少年漫画的悪役に憧れた私が乙女ゲーム的悪役になってしまった時の話
私は悪役に憧れていた。
主人公とその仲間たちが束になって挑み、初めて勝負になるような絶対的強者。
人の道から外れた行いを繰り返し、倒されて欲しいと思いながらも目が離せないキャラクター。
そして最後は、主人公たちを讃え、あるいは恨み言を残して消えていく。
悪役が輝くからこそ、主人公たちは輝く。私にとっては、主人公よりもそんな悪役の方が魅力的だった。もし自分がそうだったら、と考えたことは数え切れない。
それは、28歳になり社会人と呼ばれる人種になってからも、心の何処かにその願望は残っていた。
だから、"お前は事故で死んだけど、手違いだったので出来るだけ希望を聞いて転生させる"と自称神が言った時、私はこう答えた。
『じゃあ、悪役に転生したい。それもかっこいい感じの』
そうして悪役として生まれ変わった私が行き着いた世界は、剣と魔法のファンタジー世界――ではなかった。
「今日の授業はここまで。各自復習を行うように」
授業終了のチャイムが響く中、数学教師はそう言って教室から去っていく。昼食前の最後の授業だったので、学食へ急ぐ生徒たちが足早にそれに続く。
私は、机に広げていたノートと教科書を仕舞い、小さく息を吐く。
私は転生し、悪役となった。しかし、私が得た悪役というのは世界を破滅に導く魔王でも、人智を超えた力を持つ吸血鬼でもない。
私は、何の力もないただの女学生に転生した。まあ、ビジュアルはこんな黒髪美人なんているか、と鏡を見た時自分で突っ込んでしまったくらいの美人さだったが、それだけだ。
そもそも、このクラスだけでもやけに顔が良い男は多いし、可愛かったり美人な女性も多いのだ。私だけが特別優れているわけではない。
それもそのはずだ。自称神が言うにはここは乙女ゲーム――っぽい世界なのだ。
私はその手のゲームには疎いのでよく知らなかったのだが、自称神いわく主人公が意中の男性――攻略対象と言っていた――と結ばれることを目指すというのが目的らしい。
そして、そんな主人公に対してちょっかいを出し、結ばれるのを邪魔するのが私という悪役である。
……はっきり言って私が求めていた悪役とは全く異なる。私がなりたかった悪役とは、圧倒的強者として君臨し、激闘の末に打ち倒されるような少年漫画的なものだ。
現実の延長線にあるような生々しい悪役は望みではなかったのだが、まあなってしまったものは仕方ない。その中で理想の悪役を目指すことも出来るし、前向きに考えよう。
うん、と私は改めて気合を入れ直し、前の席に座る女生徒に目をやる。
「……はぁ」
彼女は、昼食時にも関わらず席に座ったままで溜息をついていた。
私は、そんな彼女の肩を叩いて喋りかける。
「どうしまして、白野?」
ちなみにこの口調は、所謂キャラ付けというものである。28歳でお嬢様の真似事は気恥ずかしいが、そういう設定にされたのでそれに従おう。照れたら負けだ。
それはともかく、話しかけられた彼女は慌てて振り返り、
「な、なんでもないよ黒海さん」
愛想笑いを浮かべてそう答えた。
彼女こそが、私と対立するヒロイン――白野である。
ふんわりとしたボブカット、気弱そうな垂れ目、人見知りな性格、守ってあげたいと苛めたいを両立する独特のオーラ。私の属性をそっくり反転させたような人物が彼女だ。
「なんでもない、とは見え透いた嘘を。大方弁当を忘れたんでしょう。それに財布もかしら?」
「うっ……やっぱりわかる?」
「その間抜けな顔を見ればすぐにでも」
「ま、まぬけ……」
ショックを受けた白野は、がっくりと項垂れる。
見た目通り彼女は打たれ弱い。この程度の相手であれば、私がお局から受けた48の嫌がらせ術をそのまま行うだけでぽっきりと折れるだろう。
そうすれば、彼女の意中の相手――誰かは知らないが――と結ばれることもなく、私の勝利である。
しかし、しかしである。弱い相手を嬲って勝利宣言をするのが私が目指し憧れた悪役か?
答えは否。否である。そんな悪役は次のページで主人公に一蹴されるギャグキャラだ。それはそれで美味しいが、私が目指すのはそうではない。
敵でありつつもその死に様は主人公に対して大きな影響を与え、新たな敵が現れようとも『あいつの方が強かった』と主人公に戦ったことを誇りに思われる――そんな悪役がいいのだ。
ならば、私がすべきは彼女を詰ることではない。ここは――。
「なんだ白野。メシを忘れちまったのか?」
むっ。この爽やかな声は、
「赤井くん……。うん、そうなんだ。寝坊しちゃって」
「ドジな奴だな。まっ、俺も忘れたから人のことは言えねえな」
いつも気さくに話しかけてくれる爽やかな笑顔が素敵だけど不意に寂しげな顔をすることがあるクラスメイトの赤井の言葉に、白野は仲間だねと微笑む。
その笑顔は、幾分か固いものの私に向けられたものよりは自然だ。まあ、彼女に対して私は嫌味を言う立ち位置なので当たり前だが、なんとなく面白くない。
まあいい。赤井の目的はわかっている。『弁当を忘れた者同士で学食に行こうぜ』と言うのだろう。そこで交流を深めるつもりだろうが、それを見過ごす私ではない。
彼が何か言う前に、私は鞄から取り出した弁当包みを白野の前に置く。
「えっ? 黒海さん……これは、何?」
困惑する彼女に、私は語気を強めて返す。
「見ればわかるじゃない。そんなこともわからない?」
「ご、ごめんなさい……」
それだけで彼女はしゅんと縮こまってしまう。
まったく、これでは役者不足だ。私が悪役として輝くには、彼女にも強くなってもらわなければ困るというのに。
「今日のテニスは、貴方が相手なの。そして、空腹でふらふらの貴方に勝ってもただの弱い者苛めよ。それでは私の格が落ちるというもの」
「ええと……」
「万全の貴方を倒してこそ意味があるのよ。だから、その情けを甘んじて受け入れなさい」
白野は私が指差した弁当と、私の顔を交互に見やると遠慮がちに言う。
「つまり……このお弁当はもらっていい……ってこと?」
「さっきからそう言ってるでしょう。ああ、私の心配なんていらないわ。私はお金持ちですから、優雅に学食を頂きますので」
「あっ」
戸惑う白野に嫌味っぽく言い残し、私は教室を去る。
そして、ドアの隙間からこっそりと彼女の様子を窺うと、弁当箱を前に逡巡していたが結局食べることを選択していた。
白野は、後ろめたそうに卵焼きを口に運ぶが、口に入れた途端目を見開く。以降は、肩をすくめてその場から離れた赤井に構わず、箸を動かし続けていた。
それでいいのだ、と私はほくそ笑む。
弱った相手を追い詰めるのではなく、むしろ『回復してやろう』と余裕すら見せるのが悪役というもの。そして、情けを受けた悔しさをバネにして立ち向かってくるがいい。
その時を楽しみにしつつ、私は学食へ向かおうとした所でポケットが軽いことに気がつく。嫌な予感に反対側のポケットを叩くが、虚しい音がするばかりだった。
「……」
恥を忍んで教室に戻るか、悪役として意地を張るか。いや、考えるまでもない。
「この程度……蚊に刺されたようなものよ」
嘯いた私に応えるように、腹の虫が鳴った。
◇
明くる日のこと。今日は今朝から晴天で、午後から雨という予報が信じられないほどに晴れ渡っていた。
そこで傘を用意するかしないかで人を分けられるが、私は用意する方だった。
濡れて張り付いた服は気持ち悪いし、何より寒いのは嫌いだ。今は若い体とは言え、無理をすれば後に後悔することになるだろう。
そんなことを考えながら、私は昇降口へと向かっていた。雨音は、校舎の中にいながらはっきり聞くことが出来る。かなりの大降りで、止む気配は無い。
昇降口には、帰宅する生徒たちの姿が見えた。傘を差すもの、悪態をつきつつ走るもの、電話で迎えを呼ぶもの、二人で一つの傘を使うもの。
「何か忘れ物でして、白野?」
そんな者たちに混ざって雨が降り注ぐ光景を物憂げに眺めていた白野に声を掛ける。彼女は、背筋をのけぞらせて驚き振り向いた。
「く、黒海さん……! な、なんでもないよ。ただ、その、雨を見ていただけで」
「貴方にそんな風流な趣味があるとは思ってませんでしたわ。それなら、外に出たほうがもっと楽しめましてよ?」
「そうかもしれないけど……うう、わかって言ってるよね?」
「もちろん。それと、この傘は一人用ですので、レンタルは不許可ですわ」
若干の期待を込めて私の傘を見やる白野に、私ははっきりと答える。
情けを掛けることは必要であるが、度が過ぎるのも良くない。彼女と私は敵対する関係なのだから、そこを間違えられては駄目だ。
「そうね、止まない雨は無いと言いますし、明日には止んでるんじゃないかしら?」
なので、ここは肩を落とす彼女に嫌味を言って立ち去るというのが正解だろう。
それではまた、と私が外へ足を向けようとしたとき、
「まったく。君は本当に愚かだな。学習能力という概念が欠けているとしか思えない」
冷たい――しかし内心では相手を気遣っているが不器用なコミュニケーションしか出来ない故に怖がらせてしまうことに自己嫌悪している――声が聞こえた。
「青木先輩……ひどいです」
「酷いと言うのは君のことだ。傘を用意せず立ち往生するのは何度目か覚えているのかい?」
「ええと……4回、くらいですか?」
「これで13回目だ」
青木と呼ばれた男子生徒は、呆れたように嘆息して白野に眼鏡越しの冷たい目を向ける。どうでもいいが、首をやたら擦るのは調子が悪いためだろうか。
いや、それは本当にどうでもいいのだ。問題なのは、彼が白野にアプローチを掛けようとしているということ。
この男、口ではああ言っているが、明らかに白野を気にしている。悪態をついた後、彼女に傘を貸してアピールするつもりだろうが、そうはさせない。
「白野、気が変わりましたわ。この傘、今日は預けましょう」
「えっ、く、黒海さん?」
戸惑う白野に半ば強引に傘を押し付ける。その光景に、青木は呆気にとられたように口を開けていた。
ふふふ、私が先んじて傘を貸してしまえば、後出しで言い出すことは出来まい。これで青木によるアピールは潰した。
しかし、それでは不完全だ。このまま二人で仲睦まじく並んで帰られては、私は道化になってしまう。無論、そのつもりはない。
「私は、このまま濡れて帰りますわ。迎えを呼ぶことも出来ますが、敢えてそうするのです」
「ど、どうして? 風邪引いちゃうよ?」
「それは、貴方に傘を貸したせいです。貴方が濡れずに家まで帰れる代償に、私は哀れな濡鼠となるのです。私をそんな目に合わせておいて、その傘を使わないなんて言いませんよね?」
「黒海さん……ごめんなさい、私のために」
白野は顔を俯かせて言う。
うん、予想通り。この心優しい彼女は、自分のために犠牲になったものがいるのに、それを忘れて楽しめる性格をしていない。
ちょっと罪悪感を煽ってやれば、放課後デートなんて考えもしないだろう。これで、心配はなくなった。
「謝らないでくださる? そんな言葉を貰った所で、私はちっとも嬉しくありませんから」
そして、ダメ押しに謝罪は受取拒否。こうすれば、気になる相手との時間を潰された悪役と思ってくれるだろう。
満足な結果に私は頷き、改めて彼女たちから背を向け外に出る。天然の冷水シャワーは容赦無く頭から降り注ぎ、体を濡らしていく。
一瞬傘を貸したことを後悔するが、このザマを見せつければ白野の罪悪感も増すのだ。そう、これは考えなしの行動では断じて無い。
ちらり、と振り返って白野の様子を確かめる。彼女は、私の傘をぎゅっと握りしめたまま私を見つめていた。その表情は、目に入る雨粒のせいで良く見えない。
「――――」
……? 白野の口が、何かを言ったような気がしたが、雨音に紛れてよく聞こえなかった。
『ありがとう』とも聞こえたが、きっと気のせいだろう。私にお礼を言われる謂れはない。
さて、帰ろうか。周囲の生徒は傘も差さずにゆっくりと歩く私を不思議そうに眺めていたが、何を不思議がることがあるのか。
悪役とは、常に余裕であるもの。この程度は焦るに値しないのである。
そう、寒くなど決して無い。無い。無いったら無いのだ。
◇
また明くる日のこと。私はスーパーの袋を下げて帰宅途中だった。
ここでの私は、高級マンションで一人暮らしをする孤独な令嬢であるため、身の回りのことは自分でしなければならないのだ。
とは言え、前世ではカタログでしか見たことがない家電が取り揃えてあるため、むしろ楽である。
「……しかし、買いすぎた」
右腕にずっしりと掛かる重さはセールだったサラダ油の重みだ。これの代わりに、セール品でもないオリーブオイルを買えるだけのお金はあるのだが、染み付いた性根とは簡単に変わらないようだ
もう少しで我が家と何度目かになる励ましを口にしつつ歩いていると、
「なあ、いいだろ? ちょっとでいいから付き合えよ」
「どうせ暇なんだろ? 君みたいな子は俺らと遊ぼうぜ」
人通りの少ない路地から、ガラの悪い声が聞こえてくる。それだけなら無視して歩き続けたのだが、
「こ、困ります……」
微かに聞こえたか細い声に私は足を止める。この声は――。
そっと路地裏を覗くと、如何にもヤンキーという金髪の男が二人。彼らに追い詰められるように壁を背にしているのは、
「白野……」
まるで寒さに震えるリスのような彼女に、思わず溜息が出る。
まったく、顔を合わせる度にイベントに遭遇しているではないか。それに対応する身にもなってほしい。
さて、どうすべきか。私は壁にもたれて考える。
見捨てるのは無しだ。モブに敗北する主人公を嘲笑ってで喜ぶのは小物のすること。私の理想ではない。
ここは、彼らを追い払った上で格の違いを見せつけ、その程度なのかと発破をかける。これが良さそうだ。
問題は、そもそも私に彼らを追い払えるのかということだが。素手で挑むのは、些か無謀というものだろう。
何か無いかと周囲を見渡すと、置かれたダンボールから刀の柄がはみ出していた。駆け寄って調べると、どうやら捨てられた模造刀のようだ。
「刃が鋸みたいにガタガタ……他には無いかしら」
とりあえず模造刀を手に取り、もう一度周囲を見渡す。そこで、道の先からこちらに近づく人影に気がついた。
あのガタイのいい体格は、黄賀だ。強面で周囲からは不良として怖がられているが実は甘いものと可愛いものが好きな純情少年の黄賀だ。
マズイ。彼がここに来れば、間違いなく白野を助ける。そうすれば、ピンチから助けたとしてアピールされてしまうではないか。それは、悪役として阻止しなければ。
可及的速やかかつ悪役的に白野を助け出す必要が出てきた。悩んでいる暇はないが、無謀に挑むにはまだ早い。
逸る気持ちを抑えてダンボールをさらに漁ると、包帯が出てきた。長さはかなりあり、顔ぐらいなら余裕で隠せるだろう。
「これなら……」
鞄を放り、急いで準備を済ませる。後は、どれだけハッタリをかませるかだ。
私は深呼吸し、路地裏に躍り出ると同時に出来るだけ低い声を作って言う。
「何をしている、貴様ら」
「あっ? 誰だテメ――」
その声に、金髪の男二人はこちらを向き、
「うわあああああ維新志士だあああああああ!?」
私を指差すなり化け物を見たかのような叫びをあげた。
かなり失礼な態度だが、それこそが私の狙いだ。それに乗らせてもらうとしよう。
「Law of the jungle……」
ブツブツと呟きながら近づく私に、男たちは一歩後ずさり、
「え、え、ええ? なに……なに……?」
白野は目以外は包帯で覆い尽くされた私の顔と、アスファルトを擦る抜身の模造刀を何度も見やり目を白黒させていた。
「dog eat dog world……」
「ク、クソ! なんだってんだ!」
一度は怯んだ男たちだが、声を震わせながらもその場に留まり叫ぶ。
「こ、こんなところに維新志士がいるわけねえだろ! ビビってんじゃねえよ!」
「け、けどよ! 包帯まみれで鋸みたいな刀持ってるんだぜ! 維新志士じゃなかったら何なんだよ!」
「ただの不審者だろ!」
ほう、ただの不審者にこんなことが出来るかな?
「Yakiniku set meal……」
私は、サラダ油の滴る模造刀をゆっくりと持ち上げ、その切っ先を左手に近づけていく。左手には拾ったライターの小さな火が灯っており、それに刀身が触れた瞬間、炎が刀身を包み込む。
お、おお……ちょっと調子に乗ってサラダ油を掛けすぎたかもしれない。コレは、警察に見られたら相当マズイのではなかろうか。
予想以上の炎の勢いに内心焦るが、私以上に金髪の男たちは怯えていた。顔を青くし、噛み合わない歯をガタガタと震わせて尻餅をつく。
「ひ、火が! やっぱりそうなんだ!」
「逃げるぞ! 維新志士が相手じゃ分が悪い!」
男たちは悲鳴をあげ、壁に激突し転びながら走り去っていく。それを見届けた私は、未だに燃える刀身を慎重に鞘に戻していく。
これで消えるよね……消えてほしいな……。
震える刃先が鞘に触れ、音を立てる。それに怯みながらも、何とか刃を収めると火も消えてくれた。
ほう、と息をつくと呆けていた白野と目が合う。
とりあえず、黄賀のアピールを防ぐことは出来た。もう一つの目的である格の違いを見せつけるだが、遠くから逃げ去った男たちの叫びが聞こえる。ここは、退散したほうが良さそうだ。
「あっ……待って!」
白野の声に私は振り向かず、そのままこの場を立ち去ろうとし、
「待って! 黒海さん!」
呼ばれた名前に思わず立ち止まる。
顔は、包帯でわからないはずだ。特徴的な物も身につけていない。それなのに、どうしてわかった?
声に出さない私の疑問に答えるように、彼女は優しげな声で告げる。
「目を見ればわかるよ。維新志士でも黒海さんは黒海さんだもの」
「……そう」
目を見ればわかるとは、なかなか言ってくれる。それでこそ、私が悪役をする意味があるというもの。
私は顔から包帯を取り去り、白野と向かい合う。若干の怯えは残っていたが、彼女はしっかりとこちらを見返していた。
「……どうして助けてくれたの?」
「助けたつもりは毛頭ありません。ただ、敢えて言うなら……貴方は私の獲物――」
だから、他人に取られるのは我慢できないの。
そう続けようとしたとき、近づいてくるサイレンの音が聞こえた。さっきの火を誰かが通報したか、それとも逃げた男が通報したのか。
どちらにせよ、ここに長居は出来まい。私は舌打ちし、放って置いた鞄を引っ掴む。
ええい、これから決め台詞だというのに。警察が迫っているが、これだけは言っておかねば格好がつかない。
私は、サイレンに焦りながらも白野に指を突きつけ言い放つ。
「とにかく! 貴方は私のものなんだから他人には渡さないということを覚えておきなさい!」
「えっ? わ、私のものって……」
白野は何やら顔を赤くしていたが、その理由を気にしている暇はない。
サラダ油一つ減らせば良かったと後悔しつつ、私はその場を走り去った。
◇
そして明くる日。気怠い朝に私は欠伸をして、マンションの昇降口へと向かっていた。
昨日は無事に逃げ切れたが、お陰で体が怠い。まったく、悪役するのも楽ではないな。そんなことを考えながら、私は自動ドアを抜けて外へ出る。
「あっ、黒海さん」
白野のふわっとした声が聞こえたが、気のせいだろう。彼女の家は、ここから反対側だ。
私は眠い目をこすって歩き続ける。
「く、黒海さんっ」
今度は焦ったような声が聞こえるが、気のせいだろう。彼女には、無視された相手に話し続ける勇気はあるまい。
私は怠い首を回して歩き続ける。
「黒海さん!」
今度は怒ったような声が――確かに聞こえた。それだけでなく、袖が引かれているのもわかった。
まさか、と思いながら振り返ると、
「……やっと聞こえた」
唇を尖らせる白野が立っていた。間違いなく、彼女だ。
しかし、わからない。どうしてこんなところにいるのか。そう言うと、彼女は頬を膨らませ拗ねたように言う。
「私のものだって言ったのは、黒海さんでしょ……誰にも渡さないって」
「そんなこと」
「言ったよ。間違いなく」
じとっとした目を向ける白野に思わず怯む。自分の気持ちを言葉に出来なかった白野がこんな目を……。
ふふ、雛鳥がついに飛び立つ時が来たのだな……。
いや、そうではなく。問題は、私が彼女の所有権を主張したということだ。
焦っていたせいで適当なことを言ってしまったかもしれないが、何故そんなことを真に受けるのか。散々邪魔をした私が言った所で、からかっていると思うのが当然だろう。
しかし、白野は意味がわからないというように首を傾げる。
「邪魔って……何を?」
「何をって……赤井との食事や、青木との放課後デートに、黄賀が助けに入ることも。私は、その全てを邪魔したのよ。そんな女の言葉をどうして信じるのよ」
「……よくわからないかも。覚えているのは、私にお弁当をくれて、雨の日には傘を貸してくれて、不良から助けてくれた黒海さんだけだよ」
そんな馬鹿な、と言いかけふと気がつく。
私がしたことは、全部彼らがアピールしようという行動の真似ではないか。無論、その行動には裏があったのだが、それだけ見れば彼らと何も変わらない。
ということは、つまり。
「……正直ね、黒海さんのことは怖いと思ってたの。私なんかよりもずっと綺麗でかっこいいし、大人びているし」
顔を赤らめた白野は、気恥ずかしそうに言って私の手を握る。
いや、違う。そうではない。私はそういうつもりでは。
「けど、本当は優しい人なんだってわかったの。言葉はキツかったけど、いつも私を気にかけてくれた」
やめて、やめてください。そんな恋する乙女の顔は、私に向けるようなものではない。
貴方は、私の妨害に負けず恋を成就させ、私は悪役を全うしたことに満足する。それでいいんだ。
だから、やめて。そんな顔をされたら、ぐらついてしまう。悪役ではなく、そちら側に行ってもいいかと思ってしまう。
「だから、私は……貴方が」
混乱する私に畳み掛けるように、白野は決意を秘めた眼差しを向ける。
駄目だ、それを言われては勝てない。そちら側に行ってしまう――いや、逆に考えるんだ。
私は、両手を掴む白野の手を振り払い、言う。
「白野。思い上がらないで」
「……っ。黒海、さん……」
白野は、私の言葉に体を震わせ俯く。その小さな両肩に、私は両手を置いた。
あちらに引き込まれてしまうのなら、逆に悪へと誘ってやればいい。
主人公に敗北することが悪役の華ならば、悪へと堕とすことは悪役の勝利と言えるだろう。
私は、彼女の髪をかきあげ耳元に唇を寄せて、囁く。
「私は貴方のものではないの。貴方が私のものになりなさい。そうすれば、私の半分をあげましょう」
「黒海さん……!」
白野はぱっと顔を輝かせ、私の差し出した右手を両手で握ろうとし――慌てて右手だけを触れさせる。繋がったことを証明するように、手の平に温まりが伝わってきた。
「これで貴方は正真正銘私のもの。私に屈したことを認めるわね?」
「うん、認める。えへへ……」
悪役に負けたというのに、どうしてそんな嬉しそうにはにかんでいるのか。全くもってわからない。ああ、本当にわからない。
私は、つい弾んでしまいそうになる声を抑えて、彼女と繋がった手を引っ張る。
「ほら、行くわよ。遅刻なんてつまらないもの」
「わわ、もっとゆっくり行こう? せっかくなんだから」
「何がせっかくなのかは全くわかりませんが、まあいいでしょう」
私は、彼女の手を一旦離して歩きやすいように左手を握る。彼女は、自然な笑顔でこちらに微笑んでいた。
それからそっぽを向くと、白野はおかしそうに笑い声をもらす。
ふん、そう笑っていられるのも今だけだ。何故なら、これから学校へ行く道程は鈍足かつ遠回りをするのだから。
遅刻するかもという恐怖を彼女に与えつつ、私のものになったと周囲に知らしめる完璧な計画だ。まったく自分が恐ろしくなる。
そう考えると、楽しくて自然と鼻歌が出ていた。これが今日だけでなく、明日も続くと考えると尚更だ。
私は、白野の手に指を絡めて離れないようしっかりと握る。一瞬の躊躇後、彼女も握り返した。
――ああ全く、これだから悪役は素晴らしい。