ep.6
中は狭く、静かだった。
湿った木の匂いと、炉にこびりついた灰の香りが鼻をくすぐる。石造りの小さな炉が壁際に寄せられ、干し草を押し固めただけの寝床は、潰れたまま干からびて、主の不在を物語っていた。
「あの氷……あとどれくらいで、アルベルサ領まで届きそうなんだ?」
「さ、さあな」
どうやらこの話題には、あまり触れられたくない様子だった。動揺を隠せていない。不自然に動くテテポの耳から、それは容易に見て取れた。
「わ、わかんねーけど……あの調子なら、一年もすりゃキーキの村まで来ちまうかもな」
「そんなに早いのか?」
一方で、アワの声は低く、心の底にじわりと広がる不安を押し隠していた。
「魔女の呪いをなめんなよ?」
テテポは尾をふわりと動かして、丸まるように床に座り込む。
「氷の粒子を吸った連中は、徐々に身体の内側から冷え始める。だけど怖いのは、そっからだ。目に見える症状が出てきた瞬間。不安と恐怖に駆られて、人間のバカ共は一斉に逃げ出す。それが都心部に流れ……あとは、凍った森で見てきたとおりだ」
妙な真実味があった。あたかも、実際にその目で見てきたような口ぶりだ。
アワは、黙ってテテポを見つめた。
「……人が全身氷になるまでの期間は、どのくらいなんだ?」
「さあな。人それぞれだろ」
「最初は人間からなんだったよな?」
「呪いは人間の欲望に纏わりつく。強欲なバカは、あっというまだろうよ。散りばり始めたら最後。粒子は人に限らず全てを侵食し始める」
炎がぱちりと弾け、薪の焦げる匂いが立ち昇る。
沈黙の後にアワが口を開く。
「どうしようもないんだよな?」
しばらく黙っていたテテポは、視線を逸らして呟いた。
「……し、知らねーよ」
小さく吐いたアワの息が炎に消え煙となる。
「たく。そんなに氷の魔女が怖いのか? 森の氷から何かわからなかったのか?」
テテポは不機嫌そうに「……あーもう」と顔をしかめてから、睨むように見上げた。
「おい。今、おれの記憶、勝手に覗き見たんじゃねーだろーな?」
「ぼくは、テテポと違って自分の意思で記憶は見られないの知ってるだろ?」
テテポいわく、水は記憶媒介だという。人の中を巡る水を通じて、熟練の魔術師は記憶に触れることができるのだ。
アワにはまだそれが思うようにはできない。だが、微かな波のように揺れる人の感情を、読み解くことは可能だった。
「あの森で、テテポの動揺は……おもいっきり感じ取れたけど。よっぽど怖かったんだな?」
テテポの様子があきらかにおかしい。
「テテポは、凍った氷から何か見たんじゃないのか?」
「ば、バカいうなっての。おれは、そんな下世話なこと、しねーよ」
「ほんとに?」
焚き火越しに目を細めると、テテポは少しだけ身を引いた。
「ほ、ほんとにきまってんだろ。まったく……」
そう言うと、テテポはそのままごろりと転がって、干し草の寝床に背を預けてしまった。
アワは火に手をかざしたまま、しばらく言葉を飲み込んでいた。テテポのやつ、何か隠してるな。
テテポの言ったことは本当だった。
氷の森で記憶を探ろうとしなかった。いや、テテポには、それができなかったのだ。恐怖で。
夜明けとともにキーキ村を目指したふたりは、到着するなりある商人を探す。
市場はちょうど立ち始めたところだった。霜の残る石畳には、わずかに雪が縁取りを描き、屋根には白い静けさが積もっていた。
焼きたてのパンの香りがする。村を出て二十日余り。ようやく人の気配。串に刺した肉を焼く匂いや、果実の酸味の混じった風。色とりどりの布で飾られた屋台が並んでいた。
「いやはや、世界は平和そのものだね〜。食欲、そそるわ〜」
皮肉っぽく呟くテテポに、おまえは食べないだろと、アワはつっこみを入れる。
「とりあえず、あの商人を探そう。話では、村に戻ってるはずだから」
——それは、ひと月前。ヴェルディナ王国での建国記念祭の時だった。
祝宴に沸く広場の片隅で、その商人は小さな屋台を構えていた。氷の森から持ち帰ったという、凍った花を売っていたのだ。
『誰も信じちゃくれないけど、ベルー国が……消えたんだよ!』
そう言いながら歯を見せて笑っていた商人のことが、昨日のことのように思い出される。
アワはすぐにそれがただの土産ではないことを察し、花を買い取り、すべて処分した。
「おれ、アイツ苦手なんだよなー。汗と脂で顔テッカテカの物欲バカ」
「たく……そんなこと言ってられないだろ? 下手すると、大変なことになる」
「ああいうタイプが真っ先に死ぬんだぜ?」
しばらく市場を歩いて数人に訊くと、意外な答えが返ってきた。
「数日前に旅立ったよ。また王都に行くって言ってたかな。あの人は、儲けても儲けても落ち着かない性分なんだよ」
「アワ、大丈夫だ。アイツはどっかで、きっとのたれ死んでる」
隣でテテポは鼻を鳴らす。
「……たく」
肩を落としながら「……いいかげん、可愛い顔して毒を吐くの、やめてくれないか?」と、アワがため息をついた、その時だった。
乾いた雪を踏み鳴らす足音と共に、周囲も騒つき始めた。男が焦った様子で、誰かの名前を呼びながら辺りを見回している。
その顔には見覚えがあった。男はアワを見るなり目を見開いて、息を詰めるように駆け寄ってきた。
「あーっ! 魔術師様! いいところにおいでです!」
男は、以前アワが治療したことのある娘の父親だった。
「とにかく来てください、大変なんです!」
彼に連れられて着いたのは、村はずれの開けた野原だった。
「あーっ! あそこです、あそこです!」
男が手を振る視線の先には、うっすらと雪の降りしきる野原に、狩りの陣が張られていた。ひときわ大きな天幕が中央に据えられ、その周囲に豪華な毛皮を着飾った男女が散らばっている。
「さあさあ、早く参りましょう。大変なんですっ」
男は村の案内役を任されていた。
この村の外れで王族関係者によって行われている『冬の狩り』は、雪の森に棲む『霜狼』を追う儀式的なもので、年に一度、アルベルサ領国の貴族たちが集まり、先祖の加護と豊穣を願う伝統の催しだった。
銀色の毛並みを持つ霜狼は、この土地では力と気高さの象徴とされており、狩猟の成功は名誉と見なされた。
しかし、その輪の中心にあったのは凛とした誇りではなかった。そこには煌びやかな女——
重たげなコートに毛皮の襟巻きをあしらい、真珠の飾りのついた帽子を斜めにかぶった女がいた。葡萄色の厚手のドレスは、雪に映えてひときわ目を引いた。
「違うのよ⁈ わたしは悪くないわ!」
頬は上気し、目元には泣き腫らした痕のような赤みが走っている。
ジナイーダ・マーフォリア。アルベルサ領主の娘にして、王家の分家筋にあたる縁戚とも囁かれる女。
己の価値と立場を何よりも重んじ、富と名声に目がない。自らの評判を守るためなら、他人の犠牲も厭わず、気に入らぬ相手には、履いていた靴を舐めさせたという噂すらあった。
だがその顔には気品よりも焦燥と苛立ちが浮かんでいた。
「なんだ? あの絵に描いたようなバカは?」
ぼそりとこぼしたテテポの声は、ジナイーダによって、あっさりと掻き消された。
「なにしてるの、早く医者を連れてきなさいって言ってるでしょっ⁈」
跳ねる声。
「違うのよ、私はただ引き金に手をかけただけで……。あの方が勝手に動いたの! 避けなかったのが悪いのよっ!」
彼女の足元には、血を流して倒れている貴族と思しき男がいた。ふくらはぎのあたりを撃ち抜かれ、真冬の地面に倒れたまま呻いている。