ログアウトしても、好きでした
『——ごめん、もう無理』
イヤホン越しに響いた声は、三年間聞き続けた甘い声とは別物だった。
仮想空間SNS『セカンドスカイ』。夜空を模したロビーには、数十人のアバターが浮かんでいる。その中心で、白猫のアバター『シロ』が俺を——銀髪碧眼のアバター『ソラ』を見下ろしていた。
公開チャットだ。全員に聞こえている。
『瀬川悠人、28歳、システムエンジニア。これがソラの正体ね』
スクリーンショットが空中に展開される。俺の社員証。地味な黒髪、疲れた目元、覇気のない表情。さっきのボイスチャットで、うっかり本名を呼ばれた時に特定されたんだろう。
『ちょっ、シロちゃん何してんの』
『うわ、晒しじゃん……』
周囲がざわつく。配信者仲間、常連のリスナー、見知らぬギャラリー。全員の視線が突き刺さる。
『ねえ、私が三年間付き合ってたのって、こんな地味な男だったの?』
シロ——真白の声が、嘲笑を含んで響いた。
『仮想空間ではキラキラしたイケメンアバター使ってさ、優しい声で癒し配信とかしてさ。現実はこれ? 無理なんだけど。生理的に、無理』
心臓を直接握られたような感覚。
『えー、それってどうなの〜? 詐欺じゃない? アバターと現実が違いすぎるの、キモくない?』
俺は黙っていた。何を言えばいい? 言い訳のしようがない。現実の俺は確かに地味で、平凡で、どこにでもいるような——いや、いてもいなくても気づかれないような人間だ。
だから仮想空間では違う自分になりたかった。ただ、それだけだったのに。
『ソラくん……』
リスナーの一人が声をかけてくれた。でも俺は、返事をする余裕がなかった。
『じゃあね、瀬川くん。いや、ソラくん? あはは、もう関係ないか』
ログアウト音。白猫のアバターが光の粒子になって消える。
三年間だ。三年間、毎日ログインして、一緒にクエストを回って、配信を見守ってくれて。『ソラくんの声、大好き』って言ってくれて。
全部、嘘だった。
俺じゃなくて『ソラ』が好きだっただけ。現実の俺は——恋愛対象外。
『……ログアウトするか』
自分の声が掠れていた。銀髪碧眼のアバター『ソラ』を動かして、ロビーの端へ向かう。好奇の視線。同情の視線。どちらも今は毒だ。
(まあ、俺みたいなのは——こうなるよな)
予感はあった。仮想空間の恋なんて、現実を知れば終わる。わかっていた。わかっていたはずなのに。
ログアウトボタンに手を伸ばした瞬間だった。
『——待って』
聞き慣れない声。振り返ると、見たことのないアバターがいた。
黒い猫耳に赤いリボン。ツンツンした、小柄で攻撃的なデザイン。レベル1の初期装備。明らかな新規プレイヤー。
IDは『ルナ』。
『……大丈夫?』
ぶっきらぼうな声。アバターのデザインに似つかわしい、クールな女性の声。
『大丈夫、じゃなさそうだね。ごめん、変なこと聞いた』
『いや……ありがとう』
社交辞令を返そうとした。でも言葉が続かない。喉が詰まる。
『私、ずっと見てたの。あなたの配信』
ルナがぽつりと言った。
『ソラの、じゃない。あなたの配信。画面越しでも伝わってた。優しい人だって。初心者に丁寧に教えて、荒らしにも怒らないで、悩み相談にも親身になって』
『……それは』
『だから——さっきの女、間違ってる』
小さなアバターが、一歩こちらに近づいた。
『現実がどうとか、見た目がどうとか、関係ない。あなたの中身を見てた人は、ちゃんといる。……私とか』
心臓が跳ねた。三年間信じていたものが壊れた直後なのに、見知らぬ誰かの言葉が刺さる。
『だから、ログアウトしないで。……お願い』
小さな声だった。震えているようにも聞こえた。
『……ばか。こんな時に一人になったら、絶対ろくなこと考えない』
——ばか。
その一言に、なぜか胸が温かくなった。
『……君、誰?』
『ルナ。今日始めたばっかり。ビギナー』
『今日……?』
『そ。だから、操作教えて』
ぶっきらぼうに、でもどこか必死に、黒猫のアバターが俺のアバターの袖を掴んだ。
公開処刑の直後に、この人は何をしているんだ。『ソラの彼女』だった人間に晒されたばかりの配信者に、なんで関わろうとするんだ。
わからない。でも——
『……まあ、いいけど』
ログアウトボタンから手を離した。
この時の俺は知らなかった。この不器用な新規プレイヤー『ルナ』が、現実世界で『氷の女王』と恐れられる社内一の美人——冬月澪だということを。
そして彼女が、二年前から俺の配信を欠かさず見ていたということを。
——物語は、ここから始まる。
◇◇◇
翌朝。現実世界。
「おはようございまーす……」
誰にも聞こえない声量で挨拶しながら、俺はオフィスに滑り込んだ。
株式会社クロスウェア、システム開発部。朝9時のフロアは既に活気づいていて、俺のような影の薄い人間が一人増えたところで誰も気づかない。
「瀬川ー、おはよ」
ただ一人を除いて。
「……おはようございます、神崎先輩」
神崎蓮。29歳、イケメン、長身、スポーツ万能、コミュ力お化け。俺と真逆の陽キャ代表格だが、なぜか俺のことを気にかけてくれる奇特な先輩だ。
「顔色悪いな。また徹夜でゲームか?」
「……まあ、そんなとこです」
(ゲームっていうか、公開処刑食らってたんですけどね)
心の中でツッコミを入れる。言えるわけがない。『実は俺、登録者10万人の配信者なんですけど、昨日ネット彼女に現実の顔晒されて振られまして』とか。
自席についてパソコンを立ち上げる。今日もまた、誰にも感謝されないコードを黙々と書く一日が始まる——
「おはようございます」
空気が変わった。
フロア全体が一瞬、静まる。男性社員の視線が一点に集まる。ヒールの音が近づいてくる。
冬月澪。
経理部所属、25歳。艶やかな黒髪のロングヘア、切れ長の涼しげな瞳、近寄りがたいオーラ。社内で『氷の女王』と恐れられる、高嶺の花中の高嶺の花。
彼女がシステム開発部のフロアを通り過ぎていく。経理部は隣のフロアだから、たまにこうして通過することがある。
「冬月さん、おはようございます!」
営業部の若手が元気よく声をかける。
「……おはようございます」
必要最低限の返答。無表情。それでも様になる美人ぶり。
(すげえな、あの人。存在感が違いすぎる)
俺なんか、座ってても立ってても空気と同化してるのに。
ふと、冬月さんの視線がこちらを向いた——ような気がした。
(いや、気のせいだろ)
そう結論づけて、俺はモニターに向き直った。
◇◇◇
昼休み。
社員食堂で一人、日替わり定食をつついていた。周りのテーブルは賑やかなグループで埋まっているが、俺の周囲だけ人払いでもしたように空いている。
(まあ、いつものことだ)
スマホを取り出す。セカンドスカイのアプリを開くと、通知が999+になっていた。
——見たくない。
昨日の件で、SNSも掲示板も荒れているだろう。『ソラの正体判明www』『地味すぎワロタ』『現実と仮想のギャップきつい』。そんなコメントが並んでいるに決まっている。
でも、一件だけ気になるメッセージがあった。
【ルナ】:昨日はありがとう。操作、覚えられたよ。……また教えてくれる?
胸の奥がじわりと温かくなる。
あの新規プレイヤー。公開処刑の直後に声をかけてきた、不思議な人。結局、昨日は深夜2時まで一緒に基本操作を練習した。
『私、ずっと見てたの。あなたの配信』
真白に言われた『生理的に無理』より、あの一言の方がずっと心に残っている。
【ソラ】:こちらこそ。今夜もログインするから、また一緒にやろう
送信してから気づく。昨日振られたばかりなのに、もう別の人と約束してる自分に。
(いや、これは違う。ルナはただの……ゲーム仲間だ)
言い訳を心の中で並べていると、食堂の入り口が騒がしくなった。
「真白ちゃん、今日もかわいい〜」
「さすが営業部のアイドル」
——最悪だ。
桐谷真白。現実の彼女。ふわふわの茶髪ロング、ぱっちりした大きな目、愛嬌のある笑顔。仮想空間では『シロ』として、俺の三年間を奪った女。
目を逸らそうとした。でも遅かった。
「あ、瀬川くん!」
真白がこちらに歩いてくる。笑顔で。何事もなかったかのように。
(いや、なんで普通に話しかけてくるんだよ……!)
周囲の視線が集まる。『なんであの地味な男に、真白ちゃんが?』という疑問符が浮かんでいる。
「昨日ぶり〜。ごめんね、ちょっと言い過ぎたかも」
小声で、でも全然申し訳なさそうじゃない声。
「あ、いや……」
「でもさ、仕方ないよね? 私も驚いちゃったし。現実の瀬川くんが、まさかあんなに地味だなんて思わなくて」
にこにこ笑いながら、ナチュラルに傷口をえぐってくる。
「ソラくんとしての瀬川くんは好きだったよ? でも現実は別じゃん。えー、それってどうなの〜? って感じ」
口癖。昨日も聞いた軽薄な語尾上げ。
「……うん、わかった」
何もわかってない。でもそう言うしかない。
「じゃあね、瀬川くん。お仕事がんばって」
去っていく後ろ姿を見送りながら、俺は拳を握りしめていた。
怒りじゃない。自分への情けなさだ。三年間も騙されていたのに。公開処刑されたのに。それでも何も言い返せない自分が、どうしようもなく惨めで——
「瀬川さん」
低い、静かな声。
振り向くと、冬月澪が立っていた。
なぜ。経理部の氷の女王が、なぜ俺なんかに。
「これ」
差し出されたのは、栄養ドリンク。コンビニで売っている、オーソドックスなやつ。
「え……」
「顔色が悪かったので」
それだけ言って、冬月さんは去っていった。ヒールの音が遠ざかる。
残された俺は、手の中の栄養ドリンクを呆然と見つめていた。
(なんだ、今の……?)
冬月さんと俺に接点なんてない。彼女はフロアの花形、俺は空気。話したことすら、ほとんどないはずだ。
なのに、なぜ——
『顔色が悪かったので』
昨日、ほとんど眠れなかった。それが顔に出ていたのか。
でも、それに気づいて、わざわざ栄養ドリンクを——
「……変な人」
呟いて、俺はドリンクのキャップを開けた。
氷の女王は、案外優しいのかもしれない。
その夜、俺はまたセカンドスカイにログインする。ルナとの約束があるから。傷はまだ癒えていない。でも、不思議と——昨日よりは前を向けている気がした。
◇◇◇
同時刻、経理部フロア。
「先輩、さっき食堂で瀬川さんに何か渡してましたよね?」
橘美月が、興味津々という顔で冬月澪を見つめていた。
「……栄養ドリンク」
「えー! 先輩から男の人に何か渡すなんて初めて見ました! もしかして、瀬川さんのこと——」
「違う」
即答。でも、耳が赤い。美月はそれを見逃さなかった。
「嘘だー。先輩、瀬川さんのこと好きですよね?」
「…………」
「えへへ、図星だ」
澪は無言でパソコンに向き直った。
胸の中では、心臓がうるさいほど鳴っていた。
(今夜、また会える)
彼は知らない。『ルナ』が自分だということを。二年間、ずっと配信を見続けていたことを。
そして——現実の彼も、ずっと見ていたことを。
『……ばか』
癖で呟いたその言葉を、美月は聞き逃さなかった。
◇◇◇
【セカンドスカイ——22:00】
ログインすると、ルナは既に待っていた。
『遅い』
開口一番、ぶっきらぼうな声。でも、アバターがぴょこぴょこと跳ねている。喜んでいるのが丸わかりで、少し笑ってしまった。
『ごめん、仕事が押して』
『……まあ、いいけど』
今日の服装は、相変わらずレベル1の初期装備。黒猫耳に赤いリボン、小柄で攻撃的なデザイン。見た目は強気なのに、言動がどこか不器用で可愛らしい。
(昨日会ったばっかりなのに、なんでこんなに気が合うんだろう)
『今日は何する? クエスト回る?』
『うん。……でもその前に、聞きたいことがある』
真剣な声音。ルナのアバターが、こちらをまっすぐ見つめてきた。
『昨日の女。元カノなんでしょ。……大丈夫?』
『……ああ、うん。まあ』
『嘘。声、沈んでる』
バレてる。三年間一緒にいた真白にすら見抜けなかった俺の感情を、昨日会ったばかりのこの人は、声だけで察してしまう。
『……正直、まだ立ち直れてない』
素直に言った。なぜか、この人には嘘をつきたくなかった。
『三年だったから。一途に想ってた、つもりだった。結局、俺の現実を知ったら『生理的に無理』だって。……まあ、仕方ないよな。俺みたいなのは』
自嘲が滲む。わかっている。自分の価値くらい。
『——違う』
ルナの声が、強く遮った。
『仕方なくない。あの女がおかしい。三年も一緒にいて、見てたのは外見だけだったってこと。……最低』
『ルナ……』
『私は違う。私はちゃんと見てた。あなたの配信、二年間。欠かさず』
二年。
『初心者に操作教えてあげてたの、覚えてる? あの時私もいたの。まだ始めたばっかりで、全然わからなくて。でもソラ——あなたは、すごく丁寧に教えてくれた』
『え、それって……』
『それから、ずっと見てた。毎日じゃないけど。仕事帰りに、疲れた時に、あなたの声聞くと落ち着いたの。……救われてた』
心臓が跳ねた。
俺の配信を『救い』だと言ってくれる人がいる。アバターの見た目じゃなくて、俺の声を、言葉を、見ていてくれた人がいる。
『だからあの女がああ言った時、許せなかった。あなたのこと何も見てなかったくせに、勝手に晒して、傷つけて。……ばか』
また、その口癖。
『怒ってくれるの? 俺のために?』
『当たり前。……だって、私』
言葉が途切れた。沈黙が落ちる。
『……ルナ?』
『ううん、何でもない。……クエスト行こ。レベル上げしたい』
強引に話題を変えられた。でも、その不器用さが心地よかった。
今夜も、気づけば深夜2時を過ぎていた。
◇◇◇
【翌朝——クロスウェア社】
「……ふぁあ」
欠伸を噛み殺しながら出社する。二日連続の寝不足。さすがに顔に出ている自覚はあった。
自席についてパソコンを起動しようとした瞬間、視界の端に何かが映った。
また、栄養ドリンク。
昨日と同じ、オーソドックスなやつ。デスクの端に、さりげなく置いてある。
(……また?)
周囲を見回す。誰も俺のことなど見ていない。当然だ、俺は空気だから。でも、誰かがこれを置いた。昨日と同じように。
『顔色が悪かったので』
冬月さんの声が蘇る。もしかして、また彼女が——?
「よう瀬川、今日も顔色悪いな。……お、栄養ドリンク? 誰かにもらったのか?」
神崎先輩が後ろから覗き込んできた。
「あ、はい……たぶん、冬月さん、かと」
「冬月? あの氷の女王が? まじ?」
驚いた表情の神崎先輩。無理もない。冬月澪が、地味で目立たない俺に何かを渡すなんて、社内七不思議レベルの出来事だ。
「お前、冬月と何かあったのか?」
「いえ、何も……本当に心当たりなくて」
「ふーん」
神崎先輩は意味深に笑った。
「まあ、冬月もああ見えて人間だからな。お前のこと、どっかで見てたのかもしれねえぞ」
『どこかで見てた』。その言葉が、なぜか引っかかった。
◇◇◇
【同日——昼休み】
また、食堂で一人飯。今日は窓際の席を選んだ。人目が気にならない場所で、スマホを開く。
ルナからメッセージが来ていた。
【ルナ】:今日、仕事何時まで?
【ソラ】:たぶん21時くらい。残業多くてごめん
【ルナ】:……私も21時くらいになりそう。お揃い
(お揃い、か……)
なんでもない言葉なのに、妙に嬉しい自分がいる。
三年間付き合った真白は、俺の残業を一度も気にしたことがなかった。『また残業? つまんないの』と言われるばかりで。
ルナは違う。俺の忙しさを当たり前のように受け入れて、自分も同じだと教えてくれる。
——そういえば。
ふと、気になった。
ルナのログイン時間。だいたい21時〜22時の間。毎日、ほぼ同じ。
社会人の女性で、21時にログインできる人。仕事が遅くまであって、でも毎日ほぼ同じ時間に終わる人。IT企業の経理とか、そういう職種かもしれない。
(……まさかな)
馬鹿な考えを振り払う。冬月さんがセカンドスカイをやってるなんて、あり得ない。あの氷の女王が、仮想空間で黒猫アバター使って『……ばか』とか言ってるなんて、想像できない。
できない——はずなのに。
『私、ずっと見てたの。あなたの配信』
ルナの言葉と、栄養ドリンクを置いていく冬月さんの姿が、頭の中で重なりかけた。
「瀬川さん」
声をかけられて、飛び上がりそうになった。
振り向くと——冬月澪が立っていた。
「これ、書類です。開発部への回覧」
クリアファイルを差し出される。経理部から開発部への、普通の社内文書。
「あ、はい……ありがとうございます」
受け取る。指が触れそうになって、慌てて引っ込める。
冬月さんは無表情のまま——でも、ほんの一瞬、俺の顔を見た。じっと。何かを確認するように。
「……顔色、昨日よりマシ」
ぽつりと呟いて、去っていく。
残された俺は、クリアファイルを握りしめたまま固まっていた。
(なんで俺の顔色なんか気にしてるんだ、この人は)
わからない。でも、一つだけわかることがある。俺は今まで、冬月澪という人を全く見ていなかった。
氷の女王。高嶺の花。近寄りがたい。そんなレッテルだけで、彼女の本当の姿を見ようともしなかった。
——それは、真白が俺にやったことと同じじゃないか。
外見や噂だけで、人を判断すること。
「……俺も、大概だな」
自嘲の呟きが漏れた。
その夜もログインして、ルナと会話した。クエストを回りながら、他愛ない話をした。
『今日、職場の人に優しくされた』
『へえ、どんな人?』
『すごく綺麗な人。でも、みんな怖がってて。……俺も今まで、ちゃんと見てなかったかもしれない』
『……ふーん』
ルナの声が、少し嬉しそうに聞こえたのは、気のせいだろうか。
『その人のこと、ちゃんと見てあげて。……きっと、喜ぶから』
『え、なんで?』
『なんとなく。……ばか』
また、その口癖。
この時はまだ、気づいていなかった。ルナの口癖『……ばか』が、冬月澪の口癖と同じだということに。そして二つの世界で俺を見ている人が、同じ一人の女性だということに。
◇◇◇
【一週間後——セカンドスカイ】
ルナとの交流は、日課になっていた。
毎晩21時過ぎにログイン。クエストを回り、新しいエリアを探索し、時々は何もせずにロビーで話すだけの日もあった。
『——で、今日も残業だったの?』
『うん。納期がやばくて。先輩が手伝ってくれなかったら終わらなかった』
『その先輩、いい人だね。……名前は?』
『神崎さん。見た目はチャラいけど、すごく面倒見がいい人で』
ルナが沈黙した。少し長い間。
『……ルナ?』
『ううん。何でもない。……知ってる人に似てるなって思っただけ』
知ってる人。
ふと、違和感が蘇った。ルナとの会話は、どこか既視感がある。俺の日常を知っているかのような反応。仕事の愚痴に妙に理解がある態度。
(まさか、同じ会社の人間だったりしないよな……)
いやいや。さすがに被害妄想が過ぎる。
『ソラは、現実でも優しいんだね』
『……え?』
『先輩を褒める言い方。自分の手柄みたいに言わないで、ちゃんと感謝してる。そういうとこ、好き』
——好き。
心臓が跳ねた。
『あ、その、言葉として、ね。人柄が。……ばか、変な意味じゃないから』
慌てて言い訳するルナ。アバターがぴょこぴょこ動いている。明らかに動揺している。
(……可愛いな)
思ってしまった。真白に振られて、まだ二週間も経っていないのに。新しい誰かを可愛いと思える自分に、少し驚いた。
『ルナも、そうだよ』
『……え?』
『俺が落ち込んでる時に声かけてくれたの、ルナじゃん。毎日付き合ってくれて、愚痴も聞いてくれて。……感謝してる』
『っ……そ、そんなの当たり前だし』
また動揺。声が少し高くなる。不器用で、素直じゃなくて、でもまっすぐで。
——誰かに似てる。
◇◇◇
【翌日——クロスウェア社】
「瀬川、お前最近楽しそうだな」
昼休み、神崎先輩がにやにやしながら言った。
「え、そうですか?」
「そうだよ。前より覇気がある。……新しい彼女でもできたか?」
「いや、彼女は——」
否定しようとして、口ごもる。ルナは彼女じゃない。でも、毎日会話してる。日課みたいに。
「ほらな、顔に出てる」
「違いますって……ただのゲーム仲間です」
「ゲーム、ね」
神崎先輩は意味深に笑った。
「お前がやってるの、セカンドスカイだろ」
「え——なんで知って」
「俺もやってるからな。ちなみに登録者10万超えの配信者『ソラ』が、うちの部署にいることも知ってる」
血の気が引いた。
「バレて……た、んですか……」
「まあな。声でわかった。お前の声、特徴的だし」
終わった。社内バレ。これで俺の『地味な空気男』のペルソナは崩壊——
「安心しろ、誰にも言ってねえよ」
神崎先輩が肩を叩いた。
「むしろ俺はお前のファンだ。ずっと前から見てた。現実のお前が地味だろうが関係ねえ。あの配信は本物だ」
「神崎先輩……」
「あの晒しの時も、匿名で擁護コメント打ちまくってたの、俺だからな」
——あの時の。
公開処刑の後、掲示板やSNSで意外なほど擁護の声があった。『現実が地味でも関係ない』『ソラはソラだ』『中身を見ろ』。あれは、先輩だったのか。
「お前は悪くない。あの女——シロが狂ってただけだ。三年も付き合っといて、現実見たら『無理』とか、人として終わってる」
吐き捨てるように言う神崎先輩。
「だから、お前は堂々としてろ。新しいゲーム仲間と楽しくやってんなら、それでいい。……その子、大事にしろよ」
「……はい」
先輩の言葉が、じわりと胸に沁みた。現実の俺を知っても、『本物』だと言ってくれる人がいる。それだけで、どれだけ救われるか。
◇◇◇
【同日——18:30】
残業中、ふと顔を上げると、経理部のフロアに明かりが灯っているのが見えた。
冬月澪が、まだ仕事をしている。
この会社の残業は部署によってまちまちだ。経理部は月末月初が忙しいが、今はそうでもないはず。なのに、冬月さんだけが残っている。
(……まさか、俺と同じくらいの時間に帰ってる?)
思い出す。ルナのログイン時間。だいたい21時〜22時。残業の日は22時過ぎ。
冬月さんの退社時間も、おそらく21時前後。そこから帰宅して、ログイン——
(いやいや、偶然だ。偶然に決まってる)
首を振って、モニターに向き直る。
21時、俺は退社した。経理部フロアを通り過ぎる時、冬月さんの姿はもうなかった。
帰宅して、シャワーを浴びて、22時。セカンドスカイにログイン。
ルナは——いた。
『遅い。待ってた』
ぶっきらぼうな声。でも、嬉しそう。
『ごめん、残業で』
『知ってる。……私も今日、残業だった』
『そっか、お疲れ様。大変だったな』
『うん。……でも、これがあるから頑張れた』
『これ?』
『……なんでもない。クエスト行こ』
強引に話題を変えられた。また。
でも、聞こえた気がした。『あなたと話せるから、頑張れた』——そう言おうとしていたんじゃないか、と。
◇◇◇
【数日後——社員食堂】
昼休み。いつものように一人で食事をしていると、不意に影が落ちた。
「瀬川くん、久しぶり〜」
桐谷真白が、俺の向かいに座った。
(……なんで)
反射的に身構える。公開処刑から二週間以上。彼女から話しかけられる理由がない。
「最近、元気そうじゃん。何かいいことあった?」
笑顔。あの甘い、猫撫で声。
「……別に」
「えー、嘘〜。顔つき変わったもん。前より明るいっていうか」
真白がじっと俺の顔を見る。値踏みするような目つき。
「ねえ、瀬川くん。あの時は言い過ぎたと思うの。私もびっくりしちゃって、つい」
「……ああ、まあ」
「だからさ、また——」
「真白」
不意に、別の声が割り込んだ。
振り向くと——冬月澪が立っていた。
無表情。でも、目だけが冷たく光っている。
「桐谷さん。経理部に用事があるなら、私に言って」
「え、いや、私は営業部だけど……」
「ここで食事中の人に話しかけるのは、迷惑では」
氷の女王。その名にふさわしい、凍てつくような視線。
真白が一瞬たじろいだ。
「あ、うん、ごめんね瀬川くん。また今度〜」
逃げるように去っていく真白。残されたのは、俺と冬月さんだけ。
「……あの、ありがとうございます」
「別に。邪魔だっただけ」
無表情のまま、冬月さんは俺の隣のテーブルに座った。一人で。黙々と食事を始める。
(……なんでここに?)
経理部のグループとは離れた場所。俺の近く。偶然? いや——
「冬月さん」
「……何」
「最近、栄養ドリンクありがとうございます。毎日置いてくれてるの、わかってます」
冬月さんの箸が止まった。
「……気づいて、た」
「はい。朝、デスクにあるので」
「…………」
沈黙。冬月さんの耳が、ほんのり赤くなっていた。
「徹夜、してるでしょ。……配信」
——え。
「配信、見ると、わかる。夜更かしの日は、翌日顔色悪いから」
配信。配信を見てる? 俺の——ソラとしての配信を?
「冬月さん、もしかして——」
「っ、何でもない。仕事戻る」
立ち上がって、足早に去っていく。ヒールの音が遠ざかる。
残された俺は、頭が真っ白だった。
冬月澪が、俺の配信を見ている。配信の後は徹夜してると、知っている。だから毎朝、栄養ドリンクを——
『私、ずっと見てたの。あなたの配信』
ルナの言葉が、脳内で響いた。
——まさか。
まさか、まさか、まさか。
ルナ=冬月澪?
氷の女王が、仮想空間では黒猫アバターで『……ばか』とか言ってる?
(いや、でも——)
辻褄が合う。ログイン時間。残業のタイミング。神崎先輩を知っているような反応。
そして何より——
『……ばか』
あの口癖。冬月さんが、さっき去り際に小さく呟いた言葉。
『……ばか』
——同じだ。
心臓がバクバクと暴れ出す。
もし本当なら。冬月澪は、二年間俺の配信を見続けていた。現実でもずっと、俺のことを見ていた。栄養ドリンクを置いて、体調を気にして——
『現実のあなたも、好きです』
まだ言われていない言葉が、頭の中で先に響いた気がした。
俺は確かめなければならない。今夜、ルナに——
◇◇◇
【同日——22:00・セカンドスカイ】
ログイン。心臓がうるさい。手が震えている。
ロビーにルナの姿があった。いつものように、黒猫アバターがぴょこぴょこと跳ねて俺を待っている。
『ソラ、来た。今日も遅いね』
いつもの、ぶっきらぼうな声。でも今日は、その声の向こうに——冬月澪の顔が浮かんでしまう。
『……ルナ』
『ん?』
『聞きたいことがある』
真剣な声になってしまった。自分でも制御できない。
『……何? 怖い顔してる』
『俺の配信、いつから見てた?』
沈黙。
『……二年前から。言ったでしょ』
『うん。じゃあ、もう一つ』
深呼吸。
『今日、仕事何時に終わった?』
『……え? なんでそんなこと』
『いいから、教えて』
長い沈黙。ルナのアバターが、居心地悪そうに揺れている。
『……20時45分くらい。なんで?』
冬月さんが経理部フロアから消えたのは——20時半頃だ。退社処理をして、ちょうど20時45分。帰宅して、着替えて、22時にログイン。
——辻褄が合う。
『ルナ』
『……な、なに』
『君、もしかして——会社、IT系?』
『っ……なんで、そんなこと』
声が震えている。動揺が伝わってくる。
『俺の先輩の話、妙に詳しかったから。神崎さんのこと、知ってるみたいだった』
『それは、その……偶然』
『じゃあもう一つ。君の口癖、『……ばか』。それ、現実でも出る?』
完全な沈黙。五秒。十秒。
『…………ソラ』
ルナの声が、小さくなった。
『なんで、そんなこと聞くの』
『確かめたいから。君が——冬月澪さんかどうか』
息を呑む音が聞こえた。そして——
『…………バレた、か』
ルナ——いや、澪の声が、諦めと羞恥で震えていた。
◇◇◇
しばらく、沈黙が続いた。
『いつから気づいてた』
『今日の昼。……配信見てるって、言ったでしょ。冬月さん』
『っ……あれは、その、つい口が滑って』
『栄養ドリンクも。毎日置いてくれてたの、冬月さんだったんだ』
『…………うん』
小さな肯定。
『配信見てて、徹夜だってわかってた。翌日、顔色悪いから。……何かしたくて、でも話しかける勇気なくて、だから』
『二年間?』
『……二年間。ずっと。あなたの配信を見て、あなたの声を聞いて、あなたの優しさに、救われてた』
その言葉に、胸が詰まった。
冬月澪。氷の女王。高嶺の花。近寄りがたいオーラの美人。その人が——二年も、俺を見ていた。
『でも、現実の私は話すの下手だから。声かけられなかった。同じ会社なのに。……ばか、私』
自分を責める声。
『だから、あの晒しの日。あなたが傷ついてるの見て、我慢できなかった。新しいアカウント作って、勇気出して、話しかけた。……ルナとして』
『それで、俺の隣にいてくれたのか』
『うん。……本当は、ずっと隣にいたかった。現実でも。でも、私みたいな無愛想な女、迷惑かなって』
違う。
『迷惑なんかじゃない』
俺は言った。
『冬月さんが——ルナが隣にいてくれたから、俺は立ち直れた。あの晒しの後、ログアウトしようとした俺を止めてくれた。毎日話を聞いてくれた。栄養ドリンクまで置いてくれた。……迷惑なわけ、ないだろ』
『ソラ……』
『悠人でいい。もう、ばれてるし』
『……悠人』
名前を呼ばれた。本名を。彼女の声で。心臓が跳ねた。真白に呼ばれた時とは比べものにならないくらい、強く。
『私、ずっと見てたの。配信のあなたも、現実のあなたも』
澪の声が、震えながら続く。
『みんな、瀬川さんのこと見てないって思ってるでしょ。地味だとか、空気だとか。でも私は知ってる。仕事、すごくできる。手柄横取りされても文句言わない。後輩のミス、黙ってカバーしてる。誰にも気づかれないところで、ずっと頑張ってる』
『……見て、たのか。そんなとこまで』
『だって好きだから。配信の声だけじゃなくて、現実のあなたが。……ずっと』
——好き。
今度ははっきりと、その言葉が響いた。
『だから、私……』
言葉が途切れた。長い沈黙。そして、震える声で——
『現実のあなたも、好きです。……ばか』
◇◇◇
告白だった。仮想空間で。黒猫のアバター越しに。でも、その言葉は本物だった。二年間の想いが詰まった、不器用な告白。
俺は——
『……俺も』
『え……?』
『冬月さんが——澪が、ルナだってわかった時、嬉しかった』
正直に言った。
『この二週間、ルナと話すのが一番楽しかった。気づいたら、毎日ログインするのを楽しみにしてた。それって、もう——』
『っ……』
『好き、なんだと思う。仮想空間の君も。現実の君も』
沈黙。五秒。十秒。
『……ほんと?』
小さな、震える声。
『ほんと』
『私、無愛想だよ。話し下手だし。氷の女王とか言われてるし』
『知ってる。でも、それが澪だろ』
『……っ、ばか。そんな言い方、ずるい』
アバターが俯いた。照れているのが、声でわかる。
『じゃあ……明日。現実で、会える?』
『うん』
『昼休み、屋上。……二人で、話したい』
『わかった。待ってる』
ログアウト。
画面が暗くなった後も、俺は椅子に座ったまま動けなかった。
冬月澪が、俺を好きだと言った。二年間、ずっと見ていたと言った。三年間付き合った真白に、『生理的に無理』と言われた俺を。現実の——地味で、目立たなくて、空気みたいな俺を。そのままの姿で、好きだと言ってくれた。
「……まじか」
呟いた声は、情けないほど震えていた。でも、嬉しかった。生まれて初めて——現実の自分を、肯定された気がした。
◇◇◇
同時刻。冬月澪の部屋。
「……言っちゃった」
澪はベッドに顔を埋めて、悶えていた。
告白した。仮想空間でだけど、告白した。二年間の想いを、全部吐き出した。そして——返事が、返ってきた。
『好き、なんだと思う。仮想空間の君も。現実の君も』
「……好きって」
顔が熱い。心臓がうるさい。
明日、屋上で会う。現実で。本当の姿で。
「何着ていこう……いや、いつもの服でいいか……いや、でも……」
悶々としながら、澪はスマホを握りしめた。画面には、二年間のスクリーンショットが保存されている。ソラの配信。悠人の声。彼の笑顔。彼の優しさ。
「……やっと」
呟いた。
「やっと、隣に行ける」
二年間の片想いが、ようやく——実を結ぼうとしていた。
◇◇◇
【翌日——12:00・クロスウェア社屋上】
階段を上がる足が重い。昨夜ほとんど眠れなかった。ログアウトした後も、澪の声が頭から離れなくて。『好きです』という言葉が、リフレインして。
屋上のドアを開ける。
——いた。
冬月澪が、フェンス際に立っていた。風に黒髪がなびいている。いつもと同じオフィス服。でも、なぜか——今日は特別に綺麗に見える。
「……来た」
振り向いた澪の声は、いつもより柔らかかった。無表情だった顔に、わずかな照れが滲んでいる。
「うん。……来た」
二人で向かい合う。沈黙。仮想空間では、あれだけ饒舌に話せたのに。現実だと、言葉が出てこない。
「……ばか」
澪が、小さく呟いた。
「なんで、そんな遠くにいるの」
「あ、ごめん」
一歩近づく。彼女の顔がよく見える。氷の女王。でも今、その目は——優しく潤んでいた。
「昨日の、覚えてる?」
「……うん」
「私、本気だから」
澪がまっすぐ俺を見た。
「仮想空間の告白だったけど、本気。現実でも——もう一回、言う」
深呼吸。そして——
「瀬川悠人さん。私は、あなたが好きです」
心臓が止まりそうになった。仮想空間じゃない。現実の声で。俺の目を見て。はっきりと。
「配信のあなたも。現実のあなたも。全部、好き。……付き合ってください」
告白。本物の告白。
「……俺で、いいのか」
聞いてしまった。
「冬月さんは、社内一の美人で。俺は、地味で、目立たなくて、何の取り柄もない——」
「それ、やめて」
遮られた。
「自分を卑下するの、嫌い。あなたには取り柄がある。たくさんある。私はそれを二年間、見てきた」
ずい、と近づいてくる。
「配信で十万人を癒す声。初心者に丁寧に教える優しさ。荒らしにも冷静に対応する強さ。……現実でも同じ。後輩のミスを黙ってカバーする。手柄を横取りされても怒らない。誰も気づかないところで、ずっと頑張ってる」
「そんな、大げさな……」
「大げさじゃない」
澪の手が、俺の手に触れた。小さくて、冷たくて、でも——震えている。
「私は、あなたを見てた。ちゃんと。だから、知ってる。あなたがどれだけいい人か。……だから、好き」
「……」
「返事、聞かせて」
まっすぐな目。逸らせない。
俺は——
「……俺も、冬月さんが好きだ」
言えた。
「仮想空間で出会った時から。毎日話すのが楽しくて、いつの間にか、君のことばかり考えてた。……正体がわかった時、嬉しかった。二年間も、俺を見ててくれたって」
「……っ」
「だから——俺で良ければ、付き合ってほしい」
沈黙。五秒。十秒。
澪の目から、涙が一筋、落ちた。
「ばか……泣くとこじゃないのに……」
「え、大丈夫?」
「嬉しいから泣いてるの。……ばか」
笑った。氷の女王が——こんなに柔らかく笑えるのか。
「じゃあ、これから——よろしくね。悠人」
「……うん。よろしく、澪」
名前で呼んだ。現実で、初めて。
澪の頬が赤くなった。俺の顔もたぶん、同じくらい赤い。
「あの、手……」
「え?」
「握ったままでいい? ……もう少しだけ」
「……ばか」
でも、離さなかった。俺も、離さない。
仮想空間で始まった恋が——現実で、繋がった瞬間だった。
◇◇◇
【同時刻——屋上入口付近】
「あらまあ」
橘美月が、階段の影からこっそり覗いていた。
「冬月先輩、ついに……! やったー!」
小声でガッツポーズ。その後ろで、神崎蓮も腕を組んで笑っていた。
「良かったな、瀬川。お前には、ああいう真っ直ぐな子が合ってる」
「神崎先輩も見てたんですか!?」
「たまたまな」
二人は静かにその場を離れた。——幸せなカップルの邪魔をしないように。
◇◇◇
【同時刻——営業部フロア】
「ねえ、聞いた? 冬月さんがシステム開発部の瀬川って人と付き合い始めたって」
噂は、光の速さで広まった。
桐谷真白は、デスクでその噂を聞いていた。
「瀬川……って、あの地味な……」
冬月澪。氷の女王。社内一の美人。その彼女が——真白が『生理的に無理』と言って捨てた男と付き合っている。
「……はあ?」
理解できなかった。瀬川悠人。地味。目立たない。何の取り柄もない。あのアバターだから価値があったのであって、現実の彼には何もないはず。
なのに、冬月澪が。
「……もしかして」
真白の目が細くなった。瀬川悠人。セカンドスカイの配信者『ソラ』。登録者10万人超え。
——それを、冬月澪は知っているのか?
「だから……」
真白の口元が、歪んだ。
「ソラの彼女って箔がつくから、あの女も寄ってきたってこと? ふーん、そういうこと」
誤解。完全な誤解。でも真白には、それ以外の理由が思いつかなかった。地味な男を愛する理由など、この女にはわからなかった。
「……私も、やり直せるかも」
ぽつりと呟いた。ソラ。人気配信者。彼の現実が地味でも——影響力がある男。その価値に、今更ながら気づいた。
「瀬川くんに、もう一回アプローチしよ」
真白の目が、獲物を狙う猫のように光った。——物語は、新たな波乱に向かおうとしていた。
◇◇◇
【一週間後——クロスウェア社】
澪と付き合い始めて、一週間が経った。
「おはよう、悠人」
「おはよう、澪」
朝、廊下ですれ違う時に小声で挨拶を交わす。それだけで、一日頑張れる気がする。
社内恋愛は公表していない。でも、勘のいい人間には気づかれている。神崎先輩とか、美月さんとか。
「お前、最近ずっとニヤニヤしてるぞ」
神崎先輩にからかわれても、否定する気になれなかった。
仕事終わりに、セカンドスカイで会う。一緒にクエストを回る。何もせずに、ただ話すだけの日もある。
『今日、会社で目があったね』
『うん。……嬉しかった』
『私も。……ばか』
現実でも仮想空間でも、澪と一緒。こんな幸せがあっていいのかと思うくらい、満たされた日々だった。——でも。
◇◇◇
「瀬川くん、ちょっといい?」
昼休み。食堂で一人飯をしていると、桐谷真白が声をかけてきた。
(……また来たか)
この一週間、真白の接触が増えていた。廊下ですれ違う時に声をかけてくる。食堂で隣に座ろうとする。不自然なほどに。
「何か用ですか、桐谷さん」
なるべく平坦な声で応じる。
「えー、そんな冷たくしないでよ〜。元カノなんだから」
「元カノ、ね」
俺を公開処刑した元カノ。『生理的に無理』と言った元カノ。
「あの時は、ほんと言い過ぎたと思ってるの。ごめんね?」
上目遣い。真白の得意技。昔は、これにやられた。今は——何も感じない。
「謝罪は受け取りました。でも、それだけなら」
「待って、話聞いて」
真白が俺の腕を掴んだ。
「私ね、やっぱり瀬川くんのこと——」
「真白」
声が割り込んだ。振り向くと——澪が立っていた。無表情。でも、目だけが冷たく光っている。いつもの氷の女王モード。
「彼に、何か用?」
「え、別に——」
「彼は私の彼氏。用がないなら、離れて」
低い声。有無を言わせない迫力。真白が一瞬たじろいだ。でも、すぐに笑顔を作り直した。
「あら、冬月さん。噂は聞いてるよ。瀬川くんと付き合い始めたんだって?」
「そうだけど」
「ふーん。彼が——瀬川くんが、どんな人か知ってる?」
意味深な口調。
「知ってる。あなたより、ずっと」
「そうかな〜。私、三年間付き合ってたんだけど」
「三年間何も見てなかったから、晒し上げなんてできたんでしょ」
澪の言葉は、静かに——でも鋭く刺さった。真白の顔が引きつった。
「……何も知らないくせに」
「知ってる。全部。彼の配信も、彼の仕事ぶりも、彼の優しさも。——あなたが見落としたもの、私は二年間見てた」
「二年……?」
真白の目が見開かれた。
「あなたが彼と付き合ってる間、私はずっと彼を見てた。配信を見て、会社で見て。……彼の良さを、誰より知ってる」
「は、はあ? なに、ストーカー?」
「好きだったから見てた。それだけ」
澪が俺の手を取った。
「行こう、悠人。お昼、一緒に食べよ」
「……うん」
真白を残して、食堂を出る。背中に、真白の視線が突き刺さっていた。
◇◇◇
【同日・夕方——営業部フロア】
「……ムカつく」
真白は、デスクで歯噛みしていた。冬月澪。氷の女王。あの女に、負けた気がした。三年間付き合っていた瀬川悠人を、あっさり奪われた。
「なんであんな地味な男を……」
わからない。本当に、わからない。でも——悔しい。自分が捨てたものを、誰かが拾って大事にしている。それが許せなかった。
「……そうだ」
真白の目が光った。冬月澪は、瀬川悠人の『価値』を知っている。配信者としての価値を。でも、他の社員は知らない。
もし——瀬川悠人が『ソラ』だとバレたら。社内で噂になったら。『地味な男が、実は有名配信者だった』——そんな話題で持ちきりになったら。冬月澪は、どんな顔をするだろう。
「あの女、配信のこと知ってるって言ってた。……じゃあ、他の人にも教えてあげようかな」
にやり、と笑う。
「瀬川くんの『裏の顔』、みんなに知らせてあげる。そしたら——また戻ってくるかもね、私のところに」
歪んだ論理。でも、真白にはそれしか思いつかなかった。——計画は、着々と進み始めていた。
◇◇◇
【同時刻——セカンドスカイ】
『今日、ありがとう』
夜、ログインした俺は、澪——ルナに礼を言った。
『真白に絡まれて、助けてくれて』
『当然。……彼女なんだから』
『うん。……嬉しかった』
ルナのアバターが、ぴょこぴょこと跳ねた。照れている。
『でも、気をつけて。桐谷、諦めてない顔してた』
『……わかった』
『何かあったら、言って。私、あなたの味方だから』
その言葉が、胸に沁みた。味方。俺の味方。三年間付き合った真白は、一度も味方になってくれなかった。都合のいい時だけ隣にいて、現実を知ったら逃げた。澪は違う。俺の全部を知った上で、味方でいてくれる。
『……ありがとう、澪』
『ばか。礼なんていらない。……好きだから、当然のことしてるだけ』
また、その口癖。でも今は——最高の愛の言葉に聞こえた。
◇◇◇
【数日後——クロスウェア社・営業部】
「ねえ、聞いた? 瀬川って人、実はすごい配信者らしいよ」
噂が、少しずつ広まり始めていた。
「え、あの地味な人が?」
「そうそう、セカンドスカイってゲームで、登録者10万人超えてるとか」
「まじ? 信じられないんだけど」
真白は、満足そうに笑みを浮かべていた。計画通り。匿名で、少しずつ情報を流している。瀬川悠人=配信者ソラ。その事実を、社内に広める。
「冬月さん、あの情報知ってたんだって。だから付き合い始めたんじゃない?」
「えー、それってどうなの〜? 打算的じゃん」
噂は、真白の狙い通りにねじ曲がっていく。『冬月澪は、瀬川の配信者としての価値に惹かれた』——そんな話が広まれば、二人の関係は歪む。
「瀬川くん、可哀想〜。また利用されてるんじゃない?」
同情を装いながら、毒を撒く。真白の得意技だった。
◇◇◇
【同日——経理部フロア】
「冬月先輩、ちょっといいですか」
美月が、深刻な顔で澪に近づいてきた。
「何?」
「変な噂が流れてるんです。瀬川さんが配信者だって話と、先輩がそれ目当てで付き合い始めたって……」
澪の表情が固まった。
「……誰が流してる」
「わかんないですけど、営業部の方から広まってるみたいで……あ」
美月の顔色が変わった。何かを思い出したらしい。
「そういえば、桐谷さん……瀬川さんの元カノですよね? この前も瀬川さんに話しかけてたし……」
「桐谷……」
澪の目が細くなった。
「それと、えへへ、これ言っていいのかわかんないんですけど」
「言って」
「桐谷さん、前に二股してたって噂があって。冴島さんって営業のエースの人と、付き合いながら別の人ともって……」
「……冴島」
聞いたことがある名前。営業部のナルシストイケメン。女遊びが激しいことで有名。
「いつの話?」
「えーと、一年くらい前? ちょうど……」
——瀬川悠人と付き合っていた時期。
「そう」
澪は立ち上がった。
「どこ行くんですか、先輩!?」
「彼に、伝えることがある」
◇◇◇
【同日・夕方——システム開発部フロア】
「瀬川、ちょっと来い」
神崎先輩が、険しい顔で俺を呼び出した。
「何ですか、先輩」
「お前のこと、変な噂が流れてる。知ってるか?」
「……噂?」
「お前が配信者だってことと、冬月がそれ目当てで近づいたって話。営業部発信っぽい」
血の気が引いた。
「誰が……」
「見当はつくだろ。お前の元カノ」
桐谷真白。
「あいつ、諦めてないぞ。お前と冬月の仲を裂きたいんだろうな」
「そんな……」
「お前さ、あいつに何かされたこと、正確に覚えてるか?」
「……公開処刑、ですかね。それと、さっきみたいにしつこく絡んできて——」
「それだけじゃない」
神崎先輩の目が、鋭くなった。
「俺、あいつのこと前から怪しいと思っててな。調べたんだよ」
「調べた……?」
「桐谷真白、セカンドスカイのアカウント『シロ』。あいつがアカウント作ったの、いつか知ってるか?」
「……いつですか」
「三年前。——お前が、登録者1万人超えて話題になった直後だ」
心臓が止まりそうになった。
「つまり、あいつは最初から——」
「お前の配信者としての価値を知ってて近づいた。そういうことだ」
三年間の恋が、音を立てて崩れていく。最初から。全部。打算だった。
「そして今、お前が冬月と付き合い始めた。社内一の美人の彼氏になった。——あいつにとっては、『価値が上がった』んだろうな」
「だから、また……」
「そう。だから、また寄ってきた。そして、自分の思い通りにならないから、嫌がらせを始めた」
吐き気がした。三年間、騙されていた。一途に想っていたのは、俺だけだった。
「悠人」
声がした。振り向くと——澪が立っていた。
「聞いてた。……ごめん、盗み聞きみたいで」
「澪……」
「一つ、伝えることがある」
澪が近づいてきた。そして——
「桐谷真白は、あなたと付き合っている間、冴島隼人と二股をかけていた。美月から聞いた」
「……なに?」
「一年前。あなたが残業続きで、会えない日が続いた時期。その間、冴島と会っていたらしい」
世界が、ぐらりと傾いた。二股。三年間の恋。一途な想い。全部——
「……まじか」
声が掠れた。
「ごめんね、こんな形で知らせて。でも、知っておいた方がいいと思った」
澪の手が、俺の手を握った。
「あの女は、最初から最後まで、あなたを舐めてた。……でも、私は違う」
「……澪」
「私は、あなたを見てた。ずっと。本物の、あなたを」
その言葉に、救われた。崩れ落ちそうになる心を、澪が支えてくれている。
「……ありがとう」
「礼はいい。……これから、どうする?」
「どう、って」
「桐谷のこと。放っておく? それとも——」
澪の目が、静かに燃えていた。
「私、あの女が許せない。あなたを三年も騙して、傷つけて、今また嫌がらせしてる。……黙ってられない」
「澪……」
「でも、あなたが望まないなら、何もしない。決めるのは、あなた」
選択を委ねられた。俺は——
「……正直に言う」
「うん」
「怒りは、ある。三年間騙されてたって知って、ふざけんなとは思う」
「……」
「でも、復讐とか、そういうのは——」
言葉を選ぶ。
「俺がやりたいのは、真白を苦しめることじゃない。澪と一緒に、幸せになることだ」
澪の目が、潤んだ。
「だから——真白が何をしてきても、俺は澪の隣にいる。それだけを、証明し続けたい」
「……ばか」
澪が、俺の胸に顔を埋めた。
「そういうとこが、好き」
「俺も。澪が、好き」
二人で立ち向かう。何があっても。——そう決めた、瞬間だった。
◇◇◇
【一週間後——クロスウェア社・全体会議後】
会議室からの退出時。社員が一堂に会する、最も人が多いタイミング。そこで——事件は起きた。
「ねえ、みんな聞いて!」
桐谷真白が、大きな声を上げた。
「瀬川くんのこと、知ってる? システム部の地味な人。あの人ね、実は——」
スマホを掲げる。画面には、セカンドスカイの配信画面。『ソラ』のアバター。
「——有名配信者なの! 登録者10万人超え! ねえ、驚かない? あんな地味な人が!」
周囲がざわめく。
「え、まじ?」
「あの瀬川が?」
「信じられない」
俺は、その場に立ち尽くしていた。公開晒し。また。今度は、現実世界で。
「冬月さんも知ってたんだって。だから付き合い始めたんじゃない? ねえ、打算的じゃない?」
真白の声は、楽しそうだった。俺と澪を引き裂けると思っている声。
「瀬川くん、可哀想〜。また利用されちゃって——」
「黙って」
静かな声が、会議室に響いた。
冬月澪が、一歩前に出た。
「……冬月さん?」
「私から、言うことがある」
澪が、俺の隣に立った。そして——全社員の前で、俺の手を握った。
「え……澪?」
「黙って聞いてて」
小声で言って、澪は前を向いた。
「私は、瀬川悠人さんの彼女です」
ざわめきが広がる。
「二年前から、彼の配信を見ていました。彼の声に、言葉に、優しさに、惹かれました。一目惚れじゃない。二年かけて、好きになりました」
澪の声は、震えながらも——はっきりと響いた。
「彼が配信者だから好きになったんじゃない。彼の中身を見て、好きになったんです」
「そ、そんなの嘘——」
真白が口を挟もうとした。でも、澪は続けた。
「私は、彼の全てを知っています。配信の彼も。現実の彼も」
一拍、置いて。
「現実の彼の方が、ずっと素敵です」
会議室が、静まり返った。
「仕事ができる。後輩のミスを黙ってカバーする。手柄を横取りされても文句を言わない。誰にも気づかれないところで、ずっと頑張ってる。——それが、瀬川悠人という人です」
「そんな、地味なだけの——」
「地味? 目立たない? それがなに」
澪の目が、真白を射抜いた。
「あなたは三年間、彼の隣にいて、何を見ていたの。外見だけ? 配信者としての肩書きだけ?」
「そ、それは——」
「私は見てた。彼の本当の姿を。だから——好き」
澪が、俺の手を強く握った。
「配信者だから好きなんじゃない。瀬川悠人という人間が、好きなんです」
沈黙。周囲の社員たちが、じっと見ている。
「冬月さん……」
誰かが呟いた。
「本気、なんだな」
神崎先輩の声。
「ああいう告白、できる人じゃないだろ、普段は。……本気だから、言えるんだ」
「……そうだね」
「瀬川、良かったな」
「おめでとう」
社員たちが、一人、また一人と——祝福の言葉をかけ始めた。
「え、ちょ、待って——」
真白が焦り始める。
「あの二人、打算的で——」
「うるさいな」
声がした。振り向くと——冴島隼人が、にやにや笑いながら立っていた。
「冴島さん!?」
「よお、真白。久しぶり」
「なんで、ここに——」
「いや、面白いことになってるって聞いてさ。見に来たんだけど」
冴島が、真白に近づいた。
「お前、瀬川の元カノなんだって? 知らなかったな。俺と付き合ってる間、別の男もいたんだ」
「え……」
「二股かけられてた、ってことだろ? 俺も瀬川も」
会議室が、再びざわめいた。
「二股!?」
「桐谷さん、そうだったの!?」
「うわ、最低……」
真白の顔から、血の気が引いていく。
「ち、違う、これは——」
「違わないだろ。俺、お前と会ってた時期、覚えてるぜ? 瀬川が残業で会えないって愚痴ってた時だ」
「なんで、そんなこと——」
「お前が俺を振った時、ムカついたからな。いつか暴露してやろうと思ってたんだよ」
にやり、と笑う冴島。
「ちょうどいいタイミングだった。お前が他人を晒してる時に、お前の秘密を晒す。——最高じゃん」
「……っ」
真白の目に、涙が浮かんだ。
「違う、私は——」
「もういいよ、桐谷さん」
俺は、声を上げた。
「俺は、もう怒ってない。君がどう思ってたかは、もうどうでもいい」
「瀬川、くん……」
「俺には——澪がいる。それだけで、十分だ」
澪の手を握り直す。澪が、静かに微笑んだ。
「だから——もう、関わらないでくれ」
真白は、何も言えなかった。周囲の視線が、冷たく刺さっている。同情も、擁護も、ない。
自分がやろうとしたことが、自分に返ってきた。因果応報。それが——桐谷真白の結末だった。
◇◇◇
会議室を出た後、廊下で澪と二人きりになった。
「……ありがとう、澪」
「何が?」
「全社員の前で、あんなこと言ってくれて」
「当然のこと。好きな人を守るのは、当たり前」
無表情。でも、耳が赤い。
「恥ずかしかった?」
「……ばか。聞くな」
「ごめん」
「……少しだけ」
正直だ。
「でも、後悔はしてない」
澪が、俺を見上げた。
「あなたの良さ、みんなに知ってほしかった。——私だけが知ってるの、もったいないから」
「……澪」
「これからも、隣にいる。……いい?」
「当たり前だ」
俺は、澪を抱きしめた。廊下で。人目も気にせず。
「ばか……誰か見てる」
「いいだろ。俺たち、公認だし」
「……ばか」
でも、離れない。俺も、離さない。
二年間の片想いと、三年間の裏切り。全部を超えて——俺たちは、ここにいる。これが、俺たちの物語の——新しい始まり。
◇◇◇
【三ヶ月後——悠人の部屋】
「準備できた?」
「うん。……そっち、準備いい?」
並んで座ったパソコンデスク。二つのモニターに、セカンドスカイのログイン画面が映っている。
「じゃあ——一緒に」
「ログイン」
二人同時に、ボタンを押した。
◇◇◇
【セカンドスカイ——ロビー】
銀髪碧眼のアバター『ソラ』と、黒猫耳のアバター『ルナ』が、並んで立っていた。
『久しぶりだね、ここ』
『うん。……三ヶ月ぶり?』
あの事件の後、俺たちはしばらくセカンドスカイから離れていた。現実世界での関係を深めることに、集中していたから。仕事終わりにデートして。休日に出かけて。お互いの部屋を行き来して。普通のカップルが、普通にすること。
でも今日——久しぶりに、一緒にログインした。
『なんか、懐かしい』
『うん。……ここで、出会ったんだよね』
三ヶ月前。あの公開処刑の夜。『ルナ』が、俺に声をかけてくれた。
『……ばか。こんな時に一人になったら、絶対ろくなこと考えない』
あの言葉がなければ、俺は——
『ソラ? どうしたの?』
『ううん。……ただ、思い出してた』
『何を?』
『君が、俺を救ってくれた夜のこと』
ルナのアバターが、ぴょこぴょこと跳ねた。照れている。
『救ったって、大げさ』
『大げさじゃない。あの時、声をかけてくれなかったら——俺、配信やめてたかも』
『……そう』
『だから、ありがとう。澪』
『名前で呼ぶの、まだ慣れない』
『慣れて。——これから、ずっと呼ぶから』
沈黙。五秒。十秒。
『……ばか。そういうこと言うから、好きになるんだよ』
『俺も。澪が好きだ』
仮想空間でも。現実でも。どこにいても、彼女が好きだ。
『ねえ、ソラ』
『ん?』
『配信、また始める?』
『……考えてる。でも、前みたいに一人じゃなくて——』
『一緒に、やる?』
ルナが、こちらを見上げた。
『私も、出ていい? ……顔出しはしないけど、声だけ』
『いいの? 氷の女王が、配信デビューなんて』
『氷の女王は、あなたの前ではとっくに溶けてる。……ばか』
笑った。
『じゃあ——一緒にやろう。ソラとルナの配信』
『うん。……楽しみ』
二つのアバターが、手を繋いだ。仮想空間の夜空の下で。星が瞬く中で。
『ねえ、悠人』
『なに?』
『ログアウトしても——好きだよ』
その言葉に、胸が熱くなった。
『俺も。ログアウトしても——ログインしても——ずっと、好きだ』
アバターが、寄り添う。現実の部屋でも、俺たちは隣に座っている。
「……ばか」
澪の声が、イヤホン越しと、隣と、両方から聞こえた。
「同じこと言うなんて」
「言いたかったから。——本心だから」
振り向くと、澪が——泣いていた。
「え、どうした?」
「嬉しくて。……ばか、泣くとこじゃないのに」
三ヶ月前と同じ言葉。同じ涙。でも今は——幸せの涙だと、わかる。
「これからも、一緒にいような」
「当然。——あなたが、逃げない限り」
「逃げるわけない。俺の隣は、澪のものだから」
「……ばか」
三度目の、ばか。でもその声は、誰よりも幸せそうだった。
◇◇◇
【エピローグ】
桐谷真白は、あの事件の後、営業部から異動になった。二股の噂が社内に広まり、居場所がなくなったらしい。冴島隼人も、別の女性問題で退職した。因果応報。自分がやったことは、いつか自分に返ってくる。
神崎蓮は、相変わらず俺の応援団長だ。
「お前ら、お似合いだよ。末永く爆発しろ」
橘美月は、俺たちの関係を誰より喜んでくれた。
「冬月先輩、最近すっごく笑うようになりました。瀬川さんのおかげですね!」
そして俺たちは——毎日、隣にいる。仕事終わりに、一緒に帰る。休日は、一緒に過ごす。夜は、一緒にセカンドスカイにログインする。
仮想空間で出会って、現実で結ばれた恋。『ソラ』と『ルナ』。瀬川悠人と冬月澪。二つの名前、二つの世界、一つの愛。
「ログイン、する?」
「うん。——一緒に」
今日も俺たちは、並んでログインボタンを押す。
ログアウトしても、ログインしても——ずっと、好きだった。
これからも、ずっと——好きでいる。
【完】




