ep.49
ミアの胸が、きゅうっと音を立てる。
思い出していた。
あの夜のこと。ララポルトの街で、満天の星々にふたりで想いを馳せた。そこで、いつか必ず一緒にダンスを踊ると、約束をした。
そして今、彼の気持ちが伝わってくる。涙が出そうなほど胸を締め付けられた。
けれども、ミアは堂々と一歩踏み出し、ゆっくりとスカートを広げるように両手を添える。その動きは、王国の王女として教えられた、正式な舞踏の礼。
「……喜んで、お相手させていただきますわ」
アワが微笑み、ふたりの距離が近づく。指先が重なった。
その刹那、星の海が揺蕩る。夢幻の光が水面を走る。
ふたりは、踊り出した。
足を踏み出すたびに、湖面が淡く波紋を描く。ふたりの影が、水に落ちた星と交錯し、緩やかに交差し合う。ドレスが水を払い、月明かりを反射させた。
アワの手の導きに合わせて、ミアがくるりと一回転すると、光が花のように弾けた。
空も、水も、鳥も、驚いて目を覚ました動物たちも——その全てが、ふたりの舞に引き込まれていく。
音楽はない。けれど、世界が歌っていた。
星が震え、湖面が囁く。
なびいたミアの髪をアワの動きがそれを包む。ふたりの間にあるのは、言葉では交わせなかった想いの全て。
その一歩、そのひとつの回転ごとに、何かが解けていった。
空は光に満ちていた。
つま先には月明かり。水面に浮かぶ星の海までもが、ふたりの舞踏に誘われるように、楽しげに踊り出していた。
「ねえ、アワ。あれは……何?」
踊り明かしたふたりは、仰向けになって浮かんでいた。
ミアは辺りを覆った泡の膜を眺めていた。天井の、大きく窪んだ箇所には水が溜まっていた。水を隔てた月と星空は、ゆらゆらしている。
「雨水ですよ。あの水溜りは、溜まりに溜まって限界を迎えたら、魔力の泡を突き破って落ちてきます」
ぎょっとして、上を見つめ直した。
「えっ……! 落ちてくる? え、ここは平気なの⁈」
今この場で、あんなにとてつもない量の水が降ってきたら、ふたり共ずぶ濡れになるどころの騒ぎじゃない。
それなのにアワは「どうでしょうね〜」と軽く笑うだけで他人事だ。
「そ、そんな、また悠長なことを言って!」
「まあ、その時はその時です」とアワはもう一度笑う。
頬を膨らませながら「もう知らない!」と言ってミアはくるりと体をひねって、再び宙に寝そべった。
しばらくその不思議な水溜りを見ることに。ぼんやりと揺れる藍色に、深海の底を見た。もし底から見上げた景色は、こんな感じなのだと思う。
「ねえ、この辺りを覆った泡みたいなものも、アワの魔法なの?」
「いえ、これはぼくの魔法とは関係ありません。この場所は何万年も前からずっと、そのままの形で残っていると伝わってます。この世界の始まりは、この湖から始まったとも」
「何万年……?」
とてつもない。それに、世界の始まりだなんて。考えたこともなかった。それが本当ならば、もしかして私たち人間もこの水から?
あまりに遠い時の響きに、ミアは思わず息を飲んだ。
隣のアワは気持ち良さそうに浮かんでいる。
穏やかなその横顔を見ていると、本当の彼は、ただこうして時に身を委ねるように、静かに過ごすのが好きなのかもしれない——
そう思った時、唐突に思い出した。
「ねえ、アワ。そう言えば……あなた、ベルナールってこと、ずっと黙ってたわね!」
声を強めると、アワはびくりと肩を揺らし「あ、それは、えっと……すみません」と眉を下げて、しょんぼりとする。
ミアにも、何か大事な理由があることくらい、もうとっくに気づいていた。
だからそれとなく「まあいいわ」と話を流した。
「それよりも……あなたとは十年前に会ってたなんて、何だか不思議ね」
「そうですね」とアワもまた目を細めて表情を緩めた。感慨深く。
春の陽射しが背中を撫でたあの時、アワは陽だまりのなかのミアに恋をした。
「あの日のこと、覚えてますか?」
「覚えてるわよ。言われてみると……アワは、あの時からあまり変わってないのね」
さらさらの黒髪とぱっちりした目が印象的だった。
「そうですかね?」
と言いながら、アワは思い返していた。あの日、耳に触れた陽の当たる声を。ミアは太陽のように明るく、周囲に元気や希望を与える存在だった。
「ミア様は、自分にたかってくる全ての虫を必死に瞬殺してましたけどね」
アワは笑いを誘ったが「それは、覚えてないわ」と、ミアはきっぱり否定した。
けれど次の瞬間、その顔に影が落ちた。
あの日、五人で誓った想い。平和とは……
「現況は程遠いわね」
アワにはその心の内が読み取れてしまう。気づいたら声にしていた。
「ミア様なら、きっと大丈夫です」
意味深な言葉だった。その真意はミアはわからない。
今は、明るい未来の話がしたい。今だけでも。アワはそう考えた。
「全てが終わったら、何がしたいですか?」
「終わったら?」思わぬ問いにミアは戸惑う。
「考えたこともないわ。アワは何かあるの?」
「全てが終わった後は、のんびりと暮らしたいですね。朝、目を覚まして誰に何を言われるのでもなく、その時の気分で、思いのままに、その時その時を過ごしたい」
「アワらしい、王子らしからぬ発言ね」
そのなかで、好きな人と一緒にいられたらそれだけでいい。アワは心の中でそう呟いていた。
「でも……呼び名がふたつあったとしても良くないですか? それぞれの人生を楽しむんです。むしろもっとたくさんあってもいい」
「おかしな人」
呆れて笑みをこぼしながらもミアも思うところがあった。自分も、もし別の名前に変われるのならば、今とは違う全く別の人生を歩んでみたい。
もし、いつか叶うのならば——毎日、好きな人と一緒にいられるだけで、私はもう十分だ。
その時、カサリと鳴った。
草木を掻き分ける音。向けた視線の先には、白くぼんやりと浮かぶシルエットがあった。木立の隙間に、一本の角が金色に輝いている。
驚きはなかった。幼い頃、夢のなかで幾度も見た、あの幻獣——ユニコーンだったから。
ただ夢のように見つめた。
夢でも見た一角獣を。
「……なんだか、眠くなってきたわ」
ミアがあくびをひとつ。
アワがその様子を見ながら、そっと目を伏せる。
夜が明けようとしていた。
この奇跡の時間が、終わりを迎えようとしている。
「ありがとう」
眠たい声。
「奇跡を三回、見せてくれて」
「……はい」
アワは、静かに微笑んだ。
帰り道、ミアはアワの腕の温もりに包まれながら、微睡に落ちていった。
楽しかった、と何度も胸のなかで繰り返しながら——。
藍色のなかで、ぼんやりとした光が縁どった、愛くるしいその横顔を、アワはずっと見ていた。




