それは驚愕と安堵の狭間で上がる声。
アンジェとオスカーの無事を祈り続けるノエルとランスの元に、まるで巨大な何かを地面へと叩き付けたような重く鈍い音と地響きが伝わってくる。
「っ?! い、一体何が……?」
「……アンジェさん……」
重く鈍い音に驚いた鳥たちが寝床から夕闇の迫った濃紺の空へと飛び立つ様を、空を覆うような森の木々の隙間から見たノエルとランス。
身体の芯に響くような音と振動に驚き、今までのように深く考えずに助けに走りたいと思う己の心を制するノエルは唯々不安そうな表情を浮かべ、耐えるように手を握り締める。
同じように音と振動を感じ取っているランスは心に忍び寄る微かな不安を感じながらも、唇を噛みしめてアンジェとオスカーの無事をひたすらに信じ続けていた。
---ギャインッッ?! ギャオォォォォォンッッ!!!
しかし、そんなノエルとランスの耳に暫しの時間を空けて、再び大地を揺るがすような大きな獣の叫びが届く。
「やはり助けにっっ……でもっ……私では……」
大きな獣の叫びを耳にしたノエルは悲痛な表情を浮かべて、駆け出しそうになっている己の心を懸命に御する。
「……今の叫び声……なんか、悲鳴っぽくないっすか?」
同じく獣の叫びを耳にしたランスは何となく威嚇のための叫びや怒号と言うよりは、まるで悲鳴のように感じた。
「え……悲鳴ですか? でも、あの“人喰い熊”で有名なグラウ・グリズリーですよ?……幾らアンジェさんがお強くとも、あのグラウ・グリズリーに悲鳴を上げさせるなんて……」
首を傾げるランスの言葉に、ノエルは戸惑った表情を浮かべて応える。
「でも、アンジェさんですよ。」
「…………」
冷静なランスの一言にノエルは何も言えなくなり、沈黙で応えてしまう。
沈黙がノエルとランスを包み込み、助けに行っても足手まといと分かっている二人は信じて待ち続けることを選択する。
だがそれでも、アンジェとオスカーは無事なのだろうか、あの悲鳴は何だったのか、と頭に浮かび上がる不安に悩み続ける二人の元へと複数の足音と話し声が近付いてきた。
「……巫山…る……大概…し……! 何処…世界に…………グリズリー…従……アホ…いる…だ!!」
「…………此処…居る……ねえ…。 オス…ー、お前…眼の前…よ。 そ……アホって言……じゃね…よ。 怪…人はちった…静か……たらど…だ?」
徐々に途切れ途切れだった話し声も近づいて来たことではっきりとノエルとランスに届き、声の持ち主の無事を伝えてくる。
「誰…所為…叫……いると思っ……るんだっ?! アンジェ、あん……有り得ないことをやりまくるから俺が叫ぶ羽目になるんだろうっっ!!」
「別に其処まで驚くことじゃねえと思うがな。 犬だって自分より強い相手には絶対服従じゃねえか。 魔物の方が知能は高いから普通に力関係を叩き込めば、誰にだってこのくらい出来るだろうよ。」
近付いてきた声の持ち主達であるアンジェとオスカーの無事を肉眼でも確認し、喜びで胸を一杯にしたノエルとランスが二人の名前を呼ぼうとして石化したように動きを止めてしまった。
「お前の物差しで考えるんじゃねえぇぇぇぇっっ!! 何だよ、何なんだよっ! 此奴にやられそうになっていた俺が馬鹿みたいじゃないかっ!!!」
今までの黙した態度は何処へやら、アンジェへと噛みつくように叫ぶオスカーが乗っている“生き物”をノエルとランスも眼にしてしまったのだ。
「……まあ、否定はしないで置いてやるよ。」
「其処は否定しろよっ!」
まるでキャンキャンと吠えてじゃれついてくる小型犬をいなすように、己へと噛みつくように叫び続けるオスカーと笑いながら言葉を交わすアンジェ。
「お、ランスとお嬢ちゃん。 無事にこの兄ちゃんを、オスカーを確保して戻ったぜ。」
石化したように固まったノエルとランスの存在に気が付いたアンジェは、笑顔で今戻ったと告げる。
「……アンジェさん……えっと……そ、その……グラウ・グリズリーっすよね?」
「おう! ちっとばっかし可愛がってやって、怪我を治したら懐かれたんだ! 名前はクマのハニ子だ。 最初は勇ましいから雄かと思ってたんだが、雌みたいなんだよな。」
あまりの予想外の“生き物”に頬を引き攣らせ、震える指先で指し示したランスの声にアンジェは胸を張って普通に返答する。
ランスの指し示した先にいたのはアンジェに蹴られたり、投げ飛ばされたグラウ・グリズリーだったのだ。
強暴なことで有名なはずのノエル達を襲ったグラウ・グリズリーが、背中にオスカーを乗せて騎獣の真似事をしている上に、甘えるような仕草でアンジェに頭を擦り付けているのである。
「……懐かれちゃったんっすか……」
その自分たちの予想を超える出来事を容易に起こすアンジェの言葉に、ランスは空笑いを浮かべてしまう。
「おい、その子も困っているじゃないか。 だから、俺は止めただろう。 お嬢様達には刺激が強すぎる、と。」
ジロリとアンジェへと視線を向けながらオスカーは呟く。
「お前な、どうしても自分で歩くと意地を張ってる癖に一歩も動けなかったから、俺が抱えて移動しようとするとすっげえ怒ったじゃねえか。 だから、俺はあんたを運ぶためにハニ子を治癒魔法で治療して従えたんだろうが。」
オスカーの視線を受け止めたアンジェは不服そうに唇を尖らせて応えた。
「同性に姫抱っこされて嫌がらない野郎が何処にいるっ! そんな恥を晒すくらいならば這って移動した方が遥かにマシだっ!!」
アンジェの言葉にオスカーはわなわなと身体を震わせながら叫ぶように強く己の意志を伝える。
「ランスは普通に姫抱っこされてたぜ?」
「その少年ならばまだ絵図ら的にもマシだっ!! だが、俺と貴様では気持ちが悪いだけだろうっっ!!!」
出会った当初の寡黙な姿が嘘だったように叫び続けるオスカーに、アンジェはしみったれた表情を浮かべていた最初よりも今の方が良いですね、と心の中で思いながら言葉を交わし続ける。
「……そうか? オスカーは前髪で顔を隠しているのが勿体ないくらいの美人じゃねえか。 それによ、あんたの眼は血の赤って言うよりは宝石とか、林檎や赤茄子みたいに真っ赤で綺麗だと思うぜ。」
不意に真っ直ぐに己を見ながら告げられたアンジェの言葉にオスカーは眼を見開いて唖然としてしまう。
「……貴様、正気か……?」
「赤い眼をしてようが、黒い眼をしてようが……どう生きるかはその人間次第だろう。 眼の色で生き方が変わる訳じゃねえ。 少なくとも、俺はオスカーの眼は綺麗だと思うぜ。」
眼を瞬かせ、言われた事のない言葉の数々に動揺するオスカーは、余計な世話だと顔をアンジェから背けてしまう。
だが、髪から覗く耳は隠しようも無く、言われ慣れない言葉に照れていたのか紅く染まっていた。
その後、アンジェの使い魔となったグラウ・グリズリーの衝撃から復活したノエルが、驚愕の叫び声と共に怪我は有るものの無事なオスカーの姿に安堵して大号泣する一幕が見られる。
涙に濡れた声で叫ぶように謝罪と無事であることを喜ぶ声を上げるノエルに、オスカーはどうして良いか分からずに固まってしまい、しばらくその声が収まることはなかったのだった。




