ep.50
抜け殻だった。
隣にあるはずの温もりが、どこにもなかった。
ベッドの上で目を覚ましたミアは、まだ夢のなかにいるような気がしていた。けれど、部屋の静けさと、窓から差し込む眩しい光が、それを否定する。枕元に残る、微かな香りと熱。それは彼がここにいてくれた証だった。
温かい腕のなかで、確かに包まれていた。
くすぐる浅い吐息。このままずっと触れていたいと思った。
なのにどうして?
アワ——。
名を呼ぼうとした唇が震える。
思えば、この森にやって来るまでの道中。目を覚ませばいつも隣に彼がいた。ずっと側にいてくれた。
なのに、いない。
ミアは、はっとして身を起こした。
息継ぎを忘れていたみたいに、急いで空気を吸い込む。
視線が泳ぐ。窓。天井。扉。誰もいない。
「アワ……!」
思わず叫んでいた。布団を蹴飛ばして立ち上がる。
そのまま部屋を飛び出し、廊下を駆ける。
どうして、いないの?
昨日まで、いつも隣にいてくれたのに——。
家のなかを駆け回った。
名前を呼ぶたび、胸が苦しい。
——もしかして昨夜の出来事は夢? そう思うと裸足のまま外へ飛び出していた。
「アワー! アワー! どこなのー?」
辺りを見回しても人影はどこにもない。穏やかな森だけだ。もう足は駆け出していた。
「——ミア様⁈」
その時、声を上げたのはトンパンだった。ミアの切羽詰まった様子に驚きを隠せない。
「アワは……どこにいったの⁈」
息を切らし、ミアは縋るように尋ねる。
「ど、どうか落ち着いてくださいっ。坊ちゃんは——王都の王宮へと、向かわれました」
「……エリディオの?」
ミアの瞳が揺れた。
トンパンは頷きながら答えた。
「ヴェルディナの民を受け入れるためです。アルベルサがヴェルディナを制圧した後、次は間違いなくエリディオ。領国の王、バルドゥルの狙いは元より三国を手中に収めることですから」
聞いてミアは、徐々に落ち着きを取り戻した。
「そうなると、ミア様……」
ミアは遮るように囁いた。
「……ララポルト」
「はい。その通りでございます。ララポルトはエリディオに最も近い街です。アルベルサはここを軍事拠点として攻めてくるでしょう。ですから、エリディオ国はララポルトの民を迎え入れる準備を整え始めております」
急がなきゃ——戻らなきゃ。
その場で踵を返した。
心が身体を引っ張るようにして、身支度を整えに走る。
その直後、気づく。
動こうとした足に走る違和感。
立ち止まり、足元を見た。
「……え?」
目を疑う。
それは氷のように凍りついていたはずの両脚が、跡形もなく元通りになっていたからだ。
跳ねるようにトンパンの元へ駆け寄った。
「トンパン! 見て、見て! 私の足……治ってるわ!」
「これは……なんと、なんと素晴らしいことでしょう……!」
ミアは笑って、くるくると草の上を駆け出していた。飛び立つ蝶たちが、その動きに導かれるように舞い踊る。
「信じられない……! 私、走ってる……本当に、走ってるわ!」
トンパンもまた、目を細めてその姿を追った。彼女の声は、風に乗って遠くまで響いていく。
けれど、ミアの足はすぐに立ち止まる。
「こうしてはいられないわ。トンパン、馬を借りることはできる?」
頷きながらも、トンパンは不安そうだ。
「可能ではございますが……どちらへ行かれるおつもりで?」
「ララポルトよ。皆んなが心配だわ。何かせずにはいられない。じっとなんてしていられない!」
「何と! しかし、ミア様。道案内はおろか、道中の森は危険もございます。私がご一緒できればよいのですが……」
「平気よ、トンパン。すぐに支度をお願い」
その言葉に、トンパンはハッと息を飲む。
目の前の毅然と前を見据えるその姿に、王国の亡き王妃ローラの面影を重ねた。
「ありがとう、トンパン」
動きやすい服装に着替えた。ミアは腰のベルトを締め直しながら微笑んだ。
トンパンは荷を抱えて戻ってきた。
「こちらに食料と防寒具を入れておきました。地図もございます」
「本当に、何から何まで……ありがとう」
トンパンは手にしていた物をふと差し出す。一本の剣だった。
「しかし、ミア様。こちらの剣まで本当にお持ちになるので?」
「あら?」
するとミアは構わずそれを受け取って、けろっとした顔で軽く剣を捌いて見せる。
「エリディオ国の淑女は、剣も嗜めなくて?」
冗談めかした口調に、トンパンは仰天した。
「な、なんと……!」
「馬だって、アワより上手に乗りこなしてみせるわ!」
トンパンは驚きっぱなしだ。これが王国の姫、ミア・ヴェルディナ。
「我が国はいつでもミア様の味方でございます」
エリディオ国は、ローラに恩を感じていた。
「なにとぞご武運を——」
葉音が鳴った。言い終えるより早く、草木の揺れる気配がふたりの間を遮った。
トンパンが顔を上げた瞬間、目を見開いた。
木々の隙間から、白く輝くペガサスが姿を現したのだ。森の奥から迷いなく、まるで呼び寄せられたかのように、ミアの元へと真っ直ぐに歩み寄ってくる。
「まさか、幻獣が人に……」
唖然とするのも無理はなかった。幻獣が人間に懐くなどあり得ない。
ミアは一歩近づき、白銀の鬣に手を伸ばす。
そっと、その額に触れた。
「あなたも、協力してくれるの?」
ペガサスは穏やかに艶やかな翼を広げ、彼女の掌に触れる。その優しい眼差し。
「なんだか……アワみたいね」
思わず笑みがこぼれる。
「ミア様……まさか……?」
「当然よ」
そう言ってその白い毛並みに顔をうずめた。
もう、王国の王女を止める者はいない。
次の言葉でトンパンの笑いを誘う。
「でも……さすがに、手綱くらいは必要かしらね?」
緊張で張りつめていた空気がふっと緩んだ。
トンパンは思わず吹き出して、頭を下げるように笑った。
「まったく……おそれ入りました、ミア様」
ペガサスは悠然と大空を舞った。
眼下には、緑深いエレナの森がどこまでも広がっていた。
大きく羽ばたく翼の力強さに、ミアは歓喜の声を上げる。
「ベル! すごいわ!」
名はそう名付けた。
答えるように一度、高く鳴き声を上げベルは、更に高度を上げる。手綱を強く握りしめた。地上では感じたことのない風の圧が身体を押し付け、思わず目を閉じた。両脚でしっかりと胴を挟んでいないと、たちまち弾き飛ばされそうだ。
高鳴る鼓動に、ぞくぞくする高揚感。乱暴に視界を遮る髪すらも心地がいい。
ベルの背に身を預けながら、深く息を吸った。
数度の休憩を挟み雪がちらつき始める頃には、陽がすっかり傾いていた。
冷えた空気に焚き火の煙がまっすぐ立ち上る。森の木陰で火を起こし、分厚い獣皮の防寒具を羽織った。まだ悴む指先を擦り合わせながら、ミアは呟く。
「この調子なら……ララポルトまで、普段の馬より半刻は早く着きそうね」
パチ、と焚き火が弾け、瞳に赤い炎が揺れる。革袋から木の実を取り出し、少しばかり空腹を満たした。はやる気持ちを抑えるように、水を口に含む。
再びベルに跨ると、空はすっかり夜の顔になっていた。
星が瞬き、雲間から月が姿を見せている。
そのなか舞う雪。音もなく、静かに、ゆっくりと頬に触れる。
ひとつだけ、願いを胸に抱いた。
どうか、間に合いますように。
ミアは夜空を駆けていく。
ララポルトの街は業火に包まれ、すでに原型を留めていなかった。瓦礫と化した家屋のあちこちで火の手が上がった。赤く染まった煙が空を覆っていた。
雪が降り積もるなか、エリディオ国へと続く道は避難民であふれ、民は命からがら逃げ惑っていた。
アルベルサの兵が街に雪崩れ込んだのは、ほんの一刻前のことだ。
ミアに従う軍の一部が、火急の応戦に転じていた。
「急げ! ひとりでも多く外へ!」
「女と子供を先に、こっちだ!」
街路に怒号と悲鳴が入り混じった金切り声が飛び交う。
「パル! こっち、はやく!」
「ペト! しっかりと前を見なさい! 危ないわよ!」
そこにはケイトン一家の姿もあった。
「ペト、走れ! こっちだ、パル、クリナさんと一緒に——!」
老体に鞭を打ってケイトンが怒鳴るように叫ぶ。甲冑を身に付け、背中には弓を武装していた。
また誰かの声が上がる。
「そこ——危ないぞー!!」
逃げ遅れた子供を庇って、ペトが瓦礫に躓いてしまう。
ペトの目先。その声を追うように、崩れ落ちる焼けた家屋が迫ってきた。死んだと思った。
クリナの叫びが火花が散るなかで響き渡る。
「——ペトーーーッ!」




