ep.47
息を飲む気配の後ろで、アワは口元を綻ばせていた。灰色に荒んだ彼女の表情が、少しだけ色付いた。
自らの胸をぐっと掴んでアワは祈る。どうか——この笑みが、ずっと褪せないように、と。
「ここは……本当に、同じ世界なの?」
思わず呟いた問いに「安心してください。紛れもなく、ぼくたちは生きてます」と、アワが笑いを誘うように答え、ミアはふっと息を漏らして笑顔で応えた。
「ぼくの大好きな森です」
そこは、まるで別の次元で、この世のものとは思えなかった。
目に映る全ての色が異なる。見知らぬ葉の形に、聴いたことのない鳥の声。足元に咲く花の名すらわからない。
瑠璃青の幹がそびえる樹木の根元に、数頭の群れが音もなく現れる。鹿にも似た蔦のように枝分かれした角が生えている。
「あの動物は何て言うの?」
指を差すミアに、アワは小さく頷く。
「セリオレです。この森の守り神みたいなものですよ」
優美な体躯のセリオレは、月光の粒のようなものを蹄に宿していた。歩みごとにその身から微細な光が舞う。
「じゃあ、あれは?」
次いで、柔らかな草花が群れる茂みで、栗色の小動物が飛び跳ねた。乳白の露が滴る花に、複数の影が折り重なって唄い出す。鼻が詰まったような鳴き声と、気楽な態度が可笑しかった。
「コロナビです。精霊の使いとも呼ばれてます。彼らは植物の言葉を覚えているのですよ。それと花の名前は、セレスティンです」
アワは「ミア様の髪色と同じですね」と目で笑う。
虹の膜を思わせる羽根をばたつかせながら、コロナビたちは花の蜜を啜る。
「あと、浅い青緑色の植物は、ミエド草といいます」
歩みを進める足下には、花弁を光らせる、青と紫の花の絨毯に覆われていた。
やがて、小川のせせらぎが耳に届くと、アワはそっと指を唇に当てた。車椅子を木の幹の陰に寄せ、身を小さくして潜める。そして視線を向ける先を軽く顎で示した。
ミアも釣られるように身を低くして、その視線の先を見やった。
「え、何?」
アワは声を静めた。
「ペガサスです」
「え! ぺ、ペガサス?」
思わず声が大きくなりそうになるのを、アワが再び「しっ」と制した。
「声を上げないで。幻獣たちは、決して人間には近づきません」
小川の畔で前脚を浸す一頭。その生き物は、どこか神話の頁から抜け出たような気配を纏っていた。白銀の鬣に、細く引き締まった脚。それと、額から背にかけて滑らかな毛並みと大きな翼は、今にも羽ばたきそうだ。
ペガサスは水を飲んでいた。繊細に、水面を驚かせないように。
それは夢のように過ぎ去る。
顔を上げ、翼を半ば広げると、軽やかに助走を始め地を蹴る。次の瞬間、風がざわりと揺れた。羽ばたきと共に無数の花弁が宙に舞う。
そして気づけば、空の彼方へと消えていた。
ミアは目を輝かせる。
「すごいわ……アワ、ほんとうに……見た? 飛んだのよ、馬が! 翼を広げて、空へ!」
興奮気味に振り返る満面の笑みを「はいはい。見ました見ました」と、アワは子供を諭すように微笑んだ。
「ミア様は幸運です。ペガサスは数が少なく、ぼくも数えるほどしか見たことがないです」
陽の光に包まれた顔で、ミアは息を弾ませた。
「じゃあ、今のは、奇跡のひとつ、ってことね?」
「はい」
ミアは「あといくつ、奇跡が見られるかしら」と嬉しそうに目を細める。
この森は、それを想像させる。
車椅子が押されると、ミアは金色の髪をなびかせながら空を仰いだ。
「ほんと、不思議」
どこかで見たことがあるような、どこか懐かしい——そんな感覚があった。
澄みきった風が、花の香を運んでくる。
アワはしばし、微笑ましくその横顔を見つめた。以前、ふたりでスラティハールの屋敷の庭を散策した事を思い返していた。
あの時、彼女は初めて車椅子に乗って外へ出た。少し緊張した様子で。それでも森の木々や草花に触れるたび、少しずつ笑顔が戻っていった。
そして今もまた、彼女は同じように、季節の色に心を解いている。
「まだまだ、この森の魅力は序の口ですよ? これからです。あと三回は感動していただきます」
「三回も?」
笑みを深めてアワは、ひと呼吸置く。
「はい。できれば四回以上を目指したいところですけどね」
——時間が許す限り。
と、胸の内にだけ、その言葉を添えて。
ミアのお腹がぐうっと鳴った。
ふたりの目が合い、声を揃えたように笑いがこぼれる。
「では、そろそろ戻りましょうか」
アワは車椅子にあった手を握り直した。
木々の騒めきが、それに応えるように優しく揺れていた。
最後の晩餐は、それはまあ愉快で豪勢だった。
戻ると、窓辺にいたトンパンは飛び跳ねるようにして迎えに来た。
腕によりをかけたという高らかな宣言通り、食卓には、鍋の底からとろりと熱々の香りが立ち昇り、切り分けられた肉の表面は香ばしく、その艶やかな焼き上がりに食欲をそそる。
なかでも、豆をすりおろしたスープは絶品だった。スプーンで口に運べばすぐにわかる。とろとろの、濃厚なバターとチーズは、止まらないし、止められない。
籠に盛られた焼きたての丸いパンからは、ふんわりと花の甘い香りが漂った。
「……これ、もしかして、森で見かけた金色の花?」
さすがミア様です、とトンパンが胸を張る。
「セレスティンの蜜は、甘すぎず、ほのかにすっとする味になるのですよ」
さりげなくアワがちぎってくれたパンを、ありがとう、と口にすると、甘い芳香が鼻まで抜けた。
「さあさあ、お次はこれです!」
程なくして、トンパンが銀の皿を手にして現れた。
「スパイスを練り込んだ豆の揚げ団子、上には温めたセレスティン蜜をとろ〜り!」
「また蜜!」と笑うミアに、トンパンは得意げに鼻を鳴らす。
「今日は蜜尽くしでいきますよ! なんてったって、王女様の森デビュー記念日ですから!」
「そんな記念日あるの?」
思わず吹き出すと、トンパンは「今、わたしが作りました!」と胸を張り、ぐるぐると回り出した。
アワと顔を見合わせたミアは、また笑う。ひとつ笑えば、笑いがもうひとつ増える。食卓に、柔らかな愉快さが広がっていった。
今度は、トンパンがガラスポットを抱えて戻ってきた。お湯の湯気と一緒に甘やかな香りが鼻先をくすぐる。
「それからこれです! エリディオでは、特別な日にはこれと決まっております!」
ポットのなかで花の蕾が浮いていた。セレスティンの花を茶葉で包んだ工芸茶は、この国では伝統的なものなのだという。
ころん、と音がしそうに丸められた蕾が、お湯のなかで静かに開いた。黄金の花弁が、その姿を優雅に現した。
ころん、と音がしそうに丸められた蕾が、お湯のなかで静かに開いた。黄金の花弁が、その姿を優雅に現した。
「さあ、咲きました! いまが飲み頃!」
それはまるで小さな祝祭だった。
笑い声が、夜の帳に吸い込まれていく。
トンパンは終始陽気だ。何度も皿を運び、料理を称え、アワの幼少の頃を誇らしげに語った。
そこに、ふと湯気に紛れて視界に入った、アワの横顔。
何故だか、ミアは目が離せなかった。
そうして、楽しい時間は夢のように過ぎて。
「寒くないですか?」
「ええ。涼しくて気持ちがいいくらい」
ミアはアワの手を借りて、車椅子の背に身を預けた。夜の森は思ったよりも冷えるが、上に一枚羽織るだけで十分だ。服はトンパンが用意ドレスに着替えた。
動物たちの気配は遠い。眠りに落ちたような静けさが、辺りを包んでいた。足元を照らす月の光。虫の声は、海の波音のオルゴールのように染みてくる。耳奥に触れる音色を聴きながら、風を待っていた。
心なしか、鼓動が弾んでいた。それは車輪の振動を通して伝わってきた。自分だけではなく、アワも心から幸せなのなら嬉しい。
はたして、見せたいものとは何だろうか。




