ep.56
だが、当の本人はどこ吹く風だったが。
「そもそも、一体、何年引きずってんのよ。いいかげんにしなさい? いい歳して」
吐き捨てるように言って、ミアは腰に手を当てた。
魔女の目が戸惑いで揺れている。
「……まあ、確かに。嫌なことばっかりだったけど」
ただ、それでも……足が凍らなければ知り得ないこともたくさんあった。でなければ、アワとは会えてなかったかもしれないし。
「ちょっとは感謝するわ。ありがとう」
そんな言葉が不意打ちだったのだろう。
魔女は完全に混乱していた。借りた人の身体で瞬きをすることすら忘れ、呆然とミアを見ていた。
「でも……」
次の台詞ははっきりと言い切った。
「もう、いらないわ! だから早くジナイーダと変わってちょうだい!」
ぐっと足を前に踏み出し、肩を跳ねて怒鳴る。
「もう二度と邪魔しないで!」
その一言に、魔女はしゅんと項垂れる。ほんの一瞬、何か言い返しかけたが——やめた。
そのまま目を伏せながら、すっと気配をなくした。
ジナイーダの瞳の色が戻る。その目に迷いはない。
「——ミア!」
氷の右腕を構え、まるで何かに追い立てられるように地を蹴った。
銀の剣が閃きを描いて振り下ろされる。
「そうこなくっちゃ」
ミアも軽やかに一歩を引き剣を構えた。
鋼が陽を受けて煌めき、刃と刃がぶつかり合う。鋭い音が辺りに弾けた。
「アワ様をどこに隠して?」
「知らないわ」
自然とミアの笑みがこぼれた。
ひとたび剣が交わると、ふたりの間に言葉は要らなかった。
踏み込み、跳ね返し、斬り上げ、受け止める。
火花のように汗が散り、土が抉れる。
何度も何度も金属音が響いた。ふたりは今までの鬱憤を晴らすかのように剣を振るった。
鋭いジナイーダの剣が目の前の空を斬った。殺意とは違う、隠しきれない根深い嫉妬。
アワを遠ざけたことを怒っているのはわかる。
でもそれだけじゃない、何かがあった。
今のミアには伝わってしまう。その一太刀、一太刀に迸る想いが。
初めて顔を合わした十年前。
他国の王子たちがいるなかで、領国の姫は王国の姫に、燦々と輝く太陽を見た。底抜けに明るい態度は、陽光よりも眩しく映った。
それからは、王国の姫に負けぬよう、ダンスに、音楽。社交に、馬術。何でも必死にやった。なのに——
何をやっても勝てなかった。
いつまで経っても、王国の姫と、領国の姫。
父の前で、何度も比べられ、何度も叱られた。
剣を弾き返しながら、ミアの胸にその思いが染み込んでくる。
私だって必死だった。王国の姫であり続けるために死に物狂いに頑張った。
なのに、何故なの……?
ジナイーダの痛みを自分のことのように、ジンジンと感じるのは。
私利私欲にまみれていた過去。
もの寂しい時、思考が揺らいだ。
剣を握る力が、わずかに緩んだ。
その隙を、剣閃が貫いた。
ジナイーダの剣だった。
——刺さっていた。
ミアの脇腹に、熱い痛みが走る。
ドレスの布地がじわりと濡れ、抜いた剣身を伝い、ジナイーダの指先を血が染めた。表情が凍る。
「どうして……?」
かすれたその声は震えていた。まるで、信じていた何かを裏切られた子供だった。
「どうしてなの……?」
繰り返す声に、足元の力がすうっと抜けた。
剣を握ったまま、その場に膝をついた。
ミアもまた、それを追って静かに地に腰を落とした。
胸につかえる思い。
——今さら、ありがとう、なんて。そんなの、小っ恥ずかしくて言えるわけがなかった。
でも——記憶が頭のなかを巡る。
足が凍って、誰とも会わずに閉じこもっていた、あの冬。
陽も差さない部屋に、恐る恐る顔を出してくれたのは、他でもないジナイーダだった。その後、アワを寄越してくれたお陰で今の命がある。
毒を盛られたあの日も。
誰もが疑心を抱いていたなかで、私に盛られた毒を自ら飲んだ。
「もう、やめましょ?」
ほんのひと時でも、私のことを案じてくれていたこと。その想いに、どれだけ救われていたか。
だからミアは、血に染まる手を押さえたまま、にこりと笑った。
「あなたには……」出かけた言葉を飲む。感謝しているとまでは言わない。
「私たちには他にやることがあるはずよ」
ジナイーダが顔を伏せた。
剣の柄から力が抜け、刃が地に落ちた。ゆっくりと肩が震える。最初は冷えに震える小さな揺れだった。
けれどそれは、やがて涙を伴った嗚咽へと変わる。
そっと手を添えて、ミアは彼女を見ていた。
ジナイーダのとめどない涙は、やがて言葉になった。
戦っていたのは身体だけじゃない。自分も、ずっとずっと前から——心のなかで剣を交えていたのだと、ようやくわかった。
「……どうして、そんな顔するの?」
目元を拭うこともせず、崩れたまま地を見つめていた。
「……わたくし、ずっと、あなたが憎かったの。……許せなかった」
ぽつり、ぽつりと、こぼれ落ちる言葉。
「初めて会った日から、ずっと。毎日……悔しくて。……何をしても勝てなくて。……いつもお父様に叱られてばかり。わたくしばかり……どうしてこんなに、みっともない気持ちになるんだろうって。……何度も何度も、自分が嫌になった」
ミアはただ黙って耳を傾ける。
「でも……本当は、……あなたになりたかった。嫉妬してたのよ。……羨ましかったの」
すると雨の気配と共に、草を蹴る馬の蹄音が近づいてくる。
「ジナイーダ! おまえは、何をやっているんだ!」
疾風のように現れたのは、兄アナトリーだった。
馬から飛び降りて駆け寄ると、氷に蝕まれた右目が、ジナイーダを真っ直ぐに見つめた。顔の半分、首筋にまで及ぶ氷の痕が、彼の焦りと痛みを際立たせていた。
ジナイーダは泣きながら、かすれた声で言葉を探した。
「お兄様……わたくしは……」
それ以上、何も言えなかった。声にならなかった。
アナトリーはそっと頷き抱き寄せた。
「わかった。……とにかく今は、この場を離れよう」
そのまま馬へと向かう途中、振り返り一瞥する。
ミアは返すように、ゆっくりと頷いた。傷は大丈夫、と言いたげに微笑んで見せた。
アナトリーは申し訳なさそうに目を伏せ、小さく呟いた。
「……こんな戦いは、終わらせよう」
それだけを言い残し、妹を抱えたまま、馬に乗って走り去っていった。
そして—— 雷鳴が世界を叩き割るかのような音と共に、雨が降り出した。
突然の通り雨だった。空を覆う雲は暗く、一頻り森を殴りつける。
ゆっくりとミアは腰を引きずる。近くにあった一本の大きな木の下へと身を寄せた。枝は広く張り出していて、垂れ下がる葉がかろうじて雨を遮った。
満身創痍だったが、ミアの口元は緩んだ。
「ついてるわ。まだ……生きてる」
そう口にした途端、横からテテポの声が飛んでくる。
「どこがだよっ!」
尻尾を逆立てながら、必死な形相で駆け寄ってきた。
「出血、致死量レベルだぞ、ばか!」
テテポは慌てて魔法で治癒する。
「平気でしょ?」
けれどミアは、ただ穏やかに笑った。
「……だって、テテポがついてるもの」
「ばっかやろう……」
テテポの眉はひくついていた。
「そんな無茶ばっかやってっと、本当に……死んじまうぞ……」
堪えきれず、涙混じりの声になった。
やがて雨音が消えた。
葉の滴が土に吸われるたび、森は静かに息を継いだ。霧が枝の間に漂い、濡れた葉と土の匂いが濃く立ちこめる。
だが、その一瞬の安らぎは、すぐに破られることとなる。
風が——変わる。




