生きる意思を失いし青年は慟哭す。
暫し、呆然とした表情でアンジェの漆黒の外套が風で靡く背中を見詰めていたオスカー。
「……おまっ! えっ?! クマって……ちょ、ちょっと、待てっ?!……あ、れは……クマじゃなくて強暴な魔物だよな? グラウ・グリズリーだよな?……強暴で凶悪な魔物で有名なグラウ・グリズリーだよな?!……それを……え? 蹴り飛ばした……?」
しかし、数回瞬きを繰り返した後に、まるで急に夢から覚めたようにハッとした表情を浮かべてアンジェへと堰を切ったかのように勢いよく叫ぶように問いかける。
「んあ? ああ、そんな名前らしいな。 灰色熊って見たまんまじゃねえか。 なんつーか、もっと可愛らしい名前を付けりゃあいいのに。……そうだな、クマのハニー太郎なんてどうだ。」
オスカーを助けるために駆けつけたアンジェの目の前で、攻撃を加えようとしていたグラウ・グリズリー。
その光景を眼にしたアンジェは躊躇うことなく、オスカーへと向かって駆け寄る勢いを殺すことなく大地を蹴り、両足を空中で揃え、容赦の欠片も見当たらないドロップキックをグラウ・グリズリーへと決めたのである。
全身の筋力に速度が加わったアンジェの破壊力抜群のドロップキックはグラウ・グリズリーの脇腹に直撃し、グラウ・グリズリー自身が抉った大地や薙ぎ倒した木々を巻き込んで錐揉みしながら吹き飛んで行ってしまった。
「い、いやいやいや……冒険者達の恐怖の象徴がクマのハニー太郎って……つーか、何処に可愛らしさが有るっっ?!」
「おう、“ハニー”の辺りに可愛らしさを詰め込んでみたぜ。」
ドヤ顔で嬉しそうに語るアンジェへと頬を引き攣らせながら、満身創痍なオスカーは突っ込み続ける。
だが、急に何かを思いだしたのかハッとした表情を再び浮かべ、キッと鋭い眼差しをアンジェへと向けた。
「クマの名前など、どうでも良いっ! 何であんたが此処にいるんだっ!! 俺はお嬢様をエルネオアへと保護して連れて行くように依頼したはずだろうっ!!!」
動揺によりアンジェを相手に漫才のような掛け合いをしていたことに気が付いたオスカーは、そんな事を言っている場合ではなかったと叫ぶように問いかける。
「ああん? んなもん、俺は了承した覚えは無いな。 勝手に人に財布を投げ渡して返事も聞かずに走り去った癖に。……大体、この程度の端金じゃあ、あの手の掛かりまくるお嬢ちゃんの世話をエルネオアまでするなんざ割に合わん。」
「………………」
憮然とした表情で懐から取り出したオスカーが投げ渡した通貨の入った皮袋を弄ぶアンジェの言葉に、オスカーはそうかもしれない、と思ってしまったがために言葉を返すことが出来なかった。
「ほらよ! 確かに返したぜ。……安心しな、あの嬢ちゃんならランスと一緒だ。 俺が多少離れたくらいじゃあ魔物は寄ってこねえよ。 だから、二人の安全は確保できてるから問題無え。」
アンジェからオスカーへと向かって投げられた皮袋は音を立てて地に落ちる。
「……俺に……助けなど要らない。 頼んだ覚えもない。 俺は……」
グラウ・グリズリーという命の危機に晒されたオスカーの心は生きることを望んでいたが、今更素直に他者の前で表出することがオスカーには出来なかった。
「よく言うぜ。 最後の最後であんたは抵抗した癖に。 死にたくないと、生きようと足掻いた癖に。」
「ちがっ!!」
まるで世間話をするかのようなアンジェの言葉にオスカーは感情を揺さ振られ、激しく否定の言葉を吐き出そうとするが、それは遮られてしまった。
「グルゥガアアァァァァッッッ!!!」
「っっ?!」
「おおう、元気が良いな。 未だ本気ではなかったとは言え、俺の蹴りを受けても死ななかった奴は初めてだぜ。」
地響きのような大きな咆吼を轟かせたグラウ・グリズリーが、己よりも上位の力を持つ者の登場に怯えを誤魔化すように鳴き声を上げたのだ。
それは生き延びたい、死にたくない、という全ての生物が持つ本能と言うべき物だったのかもしれない。
だからこそ、グラウ・グリズリーは野生の本能を剥き出しにして一か八かの捨て身の突進に出た。
「何を暢気な事を言っているっ! あんたは逃げろっ!! あんただけなら簡単に逃げられるはずだっっ!!!」
小山が迫ってくるようなグラウ・グリズリーの放つ捨て身の突進に、オスカーはアンジェだけでも逃げろと叫ぶ。
「断る。 あんたの言うことを聞く義理は無いからな。」
迫り来る攻撃が見えていないのか飄々とした様子で応えるアンジェ。
そんな己の言葉を意にも介さないアンジェの様子にオスカーは歯噛みする。
「あの時も言っただろうっ! 呪われた紅目の俺が死んでも誰も困りはしないし、嘆きもしないっっ!! お嬢様さえ無事ならば、何の問題も無いんだっっ!!!」
そう言い切ったオスカーの顔は、己の言葉に傷ついたかのように痛みを伴った表情を浮かべていた。
一族の誰とも違う紅い瞳を持って、この世に生を受けたオスカーは生みの母親からも忌み嫌われて育ち、父親は騎士としての仕事を優先して家庭を省みるような性格では無かったのである。
周囲の人間から腫れ物を扱うように扱われ、騎士になるための学院に通えば紅い眼を理由に身分の上の貴族達から因縁を付けられた。
我慢に我慢を重ねていたオスカーも、最期の最後まで愛してはくれなかった母親の死を切っ掛けに今までの鬱憤を爆発させ、当たり散らしてしまったのだ。
そんなオスカーを叩きのめして矯正したのは、己が子であるオスカーを省みることの無かった父親などではなく、飄々とした性格の祖父であった。
「……俺が……生きている必要など……」
祖父と関わり多少落ち着きを取り戻したとはいえ、学院を卒業しても騎士になることも出来ず、生きることに意味を見出すことが出来ないオスカー。
誰かを護ることで生きる意味を見出して貰おうと考えていた祖父の思いとは裏腹に、仕えた主に対してオスカーは忠誠心を育てることが出来なかった。
己を叩きのめして道を示した祖父の言いつけだからこそ、守り続けていただけのオスカーはノエルの身さえ無事なことで、祖父に迷惑が掛からなければそれで良いとすら思っていたのだ。
「知るかっそんなもんっっ!!!」
「なっ?!」
オスカーを背に庇い、その言葉を黙って聞き続けていたアンジェは、猛烈な勢いで突進してきたグラウ・グリズリーを真っ正面から受け止める。
重厚な衝突音が響き渡り、衝撃を受け止めたアンジェの両足が大きな音を立てて大地へとめり込んで行く。
「不幸自慢がしてえなら、他の相手を探しなっっ!! 俺は不幸を比べ合う趣味は無えよっっ!!!」
徐々にグラウ・グリズリーの勢いは削がれていき、グワシッとアンジェの大きな手が剛毛の生えた毛皮を掴む。
「あんたの過去なんざ、俺は知らねえっ! 興味もねえっっ!!」
アンジェの全身から魔力が立ち上り、強靱な身体を更に強化し筋肉が隆起していく。
「だがな、少なくとも俺はあんたが死んだら困るし、あの嬢ちゃんは絶対に泣くっ!!!」
グラウ・グリズリーの抵抗を物ともせずに、アンジェはその巨体を持ち上げ、渾身の力を込めて投げ飛ばした。
「生きる意味が欲しいなら、俺が幾らだって考えてくれてやるっ!」
黄金に輝く魔力に包まれたアンジェに投げ飛ばされたグラウ・グリズリーは大地に叩き付けられて沈黙する。
「だから、つべこべ言わずに生きろっ!!!」
黄金の魔力の輝きに包まれながら、オスカーを振り返ったアンジェ。
「……っ?!」
その姿は、オスカーの眼には夢幻の狭間で出会った漆黒の少女の姿に映るのだった。




