お兄ちゃんと慶一くん
私は昔から二才年上の幼馴染が大嫌いでした。何故なら、彼は私の大好きな兄を独り占めしようとするからです。
兄と同級生で親友だから仕方がないことですが、子供にそんなことが理解出来るはずがありません。
だから、私は彼が遊びに来ると、醜い嫉妬心から兄の背中の後ろで睨みつけていました。
ですが、今はそれほど嫌いじゃありません。物心がついたこともありますが、決め手はやはり、”彼”が兄を幸せにする”運命の人”だからです。
* * *
胃が痛くてたまらない。
下校途中、私は緊張で心拍数が増えていた。
使い慣れた杖をつきながら、一歩一歩前進していく。
足が不自由なったのは三年前の交通事故からだった。リハビリの甲斐もあって一人で歩けるようになったが、杖は一生手放せなくなった。
しかし、今はそれよりも重要な任務が待っていた。
「私は恋のキューピット、キューピット、キューピット……」
ブツブツ真剣に呟いていると、通り過ぎ間の小学生にヒソヒソ噂されたが、私はそんなことを気にする余裕も無かった。
今日は運命の日。私はこの日のために生かされたと言っても過言ではないのだ。
交通事故にあった日、私はまだ中学に上がったばかりだった。交差点で信号無視した車に引かれた時、三途の川の境界線で、私は前世の記憶を思い出した。
そう、私が今生きている世界は大人気BL漫画「僕の幼馴染」シリーズの世界だったのだ。
漫画「僕の幼馴染」に登場する主人公・佐藤 学は私の二番目の兄だ。
そして学お兄ちゃんの幼馴染・東宮 慶一こそ、恋のお相手だった。
前世の私はこのBLが大好きで毎日のようにシリーズを読んでいた。特に慶一×学のカップリングはお気に入りで、夜な夜な彼ら二人の夢を見るほどの執着があった。
前世の私は今と同じくらいのとき死んだらしい。だけど夢物語のような気持ちもして、それほど前世にこだわり無かった。映画を見ているようなそんな感覚だった。
漫画では、たまたま早く帰ってきた妹(私)と遊びに来ていた慶一が二人っきりになったところで妹が慶一に告白し、それを聞いた兄が身を引こうと慶一とすれ違う。
つまり、私は彼らをくっつかせるための当て馬にならなければならないのだ。
でもここは現実だ。私がそんなのことをする必要は無い。けど、事故があった日、兄は私を庇って道路に飛び出した。結局足が一本使い物にならなくなったけど、おかげで命だけは助かった。
私は兄に恩返しがしたい。
同性愛とか、そんなの関係ない。私はお兄ちゃんにいつでも笑っていて欲しい。
ちなみに日にちが分かっているのは、慶一くんの誕生日の話と設定されていたからだ。
なんて重要な役割なんだ。私がいなくては物語が進まないなんて。こんな大役、私に出来るの?
何より、慶一くんに告白なんて恐れ多い。彼は運動神経抜群で眉目秀麗、頭も良い。私とは釣り合わないカッコいい男の子だ。
昔は学お兄ちゃんを取り合ってケンカもしたけど、今ではほとんど口も聞かない。顔を合わせても会釈するくらいの仲だった。そんな他人から、告白なんてきっと気持ち悪いだろう。
けど、我慢してね。学お兄ちゃんのために。
家に着くと、鍵でドアを開けようしたが、緊張で手が震えて鍵穴に入らなかった。
どうしよう。早くしないとお兄ちゃん達が帰ってきちゃう。漫画では、妹はリビングでくつろいでたのに。は、はやくしなきゃ。
しかし焦れば焦るほど上手くいかないものだ。
「莉奈?」
と言う兄の声に私は涙目で振り返った。
そこには私立高校に通う兄と同じ制服姿の慶一くんがいた。
間に合わなかった。
ガクリと肩を落とし、下唇を噛み締めた。
「鍵が……上手く入らなくて。ごめんなさい」
「ははっ。それぐらい謝ることでも何でもないじゃないか。莉奈、貸して」
学お兄ちゃんに鍵を渡す。
私はチラリと慶一くんの様子を伺おうとして、目が合った。
慌てて視線をずらしたが、彼の姿に私はいよいよ緊張が増した。
嘘でも告白なんて無理。でも……やらなきゃ。それが、私が生まれた役割で、果たさなきゃいけない試練なのよ。
グッと拳を握り奮い立たせた。
この日のために、何度脳内シュミレーションを繰り返したことだろう。
『慶一くん。好きです。付き合ってください』
たった一行の台詞じゃない。簡単、簡単。
「おい。入らないのか」
慶一くんの声に私はビクリと肩を震わせた。
「うひゃいっ」
思わず上ずった声が出てしまった。見ると、兄達は突っ立っている私を、不思議そうに首を傾げていた。
二人の視線に赤面しつつ、私は玄関を上がろうとしたが、段差の所でこけてしまったが、慶一くんが腕を掴んでくれたので、転倒することはなった。
「ありがとう」
呟くような小さな声で言うと、慶一くんは眉間にシワを寄せて
「別に」
とぶっきらぼうに言った。
不機嫌そうな態度に私は嫌われている気がして不安になった。自然と涙が目尻に溜まる。
「ごっごめんなさい」
慶一の手を振り払い、頭を下げるが、彼はますます機嫌を悪くしていた。
「いちいち謝るなっ」
なんで……。やっぱり私がグズだからイラつくんだよね。ごめんなさい。ごめんなさい。
「慶一! はぁ。まったく素直じゃない。莉奈、平気か?」
心配そうに言う兄を見てなんだか安心した。
「うん」
お兄ちゃんがいるから大丈夫。慶一くんもちょっと虫の居所が悪いだけだろう。
私は待機のためリビングへと向かった。
私は杖をソファーにかけて腰掛けると、兄の部屋に荷物を置いてリビングにやって来るはずの二人を待った。
心臓がバクバク鳴って痛い。呼吸も苦しくなってきた。
慶一が階段を降りる音がする。物語では彼はリビングを通っていつものように台所で飲み物を持っていこうとする。そこで私が告白する。よしっ。
私は手に力がこもった。杖を持って立ち上がる。
扉が開く音がして、私はすぅっと息を吸い込んだ。
「慶一くん。好きです。付き合ってくださいっ!」
ギュッと目を瞑ったまま、私は達成感に浸っていた。
やり遂げた。やり遂げたぞ。やれば出来るじゃない。偉いぞ私。
「ええっ。マジ」
んん? 学お兄ちゃんの声だ。こんな間抜けな台詞無かったのに。シリアスな展開だから、黙って見て見ぬフリをするはずだ。それがまた切なくて素敵なのだけど。
「へぇ。そうだったんだ。知らなかった。へえー」
瞼を開けると、ニヤニヤと笑う兄の姿があった。
私は口をポカンと空けて驚いていた。
慶一くんはどこにもいない。
私はタイミングを間違えたのだ。
サーと青ざめて、眩暈が襲う。
「今のは、違うの。間違えたの。聞かなかったことにして。こんなはずじゃ」
「分かってるよ。でも、まさか莉奈も好きだったなんて思わなかった」
兄の言葉にギョッと目を剥いた。
”莉奈も”!? 慶一くんが好きなことをライバルの前で認めていいの? さり気ないカミングアウトだけど、抵抗感とかないの?
というか、兄に慶一くんが好きだと誤解させてしまった。
「慶一くんのことは別に好きでもなんでもないのっ。むしろ苦手で」
「照れない。照れない」
ダメだ。何を言っても、もう遅い。私のバカ。
どのみち誤解するから、これで良いのかもしれない。けど、兄のこの反応はなんだ。軽すぎる。
はっ。もしかしてこれは妹を気遣った演技。本心では動揺しているに違いない。
楽しそうに微笑んでいる兄を見て、私の胸は痛んだ。これから一週間くらい慶一と私のことで兄は悩まなくてはいけないのだ。そんなの可哀想だ。
兄がそっと涙を拭く姿が浮かび、頭を激しく振った。
ダメ。そんなのダメ。私のせいでお兄ちゃんが苦しむ姿なんて見たくない。今までどうしてそんなことに気がつかなかったんだろう。
当て馬なんて面倒で煩わしいだけだ。大事なのは二人の心ではないか。
こうなったら
「お兄ちゃんも告白して!」
「誰に」
「慶一くんに!」
「はぁ? どうして」
「そうすれば、丸く収まるよ。お兄ちゃんだって私と同じ気持ちなのは前から気付いてたんだから」
「ちょっと待て。同じ気持ちって、気持ち悪いこと言うなよ」
「自分を否定しないで。私はそういう偏見とかないから。同性愛なんて現代じゃ特殊なことじゃないよ。それに昔は男同士なんて普通だったじゃない。有名な戦国武将だって……」
「落ち着いて。現実に戻ってきなさい」
「さぁ、お兄ちゃん。慶一くんの所に行こう」
「アホかーーーー!」
私は兄の腕を引っ張った。きっと私に遠慮しているのだろう。しかし、さっさとくっついた方が二人のためだ。物語としてはいまいちだけど、彼らが幸せならそれでいいはず。どちらにしろ私は学お兄ちゃんが嬉しいなら、それが一番だ。
「気にしないで。私、前から慶一くんがお兄ちゃんなってくれたら良いのにって思ってたもん」
「もうやめてくれ」
兄は両手で顔を覆い、額へと滑らせて前髪を上げた。
「莉奈。冗談でも言うな。僕とアイツはただの幼馴染だ」
「うん。幼馴染を好きになっちゃうこともあるよね。自然なことだよ。慶一くんなら男でも好きになってもおかしくない。すごくカッコいいもん」
「……ああ、そう。それ、本人言ったら、泣いて喜ぶだろうよ」
「お願い。お兄ちゃん。告白して」
「しません!」
「私、本気なんだから。お兄ちゃんと慶一くんは結ばれる運命なのよ」
「話が破綻してる。まさか、さっきの告白も僕と慶一が結ばれるためとか言わないだろうな」
「うん。私、頑張って二人を応援しようと思って」
「嘘だろ。誰に吹き込まれたんだ。そんなこと。とにかく、僕はアイツ好きじゃないから」
「そ、そんな遠慮しないで。そうしないと」
―――何のために今まで生きてきたのか分からなくなる。
事故の後、一生足が不自由になると知った時、人の目が怖くなった。でも、前世の記憶が蘇って、学お兄ちゃんと慶一くんのために生きていると分かって勇気が湧いた。
二人が私に存在理由をくれたんだ。
「何してる」
慶一くんの声に私たちは振り返った。
気付かないうちに下まで降りてきていたらしい。私は顔がこわばった。
「遅いぞ。学。早く飲み物用意しろ」
「はいはい。ちょっと待ってろ」
兄は溜息をつきながら、台所に行ってしまった。
多分、今が最高のタイミングだったのだ。私は何をやってもグズでバカだ。
涙が溢れてきた。三年間ずっと抱いてきた使命が台無しだった。
「ううっ。ぐすっ。……ひっく」
いきなり泣き出した私を見て、慶一くんはビックリした顔をした。
「どうした。何故泣く」
狼狽した様子で、瞼を瞬かせる彼は年相応の少年に見えた。
「私……役立たず……ひっく……で、周りの…ううっ………足…引っ張ってばっかりっ。こんな……ううわーーん」
「泣くな。泣かれると俺が困る」
「ごめんなさい……ううっ………迷惑かけてっ……でも……ひっく……涙止まらな」
「ほら、ハンカチ使え」
慶一くんはポケットからハンカチを取り出して渡してくれた。
こういう優しい所は変わらない。一瞬胸が高鳴った気がした。
「学に何か言われたか」
私は首を横に振った。
「学校で嫌なことでもあったか」
また首を振った。
「ちがう。私、自分が嫌になったの。何も出来ない自分に」
慶一くんに何を言ってるのだろう。でも、溢れてくる思いが涙と一緒で止まらなかった。きっとずっと溜めていたものが限界値を超えてしまったのだ。
「こんなに苦しいなら……死んだ方が良かった」
「おい」
「死んじゃいたい…」
「おい! バカ言うな。俺はお前が無事だって知った時、めちゃくちゃ嬉しかったんだぞ!」
町中に響き渡るような大声に涙は一気に引っ込んだ。
私がびっくりして慶一くんを凝視していると、彼は口を押さえて赤面し、顔を歪ませて咳払いをする。
「お前は十分良くやってる。だから、もう泣くな」
仏頂面な慶一の言葉は、私に勇気をくれた気がした。
小さい時、慶一くんは私から学お兄ちゃんを奪おうとして酷いことを言った。
『どっか行け。チビ!』
『学にひっつくな』
どんなに酷いことをされても、私は言い返すことが出来なった。後でどんなことをされるかと思ったら怖かった。そのくせ、睨むことは止めなった。矛盾してるけど、私にとって言葉で人を傷つけることが何より恐怖だったのだ。
私は慶一くんを嫌悪すると同時に憧れてもいた。
変われるかな。私。慶一くんみたいに強くなれるかな。
「学お兄ちゃん! 聞いてて!」
私は台所にいる兄を呼んで、彼と向き合った。
「慶一くん。好きです。つきあってください」
言った。言えた。これで物語は問題なく進む。
さぁ、慶一くん。問答無用にお兄ちゃんの前で、私をふってくれ。
期待に満ちた目で慶一を見上げる。
彼は驚愕して、口をだらしなく空けていた。
「慶一くん? 慶一くん。お兄ちゃんどうしよう。慶一くんが動かなくなっちゃった」
「そっとしといてやれ。嬉しすぎてお花畑なんだろうよ。……せっかく美形なのに、不憫な男だ。くぅっ」
「お兄ちゃん?」
END
ここまでお読みいただきありがとうございました。