれを渡して、私の最後の願いを伝えて。
……愛しい愛しい旦那様
死の淵に立たされた彼女は、ぼろぼろと泣きじゃくる彼の手に花釵となったそれを手渡し、そう呟いて穏やかに逝った。
「高潔であれ。どんな時も美しい心の娘になりなさい……だと」
父は今にも泣きそうな表情になっている紅雨に母の遺言を伝える。
母は鉄線蓮という花が持つ花言葉、それをそのまま娘に託した。
その娘はいつも傍にあったその花と共に育ち、そして苑攸という触媒を介して箱庭を出る決意をした。
母は娘の歩みを見ることは叶わず、娘はその鉄線蓮に込めた想いに気づかずにいた。
それが今、父の口を借りて発せられた言葉により一点の接点を持つ。
瞬間、堰を切ったように紅雨の瞳から涙が溢れた。
その言葉に込められた最期の願いが彼女の心に深く突き刺さり、当たり前と思っていた喪失を痛いほどに実感した。
なんとも言えない暖かさと空虚に襲われ……泣き顔を見せまいと彼女は俯くが、嗚咽を堪え切れなかった。
父はそんな娘の様子を責めずに、ただ最後にとばかりに頭を優しく撫でた。
「さ、行くか」
その数刻後、彼女は生まれ育った家の戸口に立っていた。愛用の戟と外套を纏った彼女の姿はまだまだ頼りなかったがその表情は決意に満ちた力強さを感じさせる。
今、胸にあるのは両親が託した想いと、そして苑攸を探すという目的。
父親も苑攸が今どこにいるかは分からないと言っていた。
また青年期の数年という月日は重く、彼の容姿があの時と同じとは限らない。余りに無謀といえる旅路が目の前に広がっていたが、不思議と彼女の心の内には不安の影は無かった。
彼女は歩き出しつつ手に持っていた花釵をそっと結いあげた髪に挿す。
「風車……ね」
あの日、苑攸が挿してくれたように。
彼女の黒い髪に白と紫のその花がよく映え、自然と笑みが零れた。
彼がこの花のことはきっと覚えていてくれるはずと彼女は信じている。
彼女も彼女の母も知らなかったのだが鉄線蓮にはもう一つ花言葉があった。
――旅人の喜び、と。
***
「これで全てだよ」
そして旅に出て丁度二年くらいたったかな、と付け加える。
紅雨は彼女の過去、その記憶を脳裏にはっきりと浮かべつつもかなり要約して語った。
彼女の表情は先ほど会話していた時と大して変わらなかったが、その口元には笑みが浮かんでいた。
「それで、会うことができたの? 」
「いいや。世の中そうは上手くできていないようだな」
苦笑しつつ首を左右に振る。
この国はそれほど情報網が発達しておらず、そもそも名の通っていない一人の旅人を探すこと自体が雲をつかむような話なのだ。
「結局は旅のついでというわけ」
もともと期待してなかったと言って紅雨は笑う。
しかし、その表情は芳春にも嘘であることがはっきりと分かった。ついでと言いつつ、やはり彼女は彼に会いたいようである。
「芳春はこの先ずっと村に? 」
国中を見て回るのは良いことだぞ、と彼女は胸に渦巻く思いを誤魔化すかのように話題を別の方向へ逸らそうとする。
「そうね。でも私は亭主もいるし……彼、私がいなくなったら生活していけないから」
「旦那さんは」
「いい奴よ。その分脆いところもあるけど」
そういいつつ芳春はその後、再び彼女の夫のとの惚気話を再び話し始めた。それは先ほど紅雨が語りはじめる前のものと大して変わらないものであったが、身振り手振りを加えながら紡がれる言葉はたとえ内容が愚痴の様なものであっても明るく弾んでいた。
紅雨はそのことについて追及する様な不粋な真似はせずに、己の話を聞いてくれた感謝を胸に話の内容に楽しそうに相槌を打ち、時には茶々を入れつつも聞き入った。
全く別の生き方をし、そしてこれからもそうであろう二人のただ一点の接点であるその時。
二人は内心互いに思った。
『きっと幸せなのだろうな』
そして己の方も勿論。
その後、二人は一刻ほどの時を経てさすがに店の者の視線が痛くなってきたので別れることとなった。
芳春は残りの買い出しを終えて住んでいる村へ。
紅雨は久しぶりに父の元を訪れ、まだ訪ねていなかった漣州へと。
別れの挨拶を交わし、飯店を出たところで互いに背中を向けて歩きだす。一度だけ振り返り、視線があった二人は苦笑して顔を前に戻しそれ以後、二人が会うことは無かった。
しかしどのような奇縁あってのことか芳春は『煬禍』と呼ばれた国の動乱を生き延びた後、一人の学者にその紅雨という女のことを語ることとなり、それが風車蓮という人物を解き明かす鍵となる。
***
――再び数年後の楼州州都南喜
突き出された槍を横に跳んですり抜け、紅雨は敵兵との距離を詰めて戟を大きく振るう。
獣のような咆哮と共に振るわれた刃は槍の柄によって弾かれ、それを発端に数合槍を打ち合う。
『強い』
一瞬交錯した互いの瞳にはそんな感情が宿っていた。
しかし、紅雨にも譲れないものがある。
『倒す』
悠長に打ち合っていてはこちらが限界に達してしまう。
息を吸いつつ、弾かれた勢いを利用してくるりと戟を返し、さらに突き出された槍の穂をいなして石突を相手に叩きこんだ。
濡れた音を伴う嫌な音がし、さらに刃が突き出される。
この瞬間、勝敗が決した。
間断なく突きこまれた戟の先端が敵兵の心臓を正確に貫き、女の顔を隠していた外套がふわりと肩に落ちる。
そこにあるのは紅雨の顔。
旅に出た時より日に焼けて、土と返り血に塗れたその顔は以前より険しさを増しているものの、一種の力強さを感じさせた。
「…………」
沈黙したまま痙攣したのち動かなくなった兵士の身体から刃を抜き取り、血振りを済ませる。
僅かに脇腹が痛み、見てみると服が裂けており、浅い切り傷ができていることに気づいた。
「問題は、無い」
多少の痛み以外は問題はなく、これくらいで済んだのは御の字である。
そう考えつつ、足元で徐々に体温を失っていく兵士の眼を閉じさせてやり、僅かの間黙祷を捧げる。黙祷を終え、彼女は顔を前に向け再び地を蹴った。
――高潔であれ
ただ母の遺した言葉を胸に。
風車蓮、苑攸との想い出を名に変えて。
どういう経緯で紅雨がこの戦に身を投じたのかは誰も知らない。
彼女が苑攸と再会できたのかも分からない。
この戦では主に多くの義勇兵という名の在野の侠客達の活躍が目覚ましかった。
そして彼女は一人の将を斃したことで戦局を大きく傾けることとなる。
しかし彼女のその後は誰も知らない。
ただ……歴史書におけるたった数行の記述はこう結んでいた。
高潔とは彼の者のためにある言葉であろう、と。
長い文をお読みいただきありがとうございます。
花:クレマチス 花言葉:高潔、心の美、旅人の喜び
鉄線蓮はクレマチスの原種の一つ、中国原産の花です。日本原産は風車と言ったりします。
花弁っぽいのは正確には花弁とは異なりますが、便宜上花弁と表現しています。
戟→槍っぽい古代くらいの一般的な武器。その一種の方天画戟は三国志の呂布の得物で有名
企画参加作品ですが、連載作と同じ八州国を舞台にしています。ただし連載作の数十年前が舞台ですので連載作とはあまり関係ありません。
御意見ご感想お待ちしています。