ep.7
「あちゃああ……」
と、呻き声を漏らし、テテポは顔を右手で覆った。
雪を踏み鳴らす人々のざわめきの向こうで、際立って喧しい女の姿を見つめながら、小さく首を振る。
「……やっちまってるな、こいつ」
テテポは記憶を見ていた。断片的だが、鮮明に映像が流れ込んできた。
ジナイーダは霜狼に狙いを定め、銃を構えていた。
身のこなしは王族に相応しく優雅だった。しかし、突如、目の前をかすめた小さな虫に驚いて、反射的に体を仰け反らせた彼女の手元は狂い、隣で指南していた伯爵の足を撃ち抜いたのだ。
まずは、悲鳴だった。
ジナイーダと伯爵。それと驚いた周囲の者たちの。そして混乱に飲み込まれ、気が動転した彼女は、我を忘れたように、さらに一発、二発と、無意識に引き金を引き、たちまちその場を狂乱の渦に呑み込むのである。
結果、男の足には三つ、銃創のような痛々しい痕が残ることに。
「なにか見えたのか?」
アワは尋ねた。
「それより、おれは下世話なことはしない、とかなんとか昨日、言ってなかったか?」
「なっ! 何、言っちゃってんだよ⁈」
言葉を詰まらせたテテポは「おまえ……ひょっとして根に持つタイプか?」と言い、涼しい顔をわざとらしく見せてから答えた。
「聞いて驚くなよ? このバカはとんでもねぇぞ……」
赤い血が、雪にしみを広げていた。伯爵の荒い息が、その痛々しさを物語る。
膝をついたアワは、静かに片手をかざした。
指先から広がった淡い光は、空中で魔法陣を描き、紋様が完成すると、澄んだ水が湧き出した。そして小川のように静かに伯爵の足元へ流れ、水の膜が、血に染まった足をすっぽりと包みこむ。
その内側で光が揺れ、傷口はゆっくりと閉じていった。
水面の光がまたたくたびに、痛みが薄れてゆく光景に、伯爵は目を見開いていた。これは、夢か幻か。
治癒が終わり、驚きの声と歓声が上がると、アワは何も言わず、その場を立ち去った。
「あんなやつ、放っとけばいいのに。王族とは関わりたくないって、前に言ってたよな?」
背後で聞こえたテテポの声に、アワも思うこともあった。
相手を思いやる素振りなど微塵も感じさせなかったジナイーダの態度。あるのは、ただひたすら自らの失態が晒されることへの苛立ちと恐れだけだった。
その時、すれ違い様に声がかかった。
整った顔立ちだ。銀の刺繍が施された毛皮に身を包んでいた。
「あ、申し訳ない。どこかでお見かけしたような……」
青年の視線には、何かを思い出そうとする色があった。
しかし、振り返りはしたものの、「申し訳ありません。何かの人違いかと。失礼いたします」と、深く一礼し、アワは背を向けた。
自分にしばらく視線が注がれていたことは気づいていた。青年の正体は、周囲から押し寄せた騒めきの声からわかった。
その名は、アナトリー・マーフォリア。
ジナイーダの兄である。
その後、再び予期せぬ人物に声をかけられた。
市場に戻り、次の旅路の準備を終えてから、村を出ようとした直後、声がした。
「ま、魔術師様っ……。お、お待ちになって!」
視線を向けると、見覚えのある艶やかな髪を揺らしながら駆けてくる。
必死だったのか、息さえ切らしているが、血色の戻った顔には、王族らしい気品が漂っていた。
「先ほどは、本当にありがとうございましたわ」
ジナイーダは、ドレスの裾を引きずって、乱れた呼吸を整えている。そして、正しい口調を心掛けるようにして頭を下げた。
「お、お願いがありますの……」
村の喧騒の傍らで、アワはどこか懐かしさを感じていた。幼い頃の面影を残すジナイーダを見つめながら。
かつて王族たちと一度だけ、会ったことがあった。
「会ってほしい方が、いらっしゃいますの」
声は震えていた。恐れや誇りを剥がした、素の響きだった。
そのあとに続いた言葉が、アワの胸に眠っていた記憶を、ゆっくりと浮かび上がらせた。久しぶりに、その名を聞いた。
頭の片隅の奥にいる、少女を——彼女の声が胸の奥で響いている。
面影のなかで手を伸ばす。かつて出会った——残像を重ねるように。
そう遠くない日にやってきた。彼女と会う日は。
目に映る姿は、予想していたものとは、全く別のものだったが。
キーキ村を発ち、蒸気機関車に乗った。小さな村々と、谷を抜けてゆく車窓の景色を眺めながら、アルベルサ領の北端から南部へと移動した。
南部の駅からは馬車に乗り換え、ヴェルディナ王国の境界を越えた。さらに別の機関車に揺られ、最南端に位置する街へと向かった。
「ここは、キーキ村よりひでーな」
ララポルトは港を持たない街だが、人通りは多く活気がある。
しかし、家々の壁は崩れかけていて、石畳の隙間には草が伸びていた。子どもたちの服には、幾度もの補修の跡——それらの様子から、貧しさが賑わいの下から伝わってきた。
アワはテテポに目を落とした。
「ヴェルディナの王妃が亡くなる前までは、もっと豊かな街だったんだけどな」
スラティハール家。かつて伯爵令嬢が国王に嫁いでいた頃、ここはまだ庇護のもとにあった。だが彼女の死後、支援は絶え、街も静かに傾いていった。
外れの道を抜けると、豊かな森に囲まれたところに、それはあった。スラティハール家の屋敷だ。
石造りの門と苔むした柵。くすんだ木の扉と蔦の絡まる壁。古ぼけてはいたが、その佇まいは確かに『貴族』のものであり、ひっそりと品位を保っていた。
馬車を降りると、門の前には老年の男が立っていた。
整えられた白髪と、深い皺が歳月を物語っていた。そこに立つ姿にはかつて剣士だった者の気配が残る。
王国の姫の従者、アロスだと言う。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
通された部屋は、想像していた光景と、あまりにかけ離れていた。
窓は打ち板で塞がれ、陽は届かない。空気は湿りきっていて、どこか土に還りかけた地底の空洞を思わせる、そんな部屋だった。手前、薄闇のなかで、会釈を交わした小柄な娘は侍女だろうか。
その奥に、彼女はいた。
ベッドの背にもたれるようにして座っていた。
アワは自分の目を疑った。……あれは誰だ? ぼくは悪夢を見ているのか。
ざわりと寒気が、アワの胸に這いつくばった。あれが、あの時の少女。
かつて彼女と話したのは、春の陽だまりの中だった。
頬に風を受けながら、楽しそうに笑い、何でもない言葉をぽんぽん投げてきた。
その姿そのものが、陽だまりのように思えた。
まっすぐで、温かくて、少し無防備で……それでいて、誰かを照らすことにためらいのない、そんな光だった。——それが、今。
目の前の彼女は、まるで別人だ。
鳥籠だ、と思った。
籠のなかに閉じ込められ、鳴くことも忘れた鳥。呼吸だけを繰り返すような、命の抜け殻。
アワには、彼女の揺れ動く感情が痛いほど伝わってきた。拒否したい。けれど、返ってきたのは、『死』だった。
諦め。絶望。後悔。許し。
アワは思わず目を逸らした。布をかけられた足元からは、確かに魔女の気配が滲んでいた。話には聞いていた。
伝わってくる冷たさ。それは呪いじゃない。——罰だ。
過ちの代償。誰にも言えぬ罪。それを自分で断ち切れずにいる。
彼女自身が、鎖の鍵を握ったまま閉じ込められているのだ。
「おい、どーなってんだっ? アイツ、とんでもねー陰湿なオーラ放ってんぞ⁈」
テテポの声は、耳には届いていたが、アワは言葉を呑む。
傍にいた侍女が小さく眉をひそめ、室内を振り返ったが、それはテテポの声に反応したわけではなかった。
そう、テテポの声も姿も——この場にいる誰にも、聞こえていない。見えてもいない。
テテポの存在を認識できるのは、アワただひとりだけだった。