ep.57
頬を撫でていたそよ風が、唐突に牙を剥いた。
森全体を鷲掴みするかのように、荒々しい突風が隅々までを逆撫でする。深緑は恐慌をきたした不協和音を奏で、騒めきを超えて暴れ出した。
「この気配は何?」
ぴくりと肩を揺らし、ミアは立ち上がる。
小さな生き物たちまでもが一斉に沈黙した。
風が運んできたもの。鼻を刺す匂い。それは焼けた木の匂い。
アロスたちの方向ではない。「……え?」これは……振り返って目を疑った。王都のある北の方角だ。
木立の間に現れた遠い一筋の白煙。
「どうして?」攻防していた軍が突破されたのか? いや、それよりも、あの火の勢いはまずい。下手をすると森の全てが火の海になる。
瞬く間に広がる灰色の低い雲は、森の頂を覆い尽くし、煙の奥には確かに映る。——真紅の炎が。
迷わず指笛で呼んだベルに跨り、ふた蹴りで空へと羽ばたく。
火は走っていた。
空へと突き上げながら森を喰い荒らしていく。一帯が風に巻かれ、火勢は左右に跳ね、尾を引いて延焼していく。
それは怒りだった。森そのものが震えていた。
空を駆け抜けると、赤く燃える炎の切れ間にベクトールの姿を見つけた。
「ミア様……!」
「——何があったの⁈」
ミアの姿を目にしてすぐに近寄ったベクトールだったが、血に染まったドレスに、一瞬言葉が詰まった。苦悶に満ちた表情は、いつも冷静な彼には似つかわしくなかった。
「……他方から、バルドゥルが自ら軍を率いて攻め込んできました」
「やつの狙いは、森?」
ベクトールは小さく頷く。
「恐らく。全てを焼き尽くすつもりです。このままでは、兵も森も——」
燃えたぎる炎のなかから聞こえてきた。
笑い声だった。
遠くでバルドゥルが叫んだ。
「全軍に告ぐ! 抗う愚者どもを蹴散らせェェ!」
目の前を遮るのは炎熱地獄。炎は高く舞い上がり、木々の枝葉に燃え移る『樹冠火』となる。
焔と怒号。ミアの瞳は真っ赤に染まっていた。
熱は凄まじく、燃え広がることで特有の強風を引き起こしていた。髪は踊るように暴れ、目を開けることはおろか、息をすることすら困難だった。
煙で小さくなる視界のなかで、ミアは手を翳し魔力を解き放った。
張り裂けんばかりの空気はひび割れ、無数の水が渦を巻くと、巨大な塊と化した水はうねりを帯びた。それが荒々しい波となって炎へと殺到する。
直後、鳴り渡る轟音。
水流は燃え盛る炎へと真っ向から激突した。数万度の熱を一瞬で消し去り、爆散する。
全てが白く吹き飛んだ。
大地を揺るがす音と共に、灼熱の蒸気で視界が埋め尽くされる。白煙は立ちはだかる壁となって、遙か上空へと巻き上げた。
それでも——とても間に合わない。
火の勢いが収まる気配を見せない。
ゴーッと地鳴りのような音がして、バチバチと樹木がはち切れる。火の粉が風に乗り、さらなる木立へと跳ね移っていく。燃え広がる速さは、魔法よりも速い。
白い煙が黒煙と変わり、ミアは息を詰まらせ咽せ返した。
「どうすれば……」
消火しても一向に変わらぬ景色。
思わず手が止まりかけた。
炎の向こうでは、兵たちが混戦のなかで剣を交えている。敵味方の区別すらつかない。荒がる声が響き、銃声が飛び交い、命が次々と散っていく。
ベクトールもまた剣を抜き、兵に声を上げた。
「下がるな! 前へ!!」
だが、その声は炎の咆哮に呑まれ、空へと掻き消えた。
それはまるで、火を喰らう火焔竜だった。紅の鱗を撒き散らし、野をのたうち回るように、全てを焼き尽くそうとしている。
水の魔法を放ちながら、ミアは必死に思考を巡らせた。
喉の奥が灼けつくように熱い。
——バルドゥルの首を斬ったところで、この炎は止まらない。ひとりでどうにかできる規模ではない。
どれだけ命を費やせば、この火は鎮まるのか。
目の前で兵がひとり、またひとりと崩れ落ちる。
皆んな死んじゃう……誰も死なせたくないのに——。
ミアは汗まみれの顔で声を張り上げた。
「テテポ……どうしたらいいの!」
側にいたテテポもまた、歯を食いしばっていた。
「どうもこうも、……おれだってわかんねーよ!」
追い詰められた戦場。状況は既に詰んでいるように見える。
「痛っ……!」
ミアの肩を何かがかすめた。銃弾だ。血が染みる。
「ミア!」
すぐにテテポの魔法で傷を塞いだ。
頷くより早くミアは再び空を仰ぐ。
そこには、新たな火の手が——
遠い。けれど見覚えのある方角。アロスたちがいた場所だった。
「まさか……」
視界の端から忍び寄る絶望という文字。
次の瞬間、畳み掛けるようにして別の方角からも炎が立ち上った。
もう駄目——全部、燃えちゃう。おそらく民は皆、森へ避難していたはずだ。
迫り来る王女としての重圧。
体に食い込む熱さと視界はぼやけ、邪魔をする煤混じりの煙のせいで涙が滲む。足がふらついて方向感覚を失いそうだった。鼓膜も火が爆ぜる音で遠い。
その時だった。火勢の向こうで聞こえたのは。
愉快に声を弾ませていた。
「いい眺めだなァ!」
焦げつく風を味方に付け、男は嘲るように豪快に声を上げる。笑われた自分が無様に思えてくる。
この世界の全てを、手に入れようとする男。
この戦いの果てに自らの正義があると信じて疑わない。
髪の毛を凍らせた男は、巨躯を震わせながら吠えた。
「アルベルサの名の元に全てを焼き尽くせェェ!!」
バルドゥル・マーフォリア。
領国の王は、欲に飢えた獣のように、炎の頂に立っていた。
「……もうやめてよっ!」
胸の奥で何かが砕ける音がした。
ミアは、手首の水色のブレスレットを無意識に握りしめていた。——アワ。溢れる想い。
もう何も間に合わない。
叫んでも、誰にも届かない。
その声は、泣き声に似ていた。
やめて。お願いだから、これ以上、誰も——
その時だった。
合わせた両手に宿っていた魔力が、不意に鼓動を打った。
——えっ?
次の瞬間、足元から閃光が迸る。
地面に刻まれた魔法陣は、生き物のように脈打ち、円環を描きながら急速に拡大していく。
ただの陣ではない。
風が唸りを上げ、地鳴りが混ざり、空気が軋み始める。
「おい、ミア⁉︎ いったい何やるつもりだ!」
テテポの声が裏返る。とてつもない巨大な力だった。
逆巻く風が草を浮かせ、周囲の炎が暴風となって巻き込まれていく。
「ミア! 聞いてんのか!」
だが、ミアの目は虚空を見据え、もはや誰の声も届いていなかった。
押し寄せる想いが、言葉にならぬ祈りを宿していく。
もう争わないで。
お願い、失いたくないの。
アワの大切な森を、これ以上——壊さないで。
両手に、決意を込めた。
次の瞬間。
魔法陣の中心が眩い蒼光を迸らせた。
地に走る紋様は、この星が弾けるほどの光を放ちながら大地を震わせた。
世界が、膨れ上がる魔力に沈黙した。
音が消えた。風も、振動も、全てが彼女の魔法に平伏した。
ただ、白く、静かに、煌めく光が全方位へと広がっていく。
そして——
森は、氷に閉ざされた。




