ep.9
うららかな朝の陽射し。柔らかくて、どこかくすぐったい。
微睡のなかで、まだ夢を見ているようだ。……氷の窓。
氷に反射した光が、白くぼんやりと部屋の壁に描いている。眩しさに瞼を細めながら、ミアはそっと目を開けた。この氷、溶けないのかしら?
窓の外では、物珍しそうに小鳥たちが、爪で氷をつつきながら、囀るように言葉を交わしている。その可愛らしい仕草に、自分の唇の端が緩んでいることに気づいた。意外だった。
ゆっくりと上体を起こし、毛布をたぐり寄せ、足元を見やった。昨日、魔法で包まれた脚は、今もなお、水膜のような光に優しく覆われていた。
夢じゃなかった。……本当に、今日も、来てくださるのだろうか。彼は言っていた。この魔法は、一日ほどしかもたないと。
そう思うと、胸の奥がざわめいた。どこか落ち着かない気分。そわそわする。この部屋では長らく味わうことのなかった感情。——自身の身なりが気になった。
枕元に視線を巡らせ、記憶を手繰った。たしか、棚の中に手鏡があったはずだ。
ミアは思い立ったように、ベッド脇の引き出しを開けた。しかし——そこは空。すぐにアロスが撤去したことを思い出す。
声を上げかけた、その時だった。
「姫様」
まるで見透かしていたかのように扉が小さな音を立てて開き、ヘッラが入ってきた。手には水差しを抱えている。
「おはようございます、姫様。今朝も良い天気ですね」
ミアは少し迷った末に声をかけた。
「……ヘッラ。鏡は、あるかしら?」
一瞬きょとんと目を見開いたものの、すぐにヘッラは気持ちを汲み取り、ふわりと笑みを浮かべた。
「ええ、少々お待ちくださいませ」
手のひらほどの小さな鏡だった。ヘッラが、柔らかな布で拭いてから、そっと差し出した鏡を、ミアは手に持った。恐る恐る顔を映す。息を呑みながら。——え⁈ 思っていたよりも——ずっとひどかった。
髪はほつれ、乱れて広がり、頬はこけて、肌には生気がない。目元には影が落ち、かつての自分の面影が遠い。
こんなの驚愕だ。昨日まであれほど無関心だったことが、今は見ずにはいられなかった。
自然と視線が自分の服へと落ちた。
淡い色だったはずのドレスは、すっかり色褪せていて、いつの間にか沈んだ影のような印象に変わっていた。指先が、無意識に膝の上で服のしわをなぞる。
小さく息を整え、ミアはぽつりと言った。
「ヘッラ……もっと、明るい服はないかしら?」
再びヘッラはきょとんとした。
屋敷中にバタバタと駆け回る足音が響き渡る。
廊下を歩いていたアロスが、ふと顔を上げ、不思議そうに目を細めた。
「……朝からずいぶんと騒がしいな。ヘッラ、何事だ? まさか、また姫様に何かあったのか?」
ヘッラは大きなリボンの箱を抱え、急ぎ足で戻ってきたところだった。あれもこれも持ってきてちょうだい、とミアに頼まれて。
「いえ、お祖父様。あの……姫様が、今日はおめかしをなさりたいと」
ヘッラにとって初めての経験だ。声は息が弾んではいるものの、目元は嬉しそうにほころんでいた。
「ほう……!」
アロスは肩をひとつ震わせ、目元を潤ませながら言う。
「そうか、あの……姫様が……」
その声は、少し震えていた。
リボンの箱を抱え直しながら、ヘッラは頬を紅潮させて笑った。
「お祖父様……あれが姫様の本来の姿なのですね!」
アロスはふと遠くを見るような目をして、懐かしむように首を振る。
「いや……まだまだ、この程度は序の口だよ」
口元には、小さな笑みが浮かんでいた。思い出すのは、幼い頃のおてんばで、自由奔放だったミアの姿だ。
扉の向こうからアロスの声が響いた。
「姫様、アワ様がお見えになりました」
ミアは軽く息を整え、ベッドの上から静かに応えた。
「……お通しして」
やがて扉が開き、アワとテテポが部屋の中に通された。
「………………」
目の前の光景に、ふたりで言葉を失った。
昨日はベッドの背にもたれ、足をすっと伸ばして座っていた。——だったのだが、昨日の様子とは打って変わって、別人だった。
着慣れた服に身を包み、物憂げに座っていた彼女が、今日は椅子に腰掛け、うっすりとした桃色を基調にしたドレスを、完璧に着こなしていた。繊細なレースと刺繍が光を受けて煌めき、髪は丁寧にまとめられ、胸元には小さな真珠のブローチが輝いている。
「お、おい……あいつ……どうしちまったんだ?」
テテポがぽそりと呟いた。
「このあと、舞踏会にでも行くつもりか⁈」
アワも思わず苦笑いを浮かべた。
「さ、さあ……」
部屋もまた、見違えるように彩られていた。
卓上には上品な刺繍のクロスが掛けられ、棚には小さな陶器と、薄紫のルフェリナの花房がそっと垂れている。朝の光を受け揺れるその影は、かつて陰りのあった空間を香りと共に安らぎ添えていた。
クッションや膝掛けも同じだった。それぞれ新調された細やかな気遣いが、隅々に息づいている。
ミアはそっと、柔らかな笑みを浮かべた。
「アワ様。今日もどうぞよろしくお願いいたします」
椅子を引き寄せ、アワはベッドの傍に腰を下ろした。ミアは背もたれに寄りかかったまま息を呑む。足元にはまだ、あの魔法の水が、淡い輝きを纏って揺れている。
「それでは、今日も始めますね」
ミアはわずかに目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
アワが右手を差し出すと、ぼんやりと魔法陣が浮かび上がる。青白い光が小さな波紋を描きながら、水の膜に触れる。
——ぬるりとした心地よい温かさが広がる。
昨日と同じ感覚。けれど、ミアはもうあの時のように怯えてはいなかった。
「……痛みはありませんか?」
問いかける声は変わらず穏やかで、ミアはそっと首を振った。
中性的な顔立ちに、長いまつ毛。それと黒色だと思っていた瞳の奥は、よく見るとほんのわずかに、琥珀かかっている。墨を薄めたような揺らぎ。その純粋でありながら、どこか影を秘めた瞳に息を呑む。
なぜか目が離せなかった。見入っている自分に気づいて、ミアは慌てて視線を逸らした。
「大丈夫です。ほんのり、温かいだけ」
アワは黙って頷き、さらに集中する。魔法陣がゆっくりと輝きを増し、足元の水がわずかに煌めきを増した。
部屋には静寂が流れる。氷越の窓から注がれる穏やかな光は、卓上の花を照らしていた。ルフェリナは少しだけ花びらを揺らし、ふたりを見守っている。
その様子にアロスは、そっと頭を垂れると、ひとつ深く息をつき、音も立てぬまま静かに部屋を後にした。
テテポもわざとらしく咳払いをすると「……おれも散歩してくるわ」と、ぱたぱたと尾を揺らしながら後に続いた。
扉が閉まると、アワはあらためてミアを見た。
「今日は顔色がいいようですね」
籠の中の鳥のようだった彼女とはまるで違った。瞳の奥にもほんのりとした色が差している。
「部屋も……随分、変わりましたね」
ミアは一瞬だけはにかむように笑った。内心で、きゃ、と照れ臭そうにして。
「ええ……少し、気持ちを変えたくて」
アワはふと音のする方へ目を向けた。窓の外、小鳥が細い爪で氷をこつんとつつき、羽をふくらませている。
「……あの、小鳥……よく来るんですね」
思ったよりも弱々しかった自分の声に、アワは咳払いした。
「それと……その……あの、窓のこと、すみません……あんなふうにしてしまって」
ミアは少し目を見開き、それから、ふっと笑った。
「……いいえ。むしろ……感謝しています」
氷の窓を見つめる瞳が、どこか光のなかで柔らかく溶けていく。
「あなたが来てくれなかったら、私は……」
そこで言葉を切り、視線を落としてからの、沈黙……
すると窓の向こうで、小鳥がまたこつんと氷を叩く。