ep.53
テテポは何か言いかけたが、ふんっと息を吐いて途中でやめた。
「この中だよ」
そう言って、湖を顎で示した。
「……中って、湖の?」
ミアは駆け寄って水面を覗き込んだ。
映っていたのは、せわしなく呼吸する自分の顔だけだ。
「ばっかだなあ。見えるわけないだろ」
テテポが呆れたように言った。
「会いたいなら、自分で行くしかねーだろ」
「どうやって? 泳いでってこと?」
「おまえ、ほんと何も聞いてねーんだな」
肩を落としたテテポは、また大きな溜息をついた。
「だからそれを教えるために、おれがここにいるんだろ?」
小鳥の囀りや動物たちの気配の音に紛れるようにして、声が一際響いた。
「……えっ、魔法?」
ミアはぽかんと口を開けた。
「まさか……私が? 使えるの?」
「だろうな」
とテテポは、すっかり癖付いた鼻息をひとつ鳴らした。
素っ気ない言い草だが、声音に含まれた確信に、ミアは思わず息を呑む。
「……微精霊って、見えるか?」
「いいえ。そもそも微精霊って何なのかも、よくわからないわ」
きっぱりと言い切ると、テテポは「だよな」と同意する。
「まず、この世界には、目に見えない小さな精霊が山ほどいる。人間たちは忘れちまって認識できないけどな」
わからないなりに一生懸命、うんうん、とミアは何度も首を縦に振る。
「それで、おれはその微精霊が集まって具現化された、聖獣ってことだ」
「あなた、精霊なの?」
「そう。だから今、おれがこうして見えてるなら、おまえも微精霊を感じられるってことだ」
言われてみれば、確かに——とミアは頷いた。
「じゃあ……感じるって、どうやって?」
「おまえなら簡単なはずだ。力を抜いて、目を閉じる。その後は感じるままに、自然に身を任せてみろ。自分がどれだけちっぽけな存在かってことに気づくはずだ」
言われた通りにした。ミアは静かに目を閉じた。初めは暗闇だった。
でも、やがてその闇の奥行きにある、風の通り道のようなもの。周囲が輪郭をなくし、感覚だけが残る。意識がどこまでも沈み込んでいく。
暗中模索。
でも、不思議と心地よい。
——今、私は浮いている? それすらもわからなかった。
そうしていると、ふいにアワの気配が蘇った。彼が見せてくれた魔法。あの、優しくて、温もりに似た淡い光。
あれも、微精霊たちが集まってできたものだったのだろうか。
そのミアの隣には、テテポもふわふわ浮いていた。……こいつ、やっぱり飲み込みが早いのかもな、と思いながら。
「そのまま、感じてるキラキラに集中しろ」
言葉に導かれるようにして、ミアはそっと息を整える。目を閉じたまま静かに集中する。
頭の中には、アワの描いた魔法陣が浮かんでいた。
懐かしい——理由はわからない。でも、そう感じた。
彼の側で、ずっと見てきた。
生まれるよりもっと前、遠い昔。ずっと前から知っていた気がする。
手が動いていた。空へ向かってなぞっていた。気づけば魔法陣を描き、無意識に魔法を発動していた。どデカいやつを。
「ば! バカ! 何してんだ!」
テテポの声は巨大な水の柱に相殺される。
天へと昇る水流は、泡の天井に溜まっていた水を突き破った。とてつもない量の水が容赦なく襲いかかる。
ふたりは水の奔流に呑まれた。 足元が宙を失い、光も音もかき消される。
全部、水。
目を開けると、世界が青く広がっていた。
波間には、光が浮かぶ。水草が軽やかに揺れ、泡が銀の粒となって昇っていく。
そこは現実ではなかった。
夢の底。
あるいは、かつて知っていた記憶の、その先。
ああ——
私は、この水のなかにいた。
生まれるずっと前。彼の隣で、この世界の全てを見ていた。
湖から上がるとミアはずぶ濡れのまま、大きく息をついて笑った。
何もかも、すべて洗い流されたような気がしていた。どこかくすぐったくて、嬉しくて、どうしようもない。
濡れた髪をかき上げながら、自然と笑いが込み上げてきた。
この湖でアワと踊った夜。
泡の天井の水溜まりを見上げて、ふたりで話した。あれが落ちてきたらどうするのかと。
『まあ、その時はその時です』
そう言って笑っていた彼の顔を思い出して、またひとつ、笑みがこぼれる。
「けっ。また色恋沙汰かよ」
ミアの気持ちを読んだテテポが舌打ち混じりに悪態をついた。濡れた毛並みをぶるぶると震わせ、辺りに水飛沫を撒き散らす。
ミアは笑ったまま、わざとらしく顔を傾けて言う。
「あら、テテポは好きな子、いないの?」
「……は?」
茶化すミアに、テテポは目を見開いたままそっぽを向いて鼻を鳴らした。
「おれが言いたいことはそんなんじゃねえ」
言葉を探すように尻尾をぶんと振る。その背中はどこか、照れ臭さと哀愁が漂う。
「おれが言いたいのは……悠長に、恋だなんだって浮かれてる暇なんかねえだろってことだ」
その赤くなった顔をじっと見つめて、ミアはくすりと笑った。
「やっぱり、可愛いわね。あなたって」
「な、ななっ……! おまえ、なに言っちゃってんだよ?」
耳まで赤くして取り乱すテテポを見て、ミアは胸を張り気品たっぷりに微笑んだ。
「好きな人がいるからこそ頑張れることも、あるんじゃなくて?」
「けっ、洒落臭え」
呟いた声に思わず吹き出しかけて、ミアの顔が真顔になった。
「ちょっと、待って!」
突然ミアは立ち止まる。
「……何これ? 変な感じ……。あなたの考えてること、わかる……気がする」
「は? だから、何なんだよ?」
「ほんとに……わかる。あなたの気持ちが……頭に、流れ込んでくる……」
ミアには見えていた。テテポの記憶が。不意に映像が浮かぶ。この場所で、アワとテテポが最後に別れた場面。
ああ——そうか。と納得した。ここで彼は、テテポに私のことを託して湖のなかへと入っていったのだと。
「ばっ、バカやろーッ!」
テテポが思わず叫んだ。
「勝手に人の記憶、覗き見すんなっての!」
それと聖獣は露骨に動揺する。
それを見てミアは訳も分からず笑ってしまう。
「ほんと、変な感じね。アワとテテポの関係が少しわかった気がするわ」
「水は記憶する媒介だ。水の魔力が増大して干渉してんだろ」
苦々しげに鼻を鳴らしたテテポだったが、なかなか落ち着かせてもらえない。
ミアが突然、顔を引きつらせて騒ぎ始めた。
絶叫。
「え……ヘンタイ!!」ドン引きだった。
「テテポ、ずっと私のこと覗き見してたってこと⁈」
「ば、バカ言うなっての! おれは、そんな下世話なことしねーよ!」
明らかな動揺。
「まあ、そうなら——」と口を開きかけてミアがまた騒ぎ出す。「ちょっと! え……ってことは、アワも? 同じように私のこと、見えてたりするってこと⁉︎」
途端に頬が真っ赤になる。
「や、やだ……そんなの、耐えられないわ……!」
「し、知らねーよ。そんなの」
テテポは極めて冷静を努める。
「アワは、ミアと同じで無意識に感じた時だけだとは思うけどな。たぶん」
視線を逸らすテテポの態度が、かえって怪しい。
けど——
「ちょっと……今、はじめて名前で呼んでくれたわね?」
ミアがにやりと笑うと、テテポは一瞬固まった。指摘されて気づいた。
「そ、それは……」
何か言いかけたが、うまく言葉にならない。
ふたりは顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
ふたりの距離が一気に縮まった。その時だ——




