ep.59
戦う意欲満々のアナシャは、今まさに魔法を放とうと手を構えていた。
「まだ、やる気なの?」
それに対したミアの気持ちは乗り気ではなかった。明確な理由もあった。
「黙れ! お前のその忌々しい魔力。その立ち振る舞い全てが気に入らん。それにこの場所なら、この姿で存分に戦えるからな」
未だかつてない魔力が肌に触れ、急激に冷え込んだ空気は、吹雪のように渦を巻いた。アナシャを中心に、氷の嵐が立ち上る。
そして——
上空には、数えきれないほどの氷の剣が出現した。青白い光を帯びたそれらは、一斉にミアめがけて天から降り注いだ。
だが、その刃は——ミアが創った水の盾に呑まれ、ことごとく掻き消される。
信じがたい光景にアナシャの目が見開いた。水で刃を防ぐなど、あり得なかった。
ミアは静かに言う。
「さっきから気づいてるでしょ? 何だか私。あなたの力、超えちゃったみたい」
それと、あえて水を使う理由はもうひとつあった。
「黙らんか! うるさいわ!」
アナシャの攻撃は、またもミアの魔法の元に沈む。
「何度やっても同じよ」
これは意地だ。小さな反抗。水は、ミアの想うアワそのもの。澄み切った瞳に、とうとうと流れる意思。
巻き起こる水流が、次々と襲い来る氷の刃を打ち払う。
その直後、ミアの魔法に生じた異変にテテポが気づき、思わず声を上げた。
「おい! ミア! それって……!」
驚くのも無理はなかった。水の盾は水流を強化した圧力によって攻撃を無効化していた。しかし、今やその水は氷の剣を触れた端から、わずかながら溶かし始めている。
当然アナシャも見逃さない。だがその現象は、空から巨大な氷塊を落下させたことで、より白日の下に晒された。
猛烈な蒸気と煮えたぎるような凄まじい音だった。
氷塊は、水の盾に触れると、ものの見事に湯気を立てながら急速に溶け込んだ。氷を取り込んだ水は、さらに勢いを増していく。
アナシャの息遣いが聞こえる。そこにある、何か、心の揺らぎ。
ミアはその奥にある感情の影を見ていた。
怒りのなかに埋もれた、後悔。いや、迷いのようなものを。それは追い込まれたことにより一層大きくなる。
魔女はただその場に立ち尽くしていた。
「そんな目で、わらわを見るなと言っておるだろ!」
叩きつけるような声は、どこか空虚だ。
強がるように肩肘を張っているが、表情には焦りが見える。氷の瞳をゆらりとさせている。
すると、その瞳のなかに映る記憶。「アナシャ……あなた……その姿は、もしかして……」ミアの目にそれが過去の光景として映し出されていた。
静寂な森の奥。
アナシャは自身が作った薬草を売ることでひっそりと生計を立てていた。木漏れ日が優しく降り注ぐ、小さな幸福に満ちた日々。
「——わらわの記憶に干渉するでないわ!」
放たれる氷の槍の一投一投に、彼女の過去の想いと面影が、突き刺さるように伝わってくる。
——平穏な暮らしのなかで、ある日、ひとりの青年と出会った。
名は——ディルガ。
隣国の王子でありながら、自然を愛し、森に魅せられた男だった。
「——ふざけるでない!」
また氷の槍が放たれてきた。それを防ぐたびに蒸気が白く舞い、視界がぼやけた。
そして水の魔法に溶けていくアナシャの迸る想い。
——すぐに心を通わせたふたりだった。
けれど、その日々は長くは続かなかった。
彼女の不思議な力が、王の耳に入ったのだ。
「やめろ! やめろと言っておるだろ!」
力なき魔法は、またも水蒸気となって空に消えた。
——魔女。
そう呼ばれたアナシャは、人々から忌まわしき異端として糾弾され、侮辱され、恥をかかされ、人としての尊厳を傷つけられた。
ディルガは政略結婚をしていた。
裏切られた。いや、奪われた。王国の姫が王に告げ口したのだ。嫉妬したこの女が、魔女として吊し上げた。
追われた死の淵で、気がつけばアナシャの周りにあったものは全て凍てついていた。
そうして彼女は、悪魔に魂を売り渡したのだ。
ミアは思わず目を瞑る。
誰しもが持ちうる残酷性。その幼稚で、非道な行いに、ほとほと嫌気がさした。心が裂かれる思いで、過去から目を逸らした。
でも、その降り積もった影の奥の方に、何かぼんやりとした引っかかりのようなものも見えた。
そこにある違和感。それは自身すら知らない過去……
「アナシャ……あなた。ひょっとして、勘違いしてるんじゃない?」
アナシャの動きが止まった。あどけない少女の姿のまま、きっと真っ直ぐ睨みつけてくる。
「お前に何がわかる! 知った風なことを言うのも、大概にせよ!」
棘まみれの口調に隠れた、苛立ち。
少女は血相を変え、そのまま勢いよく空へと浮かび上がった。掲げた手に練り込まれた悍ましいほどの魔力。張り詰めた空気が振動を始めたかと思うと、辺りは、ふっと急に薄暗くなった。
上から落ちてくる幾つもの水。雨粒のように静かなものではない。
その異変に気づいたテテポは呆然と空を仰いでいた。
周囲を覆う泡は裂け、大量の雨水が湖へと落ちた。叩きつけられた水は跳ね、湖の面が一気に波を立てた。
見上げた空が、無数の巨大な氷塊で埋まっていた。
……あれが落ちてくるの? 息を呑んだ瞬間に上がるミアの声。
「テテポ!」
急いで駆け寄ったテテポはミアの脚にしがみ付く。
アナシャの心の奥で、ふつりふつりと主張し始める秘めた想い。ドンと背中を押すようにミアの脳裏にディルガの面影が飛び込んでくる。
その過剰なまでの魔力を詰め込んだ小さな体は、凍てついた空から破滅を振り下ろそうとしている。
「アナシャ! ……何に怯えているの⁈」
けれど、もう彼女の心には何も届かない。
「……もう、うんざりじゃ。今この場で散るがいい……」
巨大な氷塊は空気を響かせて落下した。煌々と、天から降り注ぐ光と影が交わる氷に、この世の終わりを見た。
ミアも両腕を広げ、無数の魔法陣を展開させた。水の盾がいくつも重なり合い、迫り来る終末の雨に対抗した。
ひとつ、またひとつ。次々の氷の巨塊に湖は叩きつけられた。水面がうねりを帯び、波が高く跳ね上がる。
地が揺れ、鳴り止むことのない轟音が、鼓膜を揺さぶる。空も大地も、全てが悲鳴を上げていた。
跳ねた水飛沫が全身を濡らし、ミアも魔法を放ちながら宙へと浮かび上がった。
息を呑む隙すらない。ほんの一瞬でも気を緩めれば、命が途絶える。
反撃など考える余地もなかった。押し寄せる圧に、ただ耐えるしかなかった。
続くあまりに凄まじい騒音によって、次第に聴覚は麻痺し、遠のいた。
聞こえるのは、自分の鼓動だけ。それすらも、今はもう、微かだった。
どうする……?
問いかける間にも、終焉は迫る。それでも——
湯気と水蒸気で遮られた視界の端に、一瞬見えた少女の顔。その怯えだけは確かだった。
死が迫る極限で、それでもミアは思った。この子を、どうにかしてあげたいと。
だが、もう限界だった。
天はまだ巨大な氷塊を抱えていた。湖諸共、全てを消し去るつもりだ。




