ep.8
「……アワと申します。お初に、お目にかかります」
ようやく、かろうじてアワは言葉を探し、胸に手を当てた。
呼吸のように、ごく微かに向いた彼女の視線と合う。しかし、濁りのなかったはずの瞳は翳り沈んでいて、行き場を失った亡霊のように映った。
足を一歩踏み出そうとしたが、テテポの声で止まった。
何か気配を察知したテテポは、顔を窓の外に向け、おいっ、とアワに呼びかけた。
その後の、自身の行動は謎だった。
アワにも理解できなかった。
従者と侍女が静止を求める声も、もはや耳に届いていなかった。外の気配は言われて気づいた。それに、ここまでのことをするまでもない。
なのに気づけば、反射的に右手が動いていた。衝動のように。あるいは、もっと深いところの何かに突き動かされて。
魔法陣は、淡い光の帯を描きながら宙を奔る。そして迸る水の奔流が渦を巻き、弾丸となって真っ直ぐに闇を撃ち抜いた。
重く閉ざされた窓が、悲鳴のような音を立てて割れる。砕けた板は粉々になって舞い上がり、乾いた空気と共に、まばゆい光が部屋のなかへと差し込んだ。
静まり返った部屋を陽の光が満たし、粉々に弾けた水滴たちが、宙に浮かんでは、ひとつひとつ小さな粒のまま、きらきらと煌めいた。
アワは、次の光景に目を奪われる。
彼女の髪がなびいた。
窓から吹き込んだ風が、水の粒たちが、亜麻色の髪を輝かせる。
そして、ひと雫。彼女の頬に触れた。その瞬間——
彼女の目が、ほんの少しだけ揺れた。
ほんの少し、瞳の奥に見えた気がした。
それは、長い冬を越えた若葉に、春の雫がひとつ落ちたような。
氷の下で眠っていた水面に、初めて光が触れたような——そんな、ほのかな息吹だった。
絞り出したような声。
「……あの、」
声は、かすれていた。
「は、はじめまして……。ミア……」
それでも、確かに言葉だった。
「ミア・ヴェルディナと申します」
治療を終えたアワは、屋敷の外へと足を運んだ。
扉をくぐった瞬間、柔らかな日差しが頬を撫でた。眩しさに一瞬目を細める。空は高く澄みわたり、風は若葉の匂いを運んでいた。
そんな穏やかな世界の中で、アワはテテポに足を小突かれた。
「いて……」
「なにやっちゃってんだよ、おまえは? おれもびっくりしたじゃねーか。あんなの、いきなりぶっ放して王国を敵に回す気か?」
アワはしょんぼりと肩を落とし、子供のように言った。
「ごめん、テテポ……」
テテポが鼻を鳴らし、大きく息を吐いて空を仰ぐ。すると、慌ただしく開いた扉の音に反応した。
「ほら、来たぞっ。言わんこっちゃない」
「アワ様っ! お待ちくださいっ」
アロスが駆けてくる。その顔は焦りと不安に満ちていた。
「あ、あの……ほんとに申し訳ありませんでした。窓は早急に弁償させていただきます」
アワが慌てて頭を下げると「んな、お金ねーだろ」と、再び呆れたように、テテポはアワを見上げた。
「テテポ、うるさいぞ」
アワが小声で返すと、テテポは芝の上にぺたんと座り込んだ。そのアワの不自然な行動にアロスは、不思議そうな表情を浮かべてから、手を振った。
「窓のことは、お気になさらないでください。我々の方で対処させていただきます」
心底ほっとしたアワは、小さく息を吐いた。けれどアロスの表情は、ふと曇る。
「それよりも……ミア様の、足の具合は……」
まっすぐな視線が、アワを貫いた。
「治るのでしょうか……?」
その声には、飾りのない真剣さと、強い願いがあった。
アワは言葉を選びながら、率直に答えた。
「正直、わかりません」
アロスは静かに眉を伏せた。
「そう、ですか……」
「でも、何か方法はあるはずです。ぼくは……諦めません」
その言葉に、アロスは目を見開いた。青年の真意は読み解けなかった。ただ……。まっすぐな瞳。そこから伝わる信念は疑う余地はなかった。信頼に値する。
「……わかりました。どうか、ミア様を……よろしくお願いいたします」
深く頭を下げるアロスに、こくりとアワは頷き、用意された馬車へと乗り込んだ。
やがて扉が閉まり、車輪がゆっくりと動き出す。
「魔女の呪いなんて、どうにもなんねーって言ってんだろ?」
テテポは遠ざかっていく景色には目もくれずに言った。
アワはその窓の外を眺めていた。薄紅の花びらが、ひとひら、風に乗って舞っていくのが見えた。
「……わかってるよ」
その声は柔らかく、けれど、決意に満ちていた。
テテポは肩をすくめて、ため息をつく。
「あー、そーですか、そーですか。ほんと、お人好しだな、アワは」
「だから、ぼくについて来てくれてるんだろ?」
テテポはしばらく黙っていたが、やがて、わざとらしく言葉を落とした。照れ臭そうに。
「はああー……明日っから毎日、通うのかよぉ~」
「まあ、きっと何かわかることもあるさ」
テテポは諦めたのか、ちらっとアワを見やり、にやりと笑って言った。
「とりあえず、窓の外にいたやつでも探すか。死んでなきゃいいけどなっ」
ミアは、氷で塞がれた窓を眺めていた。アワが残していったものだ。
ヘッラはその様子に、微笑みを隠せない。
「よかったですね、姫様」
笑みを浮かべてそう言う彼女に、ミアは小さく頷いた。
光を取り込むためだけの、透明な氷。けれど、そこから冷気は感じられなかった。不思議と、空気は柔らかいままだった。
ここからは届かないが、ミアはベッドの上から手を伸ばしてみた。好奇心そのままに。冷たくないのは魔法の匙加減みたいなもの? それとも、あの方の意思なのだろうか。
魔法。
幻想だと思っていた未知の力。
それが現実になって、いま、この部屋中を明るく照らしている。光を目にするのは久しぶりだった。
足元では、水が守るようにしてミアの足を包んでいた。
触れようとしても、水面は薄い膜に覆われていて、その内側には届かない。ずっと蝕んでいた氷の冷たさはもうなかった。
ほんと不思議だ。
それよりも、ほんのりと温かいのだから。
まるで、誰かの手が、そっと添えられているようだった。
誰かが、自分を守ろうとしてくれている。
それが、嬉しかった。
何だか——
足だけ、ぷかぷかと、水に浮かんでいるみたいだ。