ep.62
目の前には、淡く光る木があった。
深い森の奥にひっそりと。
「ここは?」
ミアの視線の先に立つ一本の大樹。
辺りに茂る大きな木々の隙間から届く陽の光はわずかだった。昼間なのに薄暗く、星明かりのような青白い明かりが広がっていた。
「きれい……」
息をするように言葉が出た。
枝の先に咲くのは、淡く光る白い花。風に揺れるたびに、花弁が柔らかに舞い、それはまるで、空から降る雪のように足元を化粧した。
「以前、話をした場所です。ミア様がルフェルナの花を見せてくれた時に」
ミアは「ああ」と、ひとつ記憶の糸を手繰るように頷いた。
「名は、淡雪です」
これがアワの好きな花。母親が好きだったと言っていた。
何となく、その残り香がこの場所に残っている、そんな気がした。
ふたりは手を繋いだまま、そっと木の下に座った。
頭上からひらひらと花弁が落ちてくる。
花の香り。葉擦れの音。そして、光の粒たちが舞っていた。
小さな羽音。やがて、ひとつ、またひとつ、木の根元へと光を放つ虫が集まってきた。
「……ヒサラです」
アワの声が耳を喜ばせた。
「この花の光に誘われて、やって来きます」
ヒサラの腹が淡く黄色に光っている。
「アワが言っていた通りね」
目の前を、その虫が横切ると、光の粒が残像のように残った。
「たくさん集まると、星が咲いたみたいに見えるわ」
アワの指先が少しだけ震えていた。側で触れていると、彼の心音が伝わってきた。
アワは見上げている。降り積もる花弁を、ただじっと。そこに、誰かの面影を重ねるように。
ミアは気づいてしまう。
彼が今、見ているのは——亡き母だった。
淡雪の下に舞う光の粒。そのひとつひとつが、過去の時間を照らし出す。
アワの記憶が、静かに解ける。
母、レイナは——
氷の魔女の呪いにかかっていた。
それは自身がいち早く気づいていた。彼女は水の魔力を宿した水の巫女だった。
エリディオの王家には、魔女の呪いのことは古くより密かに語り継がれていた。それ故にレイナは王宮を去った。深い森の奥でひっそりと余生を送ることを選んだ。
それを、まだ幼かったふたりの息子は、遠くから見送るしかなかった。
王の命だった。会うことは禁ずる。
それでも——ベルナールは、何度もこっそり会いに行った。兄のベクトールは陰ながら知っていたのだが。
花の話をした。夜空の話もした。
ふたりきりで交わした言葉は、数え切れなかった。
呪いは氷が崩れ、その粒子によって伝染する。レイナは、それを誰よりも知っていた。
だが——
その日は、訪れた。
自ら動けなくなったレイナを、ベルナールは腕に抱えて連れてきた。
花弁が降り積もる、この淡雪の下へ。
レイナは、穏やかに笑っていた。
そして、最後にこう言った。
「……もう、いいのよ。行きなさい、ベルナール。遠くへ。もう、時間がないのよ」
けれど、彼は首を横に振った。
何度も、何度も。
「……嫌だ」
レイナの顔が強張って、目に涙を溜めた。
「お願い、行って。……死んでしまうのよ、あなたまで……!」
ベルナールも泣いていた。
瞼も頬も濡らしながら、それでも、動かなかった。
「……行かない。ぼくは、行かない」
声が震えていた。
肩を抱きしめるその手が、細かく揺れていた。
「どうして……どうしてなの……」
レイナは震える声で呟いた。そして、最後に目を閉じて、声にした。
「ごめんなさい。……こんな母で」
ベルナールは、声を上げて泣いた。嗚咽しながら泣きじゃくった。
「でも……ありがとう」
レイナの唇が、そうわずかに動いた。
懸命に伸ばしたその手は、彼の頬に触れることなく——氷は、崩れ落ちた。
「ほら! 湿っぽいのは、やめましょう」
アワの声が風のように耳に届いた。
伸ばされた指がミアの頬を撫でる。伝っていた涙の筋を、優しくなぞるように拭った。
「きっと、母もそれを望んでいません」
その時、ちょっとだけ笑った。
あの、変わらぬ笑顔で。
それでも、ミアは言葉を呑んだ。何も言えなかった。ただ、胸が詰まる。
「ぼくは……あなたのおかげで、今こうして生きてます」
アワは、自分の胸に手を当てた。
そう——母親の氷の粒子を吸ったアワは、呪われていたのだ。その心臓を。
しかも、魔女と対峙しながら自らの命がもう短いことを悟っていた。
ミアはそのことが悲しかった。
もし、それをもっと早く知っていれば、もう少しばかりは、まともな言葉をかけることができたかもしれない。
アワには支えられてばかりだった。
そんな嘆いてばかりの様子を見かねたのか、ミアの隣にふわりと影が落ちた。
「……ベル?」
ベルは静かに歩み寄り、ミアの横に座る。手に触れた鼻を、ミアはそっと撫でた。
「ありがとう、ベル」
その姿に、アワは目を丸くした。
「えっ……ペガサスを手懐けたんですか?」
ミアはふふんと鼻を鳴らす。
「そうよ? すごいでしょ?」
どや顔だった。誇らしげなその表情に、アワは息をこぼす。
ミアは、ふと頭上を仰いだ。降り注ぐような光と、枝先の花弁を見つめながら、ぽつりと呟く。
「あなたの名前って、この木から取ったのね?」
「ええ。……他国を旅していた時に、名前を聞かれて、咄嗟にそう名乗ってました」
ふっと笑う、その声音が、昔話のようだった。
ミアも笑った。
「一緒ね」
「……一緒?」
アワが首を傾げた。
ベルに触れながら、ミアは顔を輝かせた。
「この子の名前。アワからとったの。ベルナールっ。ほら、雰囲気が似てるでしょ?」
そう言われて、アワは目をぱちくりとさせた。
「……ぼく、そんなに馬面ですかね?」
ミアは吹き出した。
「そんなこと、知らないわよっ!」
ふたりの笑い声が、木漏れ日のように、森の奥にこだました。
アワが、空気を変えた。
ひと息ついて、目の前を見据えながら言った。
「……さて。その力、どうするつもりなんです?」
訊きながらも、アワにはその答えはわかっていた。彼女ももう、答えは出ている。
ミアは自分の手を見つめ「はあ」と、わざとらしくため息をした。
「ほんと、困ったものよねえ?」
と言って、左手には水の魔法と、右手には火の魔法を、ぽわんと見せつけるようにして浮かべ笑いを誘う。
「この力、どうしましょう?」
肩をすくめ、冗談めかして笑うミアを、アワは愛おしく眺めていた。
ふたりはもう知っていた。
この不思議な力の根源を。
——ふたりの出会いは、原初の恋のようなもの。
それは、遠い昔の滅びた記憶。
年表も暦もない、想像すらできないほどの、遥か昔……この大陸がまだ海に沈んでいた頃のこと。
ミアが両手に出していた魔法を解き、視線を落としてから、ふっと息を吐いた。
「そういえば、この時の私はなかったわね……」
その時代、ミアには足がなかった。
彼女の姿は波間を泳ぐ魚。ヒレを優雅にたなびかせ、見たことないような美しい星空を見上げていた。
色とりどりの海のなかには、桃色のイルカもいた。
きらきらと輝く珊瑚礁とクリスタル。それは宝石が散りばめられたような世界。
そのなかに人魚のミアはいた。
そして、森で暮らす、青年アワに恋をした。
……だが、神はそれを許さなかった。
人々が水と火の力を正しく使えぬなら、罰が与えられると。
裁きは下された。
大地は割れ、天は落ち、海は怒り、全てを呑み込んだ。
ふたりは引き裂かれた。
それでも別れ際、アワは言った。
『ぼくたちはまた、必ず戻ってこれる』
『私のことを絶対に忘れないでね』
『ああ……絶対に、忘れないよ』
その記憶を胸にミアは立ち上がった。
アワもまた、ゆっくりと立ち上がる。
「……決まってるわ」
ミアの声が、森に響く。
「もう、私たちにこの力は必要ないわ」
そう言って、彼女は空を見上げた。
水と火。元々ひとつだったふたつの力を空に返す。それが、私たちの目的。二度と同じ過ちを繰り返さないために。
アワの表情が少しだけ陰っていた。遠くを見つめ声にした。
「……テテポ。そこにいるんだろ?」
誰にともなく、空気に向かって。
返事は、ない。今のアワには精霊の姿も、声も届かなかった。
けれど、そこには確かにいた。
「けっ……辛気くせぇ顔してんじゃねぇよ」
木陰のなかで、不貞腐れるように腰を下ろすテテポがいた。
ミアはテテポの言葉を、あえてアワに伝えなかった。
そんなことをしなくても、ふたりは通じ合えている、そんな気がしたから。
アワは、そっと目を閉じる。静けさが胸の奥に広がった。
「……テテポ。今まで、ありがとう」
氷になった母が散り、心臓が止まりかけたあの瞬間。
この場所で、テテポと出会った。
『おい、小僧。……しけたツラしてんな?』
軽い調子だった。死ぬ間際なのに、冗談みたいに。
『おれがもう少しだけ……生きながらえさせてやる』
それは、ふざけたように聞こえた。
でも、アワはわかっていた。あの言葉が、どれだけ真剣だったか。
言葉にならなかった。
昨日のことのように浮かぶ、あの時の光景。ただ、涙が落ちて、頬を濡らしていった。
「……またな、テテポ」
テテポは、ぷいと背を向けた。
「……けっ、しょーもねーやつ」
その背中に、ドラココが容赦なく手を振り下ろす。
「なに泣いてんのよ、あんたっ!」
「泣いてねぇし! ……風が、ちょっと目に入っただけだっつーの!」
ミアは笑った。けれど、同じように、少しだけ、目元を拭っていた。
そして、再び手に力を宿らせる。
左に水。右に火。
手のひらを重ねると、それらは溶け合い、白く眩い光となった。
光は空へと昇っていく。
ふたりの精霊を伴いながら。
高く、高く。
そして、静かに。
星々を指先でなぞるように、世界の始まりに還っていった。
ふたりは、ゆっくりと歩き出した。
「ねえ、ひとつ訊いてもいい?」
「何ですか?」
「あの湖で踊った夜……奇跡を三回見せてくれるって言ってたでしょ? もしかして、今のが、そのひとつだった?」
「はい」アワはミアの顔を覗き込む。
「あの日は姫が眠ってしまったので来れませんでしたからね?」
「あっ……ごめんなさい」
アワは微笑んだ。
しばらく森を抜ける風に身を委ね、ミアが口を開く。
「……なんだか、毒を吐いてくる輩がいないと、ちょっと寂しいわね」
アワは笑った。
「ですね」
と感慨深く。
「……これから、どうするんです?」
アルベルサ王のことだ。ヴェルディナ王は幽閉されている。
「死罪ですか?」
ミアは少し黙り込んでから「あの猛獣は、しばらく氷のままにしておいてって、ドラココに頼んでおいたから平気よ」と微笑み返した。
「ぬかりないですね」
「氷が解けたら花屋にでも働かせれば、いいんじゃないかしら?」
「鬼! ……それはもう、彼にとって地獄ですね」
「あと、王国はアナトリーたちに任せるわ。あのふたりなら、きっと大丈夫。アワのお兄様もいる」
「……それは、まさか?」
ミアはきっぱりと言った。
「王女は、やめるわ。あなたが言ってたじゃない。いくつもの名前があったっていいって」
「……で、でも。本当にやめるんですか?」
「ええ。名前も、役目も、全部よ」
「……なら」
アワは歩きながら笑みを噛み締めていた。
「ぼくも。アワのままでいましょうか」
ふたりは顔を見合わせて、ふっと笑った。
やがて、木々の隙間から、柔らかな陽だまりが覗いてきた。
「行きましょう」
手を握った声は明るい。
「うん」
迷いはない。
ふたりはあてもなく、エレナの森をを歩いていく。




