絶叫と提示されし選択。
薄暗くなってきた夜の帳が降りようとしている深い森の中で、パチパチと何かが爆ぜる小さな音が聞こえる。
「…………ん……?」
小さな焚き火の明かりに誘われるように少年の意識が徐々に浮かび上がった。
「……っっ……痛っ……」
意識が浮上すると共に体中に走る痛みに顔を顰めてしまった少年は、どうして自分が地面に敷かれた布の上に横たわっているのか分からずに軽く混乱してしまう。
「…………僕は……っっ?!……そうっすっ、短剣を……」
混乱していた少しだけ頭が動き出し始めた少年の思考は気絶する前の状況を思い出し、奪われた大切な物の存在を主張する。
「……眼え醒めたみてえだな。」
慌てて痛む身体に構わずに、身体を起こした少年は側に人がいたことをこの時になって初めて気が付く。
「あ……もしかして貴方が助けてくれ……たん……す……」
少年は声の方向へと視線を向けて助けてくれたことに感謝の言葉を伝えようとするが、その命の恩人の姿を視界に収めた瞬間音を立てて固まってしまった。
「おい、大丈夫か? どっか傷が痛むの……」
「あっ……あっぎゃあぁぁぁぁっっ?!」
固まった少年の姿に何処か傷が痛むのかと声を掛ける命の恩人こと、アンジェだったが、その言葉は少年の発した森中に木霊しそうな悲鳴によって途切れてしまう。
「いっ、いやあぁぁっっ!! 食べないで下さいっすっ! 骨と皮だけの僕なんか美味しくないっすからっっ!!」
少年が見たのは薄暗い森を背景に、焚き火の明かりで顔が下から照らされたことにより影が強調された盗賊よりも遥かに凶悪な人相を持った人物だった。
「はあ…………もしかしたら、盗賊の仲間扱いはされるかと思ってたけどよぉ……まさかの魔物扱いかよ。 いい加減、俺だって泣くぞ。」
流石に魔物扱いをされるとは思っていなかったアンジェは命の恩人に対する言葉かよ、と憮然とした表情を浮かべ呟く。
ため息を付きながらも、しょうが無いとばかりにそれ以上は何も言わずに静かに焚き火を絶やさぬように小枝を放り込む。
そして、アンジェは少年が気絶している間に森の中で仕留めた数匹の獲物という名の夕餉の焼き加減を確認していく。
悲鳴を上げながら腰を抜かしてしまったことにより、走って逃げることも出来ない少年はずりずりとアンジェから少しでも距離を取ろうと後ずさる。
「…………あれ?」
しばらくの間は食べないで、と言い続け涙眼になっている少年だったが、いつまで経ってもアンジェが自分に近付いてこないことに首を傾げてしまう。
寝起きで余計に回っていなかった上に恐怖で凍り付いた思考が再び動き出した少年は、アンジェが取り敢えず己に近付いてこないことに違和感を覚える。
「……あ、あの……」
「なんだよ?」
焚き火で炙り続けている肉の焼き加減の方が既に重要なのか、己へと見向きもしないアンジェへと少年は恐る恐る声を掛けた。
「……えっと……僕を食べるんじゃないんすか?」
機嫌を損ねるんじゃないかとビクビクしながら問いかける少年の言葉に、アンジェは頬を引き攣らせ答える。
「てめえなあ…………俺は魔物じゃねえんだよ。 つーか、人間なんざ喰う趣味ねえよ、アホっ!」
疲れたように言葉を返すアンジェに、少年はもう一度じっくりとアンジェの頭の天辺から爪先まで視線を走らせ益々首を傾げてしまう。
「じゃあ、僕を売るつもりっすか?! 見ての通りひ弱ですし、痩せっぽっちの僕を買ってくれる商人は……」
「あのな、誰も売るなんざ一言も言ってねえし、てめえみたいなガキを売らなきゃなんねえほど金に困ってる訳でもねえよ。」
悲観的なことばかりいう少年にいい加減呆れたように何とも言えない視線をアンジェは送り、面倒臭そうに頭を掻く。
「俺の気分を害するような声が聞こえてきたから面倒ごとと分かった上で首を突っ込んだだけで、てめえに用事がある訳じゃねえ。 お前が、この場を離れたいなら止めたりしねえ。
ただし、もうすぐ日が暮れるから魔物は活発に動き出す。……自分で行動に伴う結果を考えた上で好きにしな。」
視線を少年へと向けたアンジェは忠告を口にした上で、もう用はないとばかりに視線を焚き火に炙られる肉へと戻す。
アンジェに視線を向けられたことでビクリと震えていた少年の背後に広がる森から、まるで結末を暗示するかのような魔物の遠吠えが微かに聞こえてくる。
「……うっ……」
この場を離れれば訪れるであろう己の死を予感して少年は顔を強張らせ、思考を巡らせていく。
「あ、あの……僕は、ランスって言いやす。 た、助けて貰ったのに、悲鳴なんて上げて本当に失礼な事をしてしまいやした。」
色々と考え続けた結果、少年は日が暮れて魔物が獲物を求めて狩りを始める森の中を彷徨うより、少なくとも今すぐに己に害する様子のないアンジェの側に留まることを選びとった。
「ぼ、僕は見ての通りそこらの犬にも負けちまうような弱さなので、此処に置いて貰えませんでしょうか?」
「好きにしなって言っただろうが。」
ビクビクとしながらも少しでも生き延びるために少年は選択し、アンジェは少年の心の機微を何となく感じ取り苦笑する。
「ま、妥当な判断だと思うぜ。 てめえに取っちゃ魔物みてえに恐ろしい俺の側から充分に離れた瞬間に、本物の魔物に狩られて終わりだったろうからな。」
容赦ないアンジェの事実を含んだ感想に少年、ランスは青ざめる。
「他人に悲鳴を上げられることには慣れてるから、あんまり気にすんな。……っと、名乗ってなかったな。 俺はアンジェ、ついこの前まで村人その一だった旅人だ。」
ニイッと笑いながらアンジェは自己紹介するが、その内容を理解したランスは微妙な表情を浮かべてしまう。
「……その様子でしがない村人その一って……同じようなその二、その三がいるってことっすか? どんだけ恐ろしい村なんすかっ?!……それにアンジェって天使って意味じゃ…………」
ランスの脳裏にアンジェのように筋骨逞しく、鋭い眼光を持った村人達が多数生活する村を思い浮かべて震え、目の前にいる益荒男の如き漢の名がアンジェということに驚く。
「俺の名前がアンジェじゃあ可笑しいか?」
「そんな事は有りやせんっ! とってもお似合いっすっっ!!」
アンジェの眉が寄ったことに身の危険を感じて、間髪入れずに否定の言葉を叫ぶランスの様子にアンジェは苦笑する。
「似合わないかもしれねえが、お袋が付けた名前なんだよ。……まあ、俺は悪くないって思ってんだけどな。 それと、俺のことは好きに呼べ。 俺も、お前のことは勝手に名前で呼ばせてもらうからな。」
「あっ、はいっ! わ、わかりやした。」
戸惑いながらも頷くランスの姿にアンジェは満足した様子で頷く。
「じゃあ、自己紹介も終わったし、こいつも焼けたからさっさと喰いな。」
アンジェは焚き火に炙られ続けこんがりと焼けた肉のうちの一つをランスへと差し出す。
「えぇぇっ?! これアンジェさんのじゃ……」
「あのなあ、見るからに栄養の足りてねえガキの前で一人で腹を膨らませるほど俺は鬼じゃねえよ。」
ほれっさっさと喰えっ!、と差し出され続ける香ばしい香りを漂わせる肉の塊に少年は喉を鳴らし、おずおずとアンジェを警戒しながら受け取り、遠慮気味に一口囓れば口の中一杯に調度良い塩梅の塩気と、肉汁が溢れ出す。
旅に出る前から粗末な食事ばかりだった貧しい家に生まれたランスにとって、アンジェが渡した肉は産まれて初めてのご馳走とも言えた。
目の前に己を害するかもしれないアンジェがいる事すら忘れ、ランスは夢中で肉にかぶりつき続ける。
その姿をアンジェは優しく見守り、己の分もさり気なく差し出しておくのだった。