ep.51
崩れた家屋の破片が、ペトの頭上へと落ちかけた。
火花が散り、土煙が舞う。
クリナが言葉にならない声を何度も叫ぶ。
——風が……爆ぜた。
空気が裂ける音と共に白銀の翼が舞い降りた。馬は炎をすり抜けるように地を蹴り上げ、もうもうとした煙のなか駆け寄る。そして馬に乗る者が、少年の体をしっかりと抱き上げた。
「ペト。もたもたしてると、死んじゃうわよ?」
目元をキラリと輝かせ、ミアは唇の端で笑った。
「ミア様っ!」
ペトが満面の笑みを浮かべた。だが、すぐに何かに気づいて目を見開いた。
「——ミア様、後ろ、危ないっ!」
ミアは即座に腰の剣を抜き放ち、迫り来る槍兵を一閃した。
鋼が火花を散らし、乾いた悲鳴が響いた。
しかし、もうひとり。
立ち止まると、背後から回り込むようにして、別の兵が槍を構えてきた。
瞬いた時、風を裂くような掛け声と、鉄が激しくぶつかる音がした。
吹き飛ばされた槍兵の背に、長身の男が立っていた。
「姫様は相変わらず、無茶しやがるぜ」
その男は焼け焦げた鎧の下、鼻を擦っていた。
「ギース!」
ミアが声を上げると、彼は軽く頭を掻いた。ギースはミアの勢力の小隊を率いていた。
「まったく……ご無事で何よりです」
続けて、叫ぶようにペトに命じた。
「ペト、行け! 家族を頼んだぞ!」
「……父さん、わかったよっ!」
ペトは涙をこらえながら頷き、クリナの腕を握って走り出した。
「戦況は?」
問いかけると、ギースは何か言いかけて、視線を下に向けて絶句する。
「ミ、ミア様……あ、あ、脚が……」
得体の知れない空飛ぶ馬にも驚いたが、風になびくスカートの裾の下。その自由に動いている足が気になった。
「説明は後よ、ギース」
どう見ても劣勢だ。しかもアルベルサの兵は皆、どこかしら体の一部が凍って呪われていた。
「説明も何も、やつら気が狂ったみたいに襲いかかってきます。もう人間じゃない!」
ギースの言葉に、ミアは首を振った。
「落ち着きなさい、ギース! 魔女に呪われているだけよ。……で、スラティハールの屋敷は?」
屋敷は街の外れ。恐らく、まだ無事のはず。
「申し訳ありません。わかりません。なんせ突然だったもので——」
「わかったわ。ありがとう、ギース。ここは任せるわ」
手綱を強く引くと、ベルが大きく声を上げ、白い翼を広げた。
「屋敷へ行かれるので?」
「当然よ」ミアはにこりとした。
「ここは任せたわよ! 必ず生き残りなさい」
ギースは困惑。その無鉄砲さに鼻で笑ってしまっていた。
去り際にもうひとつ指示が飛ぶ。
「あと、アルベルサの兵はできる限り殺さないで! 頼んだわよ」
「……っ、はいっ!」
ペガサスが駆け出して、空へと羽ばたいた。
その軌跡を見上げながら、ギースは近づく兵を蹴り飛ばした。
「ったく……我が王国の姫様は、無茶苦茶だな」
そう呟くと、隊を鼓舞する。
「——小隊、展開! 姫様を通したからには、死んでも死ぬなよ!」
屋敷の敷地に足をついたベルの背を飛び降りた。ミアは雪を踏みしめながら駆け出す。
「アロス——!」
声が静寂を破り、戸口にいたアロスがこちらを向いた。
思いのままに、その胸に飛び込む。
「生きていたのね、会いたかったわ!」
「姫様……よくぞ、ご無事で」
声は震えていた。アロスはゆっくりとその背に手を回した。
「申し訳ありませんでした。私の力が及ばず、姫様を危険な目に——」
掛けた眼鏡には細かなヒビが走っていた。その奥で光るものが濡れる。
「気にしないで。もう、大丈夫よ。アロスがいれば百人力だもの」
胸を張って、ミアはえっへんと笑って見せる。
少しだけ笑みを含んで「ベルナール様に、間一髪のところ救っていただきました」とアロスは言う。
「そうだったのね」
この時、気づく。たまらず視線がミアの脚に落ちた。
「ひ、ひ姫様——その、脚は……?」
「そう、治ったのよ!」
ぱっと両腕を広げたミアは、無邪気に足をばたばたと動かした。軽く跳ねるように地を蹴って、くるりとひと回りする。
「ねえ、アロス、見て! ちゃんと歩けるの。走れるのよ!」
その、はつらつとした姿に言葉を失ったアロスは膝をつき「良かった」と号泣した。
足が凍り暗闇に閉ざされた日々……今までのミアが苦しんだ過去の記憶が走馬灯のように思い出される。何かが決壊したように溢れ出す涙。それは降りしきる雪に滴るほどだった。
嗚咽に似た声が、冷えた風にかすれて消える。
「……もう、大袈裟ね。ほんとに」
ミアは困ったように笑い、アロスの肩にそっと手を置いた。
屋敷には、ミアの直属の精鋭が集まっていた。およそ三十名。ミアは、前に出て宣言した。
「王都が陥落し、ヴェルディナ王の安否が知れぬ今……今後は、私が王国の全権をもって指揮を執ります!」
ミアの率いる部隊は街へと急いだ。王女は自ら前線に立ち、剣を持ち、負傷した民に手を差し伸べ、崩れかけた建物から子を抱いて救い出した。
兵たちもまた、彼女の背に続いた。
その姿は、希望そのものだった。
避難民の元へ合流すると、アロスを待つヘッラの姿があった。
「姫様!」
声を上げる否や、ミアは駆け寄り勢いよくその腕に抱きついた。
「ヘッラ……無事だったのね」
ヘッラのすすり泣く声を、森の梢を揺らす風がさらっていく。
「……ご立派です、姫様。あの状況の中、よくぞ……ご無事で」
ふたりの周りに自然とできた民衆の輪。その顔には安堵と感謝が浮かんでいる。
「ありがとうございました。ミア様」
ミアに命を救われた老夫婦がそう呟くと、小さく拍手が沸き起こった。
ミアは首を振る。
「皆んなが頑張ったからよ。でも、まだ終わりじゃないわ」
この場の人数は二十程度。視線を隣へと向けた。
「アロス、教えて」
「はい。エリディオ国へ向かっているのは、全体のおよそ三分の一。残りの民は、事前の警鐘により各地へ分散して避難しております」
「……そう。ありがとう」
ミアはこのまま最後尾の一団に帯同することを選んだ。
険しい道のりだった。
降り積もる雪に足を取られ、寒さに震え、祖国を失った痛みに泣き出す者もいた。
先頭を進むミアは、時に後ろを振り返り、倒れそうな者の手を取って言葉をかけた。
「大丈夫。もう少しでこの雪ともお別れよ。あと少し。頑張りましょう」
その声は弱った心に灯をともす。
切妻屋根の家々が連なるなだらかな坂道の先に、蔦の絡まる白壁の門が見えてきた。明るい陽の光が石畳を照らし、川沿いには花咲く庭が並んでいる。
エリディオ王都の入り口は、戦の影すら寄せつけぬほど穏やかで、門前には慌ただしい兵士たちを他所にして、人々が緩やかに行き交っていた。
開かれた門の前に、端正な姿勢で立つひとりの男がいた。
第一王子ベクトール・エリディオは、漆黒の服に身を包み、深く頭を下げる。
「ミア様。長旅の疲れ、さぞかしお疲れのことと存じます」
馬上から軽く笑みをこぼすと、ミアは鞍を降りた。
「ベクトール様。今回の件、ご対応くださり感謝してもしきれません」
「とんでもない。ヴェルディナ王国は我が国にとっても大切な同盟国です。本来なら、このような事態を招くべきではありませんでした」
語調に滲む怒り。ミアは視線を伏せ小さく頷いた。
「……けれど、アルベルサの軍勢がエリディオ国にまで」




