ep.52
「遅かれ早かれ同じことです。アルベルサ王は必ずエリディオを攻めてきます」
言い返す余地はなかった。それが正論だ。頷くことしかできない。
「……それよりも」
本当は、それが一番訊きたかった。
「アワは? 彼はどこにいますか?」
「アワ?」
ベクトールの眉が、わずかに動いた。不思議そうに繰り返す。
「我が国出身の魔術師のことでしょうか?」
その様子に、ミアは瞬時に悟った。——彼は知らない。
「……いえ、大丈夫です。こちらの話でした」
気まずさを誤魔化すように、ベクトールの視線が馬へと移る。
「しかしながら……ペガサスを乗りこなすとは。やはり、貴女はただの王女ではないのですね」
ミアは微笑みを返した。唇の端に浮かんだものは、晴れやかなものとは少し違っていたが。
隣にいたアロスが一歩前へ出る。
「姫様、ここから先は我らが。どうか、お身体をお労りください」
目を伏せるようにミアは短く頷いた。
「……ありがとう。では、今日はこれで失礼させていただくわ」
言い終わるより早く、ベクトールの手が思わず伸びる。
「そ、それは……申し訳ありません。お疲れのご様子でしたね。王宮にお部屋をご用意しておりますので——」
「お気遣い、感謝します。でも……」そっと首を振った。
「今は皆んなと一緒にいたいの」
「……かしこまりました」
ほんの少し言葉を失ったが、ベクトールは背筋を伸ばすと、恭しく頭を下げた。
「では、避難所として整えている区画がございます。そちらへご案内いたします」
エレナの森は、穏やかな光に包まれていた。
木々が重なりあう奥深い緑のなかに、仮設のテントが点々と並び、枝や布を組んだ住まいがところどころに見える。
子どもたちの声が木漏れ日に紛れて跳ね、釜戸の湯気が風に揺れていた。
その光景を眺めミアは息をついた。
「……これなら、大丈夫そうね」
森に暮らしていたエリディオの民と、逃れてきた人々。戸惑いを抱えながらも、彼らは言葉を交わし、手を取り合っていた。
その様子に、ようやく声をかけようと口を開いた時、膝が崩れた。
「姫様っ!」
思わず押さえた腹部。そこにはララポルトの戦場で負った傷があった。この痛みを知っているのは、アロスだけだった。
周囲の心配を遮るように、ミアは微笑んだ。
「平気よ。少し、疲れが出ただけ」
そう言って立ち上がると、ベルの鬣に手をかけた。
「アワのところへ行ってくるわ」
そして言いながら鞍へと身を戻す。
「アロス。あとは……お願いね」
冗談めかした口調だったが、その声の奥にあるものはどこか遠くの方で響いた。
空高く舞っていたベルが、羽ばたきを緩めた。ゆっくりと風を切って下降し、森の小径の脇に着地する。
ミアはベルの毛並みに手を添えた。賢い子。私の傷の痛みを察することができるなんて。
「ありがとう。ここからは歩いていくわ」
視界の先にはアワの家が見えていた。けれど——胸の奥に、さざ波のような騒めきがある。
ベクトールと交わしたあの会話。
それから、以前森のなかで現れたトンパンの、どこか寂しげな様子。
アワを囲んでいた食卓の、やけに明るすぎた雰囲気も不自然だった。
何かが——微かに、ずれている。
言葉にならない違和感。
その思考に絡まるように、腹部に鋭い痛みが走る。
思わずミアは膝をついた。
「……痛っ」
手を当てた服の下で、じんわりと滲んでいくぬるい感触。それは血だ。
「張り切りすぎたみたいね」
気遣うように見下ろしてくるベルに、ミアは無理に笑顔を向けた。
そのまま背に身を預け、ぐったりと脚を伸ばす。
草花の擦れる音が、微かに耳を撫でた。指先には、小さな虫がきらきらと舞い降りてくる。眠気が、ゆっくりと瞼を重たくする。
思えばずっと気を張っていて、まともに睡眠もとれていなかった。
「少しだけ、ここで休もうかしら……」
目を閉じた途端、意識が沈んでいった。
どれほど時が経ったのか。
ベルが小さく鼻を鳴らした。
その音に応じるように、森の空気がふっと変わる。木々の影から、淡く光る一筋の白い馬が現れた。
一本の、黄金の角。
月光を集めたような白銀の毛並み。
——ユニコーンだった。
蹄の音もなく近づいてきたその幻獣は、そっとミアの腹部に角を触れさせた。
「え……?」
ミアは目を見開いた。
立ち上がると同時に、腹へと手を当てる。
痛みが——ない。
あれほど苦しめていた痛みが、すっと跡形もなく引いていた。
「うそ……治ってる……?」
ユニコーンは、何も言わず、静かにその場を離れていった。
森の奥、光のなかに溶けるように。
ぽかんとその背を見送っていると、今度は別の声が届いた。
「けっ……なんでおれが、こんなやつの世話なんか」
どこか間の抜けた、けれど妙に苛立たせる声だった。
振り返ると、そこには見たこともない生き物がいた。
水気を帯びた青い毛並みにはとても似合わぬ毒舌。ふてくされたその姿は、あまりに不思議で、どこか可笑しかった。
「……なに? あなたも幻獣なの……?」
目をぱちくりさせたミアに、青い毛玉のような生き物が顔をしかめた。
青い毛玉は鼻を鳴らした。
「けっ……おれは聖獣だ。一緒にするな」
その口調に、思わず笑ってしまった。口の悪い何かのキャラクターみたいで、段々と可愛く思えてきたのだ。
「そう、それで聖獣さんは——」
「おれはテテポだ」
言葉を遮ってからテテポは胸を張った。
「そう、テテポね。私は——」
「で、おまえはミアだ」
「え……」
再び遮るテテポに目を瞬いた。
「どういうこと? なんで私の名前を?」
その次の言葉では息が止まった。
「おれは不本意なんだが……率直に言ってやる」テテポは頭を掻きながら言った。
「明日の朝、伝承の湖に来い」
「伝承の湖……?」
ミアは驚いてばかりだった。そこはアワと踊った湖だ。
テテポは振り返らずに尻尾だけを揺らした。
「アワの居場所を教えてやる」
それだけを言い残し、青い毛玉は森の奥へと姿を消した。
しばらく、何も言えずに立ち尽くした。
その夜もトンパンは姿を見せなかった。この国は間も無く戦火に呑まれる可能性があるのだ。きっと忙しいのだろう。
幸い保存のきく食料も豊富だ。ミアはアワの家でひとり過ごすことにした。
不思議と心細さはなかった。
テテポが言っていた。アワの居場所を教えてやる、と。
ちゃんと生きている。
それだけで、気持ちがふっと明るくなる。
それを確かめられただけで、十分だった。
夜が深まるにつれ、森の音は静かになっていく。
小さな家には灯りをひとつだけ残し、ミアは寝台に身を横たえた。
「……早く会いたい」
誰にも届かない声を、ふわりと呟いた。
朝の森は、まるで全てのことを忘れたかのように澄んでいた。
あの夜、ふたりで辿った夢のような道を再び辿る。ついこの間のことなのに、どこか懐かしくて笑みがこぼれる。木々の隙間から差し込む朝の光が、ランタンのなか水を、燦然と照らしていた。
道のない泥濘んだ深い林を抜けると青い聖獣はいた。尻尾をゆっくり揺らしながら、湖を見つめている。
足音に気づいたのか、ちらりとこちらを振り返った。
「来たな」
ぶっきらぼうな声だが、待ちわびていたような気配もある。
ミアは息を切らしながら歩み寄った。焦りが胸をせき立てていた。
「アワはどこにいるの?」




