ep.54
遠くの方で煙が上がっているのが見える。鳥たちが一斉に飛び立ち、森がおどろおどろしく騒めいた。
「だから、言わんこっちゃねえ……」
テテポが呟いた。
「あいつら、攻めてきたんじゃねーか?」
「いや……おかしいわ」
戦闘は王都の外で迎え撃つはず。けれど、あの煙はそれとはまったく違う方角だ。
「それに……攻め込んでくるには、早すぎる」
嫌な予感しかしない。想定外の動き。きっと皆んな、混乱している。
ミアは地面を蹴って走り出した。泥に足を取られそうになりながらも、構わず駆け抜ける。アワの家で即座に装備の支度を整える。そのままの勢いで外に出てから、指笛を鳴らす。
風を切る音と共に白い翼が現れた。
「ベル!」
手綱を掴み鞍へと飛び乗った。
「テテポ、行くわよ!」
振り返りもせず、当然のように言い放つ。
「……お、おれもか?」
その戸惑いを目にしたミアは、悪そうに笑みを浮かべる。
「早く乗って! その毛むくじゃら、刈り上げちゃうわよ?」
脅しとも、冗談ともつかない口調に、テテポは目を丸くする。
「わ、わかったって……! でも、ちょっと待て。揺れるな揺れるな、落ちるだろ!」
そう言いながらも、聖獣は渋々ミアの背中にぴったりとしがみ付く。
「ほんとに、平気なんだよな?」
不安げなテテポの嘆き。
それをミアが一蹴する。
「しっかりつかまってなさい。行くわよ!」
ミアは笑いながら、風を味方に変えた。ベルが地を蹴り、空へと舞い上がる。
——アワ、もう少しだけ待っててね。
エレナの森の東端。
その奥深くでミアの軍がアルベルサの兵と対峙していた。
木々の間から赤い炎が噴き出し、緑は黒く煤けていく。焼ける匂いと混乱の騒めきが森全体を揺らしていた。
ベルが翼を畳み、地面に降り立つ。
「あなたは安全な所に行ってなさい」
優しく鬣を撫でてから言葉を残すと、ミアは全速力で駆けだした。
「アロス!」
燃える木立の合間に、その姿を見つけた。灰にまみれながら兵を率いて応戦していた。
「姫様、何故こちらへ!」
「何があったの?」
「アルベルサは二手に分かれてきました。一軍は王都手前で、こちらには……」
説明する声を掻き消すように爆発音が響いた。枝葉が炎を纏い森はあっという間に火の壁に変わりつつある。
「このままじゃ森が焼けちゃう……」
アルベルサ領国の狙いは森。
「私は火を鎮めるわ。あなたたちは森からやつらを追い出して!」
ミアはそう言うと、そのまま燃えたぎる前線へと歩いていく。
「姫様、危険です!」
アロスの声を背に、ミアはすでに魔法陣を描いていた。
指先が走る。目の前に光の紋様が重なり、円が広がる。詠唱が自然に口をついて出た。
「清き水の精霊よ。天より降らし給え水脈の力、我が身体も水と共にあらん」
前線で立ち止まり両手を掲げると、空気が一瞬凍る。目の前に現れた巨大な水の球は、大木を呑み込むまでの大きさに膨れ上がっていた。
迸る炎を押し返すほどの、水量と光。
その神々しさに、味方の兵たちさえ思わず足を止めた。
「おいっ、ヤバイぞ! 全員、その場を離れろッ!」
ギースが叫んだ。彼にはわかっていた。ミアが容赦なくやることを。
だが、間に合わなかった。
「——みんな、下がりなさいっ!!」
ミアの声が響いた瞬間、巨大な水の球が炸裂した。
火の手と共にあった木々を呑み込み、音もなく迫っていた炎の壁を、丸ごと押し流していく。水音と地鳴りが重なり、森全体がひとつ大きく呼吸したようだった。
濡れた土が跳ね、しぶきが空に舞い、全てがひと時、沈黙のなかに閉じ込められた。
残ったのは、濃密な湿り気と、しんとした静けさだけ。
「ごめんなさい」
ミアはぽつりと呟いた。……味方を巻き込んじゃった。
それでも振り返り、濡れた頬に髪を貼りつけたまま、呆然と立ち尽くすアロスに微笑んだ。
「あとは、お願いね」
森の火はミアの魔法によって完全に鎮められていた。湿った大地には、まだ微かに蒸気が立ち昇る。
隣を歩くテテポに疑問を抱く。
「ねえ、テテポって……魔法、使えないの?」
思ったことを、そのまま口にした。
「おれは、物理的に何かへ影響を与えることはできねーんだよ」
「……え? それって、どういう意味?」
きょとんとして首を傾げると、テテポはまた鼻を鳴らした。
「だからよ」
そう言って、ぽすんとミアの体に跳び乗る。そのまま器用によじ登り、頬にそっと前足を触れさせた。さっき、火の粉で火傷を負った箇所だった。
すると、ぱちんと小さな光が弾けて、気づけば痛みは引き傷跡も消えた。
「直接、何かをすることはできないけど、伝えることはできるってわけだ。おれは精霊だからな」
「……伝える?」
何となく理解したような、してないような顔で、ミアは相槌を打った。その様子にテテポは軽く呆れる。
「まあ、人間でいう霊的なもんに近いって言えばいいか? あいつら幽霊は、直接殴ってきたりしねーだろ?」
「幽霊……見たことないけど……」
そう言いながら、ミアの脳裏にふっと何かの映像が浮かぶ。
それは今、テテポの頭のなかにあったものだった。
「——てことは、この魔女も、それと似た類いの存在ってことね。だから人間に取り入って攻撃してくる、と」
「お、察しがいいじゃねーか」
感心したように言った後、すぐさまテテポが声のトーンを上げる。
「……って、こら! 勝手に頭んなかを覗くなって、何回言わせんだよ!」
「はいはい」
とミアはあっさり聞き流す。
そして——
立ち止まって前方を見据えながら言った。
「そんなこと話してるから……ほら。お出ましよ?」
空気がわずかに揺れる。
ミアの表情が、ふっと引き締まる。静かに身構えた。
変わる風向き。森の奥から硬質な音が響いた。
ミアが一歩、足を止めた。
ゆらりと現れた女。その女は深い錆浅葱色のドレスを引きずるようにして歩く。
曇った瞳に氷の右手に持つ剣。淡い赤黄色の髪は乱れひとつない。それはまるで、夜会の余韻に取り残された亡霊だ。
「やっぱり、そう来るわよね……」
ドレスの腰に据えた剣の柄に手を添えながら、ミアが呟いた。
「雌ギツネ……」
女の冷たい声。だけどその声は、魔女のものではなかった。語る言葉は本人のもの。
「生きていてくれて嬉しいわ。ジナイーダ」
その目に宿る、微かな痛みと決意。
相手もやる気だ。
「まあ……殊勝なこと。あなたの口から、そんな言葉が出てくるなんて」
ミアと視線を合わせて一瞬だけ目を細めたが、ジナイーダのその唇に笑みはない。
「アワ様はどこなの?」
言いながら、左手をすっと持ち上げる。指先に淡い氷の煌めきが宿っていた。
ごくりと微かに鳴ったミアの喉奥。
「その程度の慰めで、わたくしが許すと思って?」
ジナイーダの視線が一段と鋭くなった。
凍てついた深淵。切り落とすような、張りつめた怒り。いや、その根底は嫉妬か。
氷の魔力が周囲の空気の温度を奪っていく。ジナイーダの足元から、霜がじわじわと地を這って広がった。そのまま振り下ろした左腕から魔法が放たれる。
ミアはすでに抜剣していた。
猩々緋のドレスが踊る。硬質な音を立てて、凍てつく一撃を弾き返した。それは刃ではなく、鋭い氷の矢のようなもの。砕けると、空気と一体化するようにして溶けていった。




