ep.46
「お久しぶりでございますな〜。坊ちゃん」
手にしたランタンの灯りの元「いや、いやあ……」と、口元の豊かな髭が特徴的な男は、両手を大げさに広げ、まじまじとアワを見つめた。満面の笑みと親しみやすい表情から、人柄の良さがわかる。
「……坊ちゃん、よくぞご無事で。すっかりお変わりになって……! まるで別人ですなあ……」
目尻を押さえ、感極まったように涙まで潤ませている。
「トンパン、話は後だ」
アワの真剣な顔に、トンパンの背筋はすぐにぴんと伸びた。
この街は今、落ち着きがない。油断すればまた拘束されるかもしれない。急いで離れなくては。
「承知いたしました! 坊ちゃん、どうぞお乗りください!」
そう叫ぶやいなや、重たそうな体を見事に翻して、トンパンは運転台に飛び乗った。
エリディオ国までの道のりは平坦ではなかった。それでも月明かりを頼りに、山裾に広がる森を抜け、谷沿をひたすら馬車で走った。夜は長く、静寂は深い。
トンパンは強く握っていた手綱を緩める。
馬が足を止める。後ろの気配に、何か異変を感じ取ったのだ。
「坊ちゃん、いかがなされましたか?」
後ろを向いて声をかけると、すぐにアワの声が返ってきた。
「少し速度を落としてくれないか。……馬車が、揺れる」
「で、ですが……」
困ったトンパンは眉をひそめた。まだ、ヴェルディナ王国の領域内。追ってこそ来てないが、危険は拭えない。
アワの声色が変わる。
「わかってる。でも……ミア様の具合が悪いんだ」
ミアは肩で浅く呼吸し、額には玉のような汗が噴き出ていた。表情は、発熱のせいだけではない不安が見える。
かろうじて彼女の唇から言葉が漏れた。
「……お母様……お父様……」
切羽詰まった、幼子のような涙声。
「ぼくがついてます。安心して……眠ってください」
そっと手をかざし、魔法を施すと、ミアの呼吸は徐々に穏やかになり、瞼がゆっくりと閉じられていく。
ここ数日、ミアはろくに食べもせず、まともに眠る事さえできていなかった。
やがて、静かな寝息が夜の闇に沈んだ。
トンパンに向けて、もう一度だけ言った。
「お願いだ。……せめて熟睡するまでは、このままで」
一瞬の沈黙の後、トンパンはにこりとした。
「かしこまりました。坊ちゃんの仰せの通りに」
明けない夜はない。東の空に、白く淡い光が差した。ようやく国境は越えた。森の木の陰で馬を止め、ひと息だけ休む。
トンパンが荷から取り出した朝食は、干した豆と木の実、それから乾いたパンを少し。火を使用せず、音も匂いも極力立てないように気を配った。
ミアは憔悴しきっていた。
木の実をひとつだけ、かろうじて口にすると、アワに促されるまでもなく、再び彼の肩にもたれて眠りについた。
馬車はそのまま、目的地を目指した。
ララポルトを発って三日が過ぎ、山道を抜けて、川沿いの道へと入る。
穏やかに流れる水の音と、木々の間から差し込む光が揺れていた。雪の気配はなかった。地面にも白い痕跡はどこにもない。
また森を抜けて、ようやく見えた街並み。木々の合間から、遠くの方に映る。ここまでの道のりで更に三日を有した。
「……魔女の呪いの影響、なんでしょうか」
手綱を握るアワの隣で、トンパンが呟いた。
ミアの体調は依然として思わしくなかった。浅い眠りを繰り返し、顔色は冴えず、食事もほとんど喉を通していない。
「いや、気配はずっとない」
「となると、精神的な問題となりますな」
アワは静かに「そうなる」と答える。
「それに、氷の魔女がやれる事は、もう限られているしな」
その言葉の真意までは理解できなかったが、トンパンはそれ以上深くは問わず小さく頷いた。
「本当にこのまま、エレナの森へ入るので?」
アワの声は変わらなかった。
「ああ、かまわない。あの魔女も、きっとそれを望んでいるはずだから」
しばらく沈黙し、トンパンは前を向いたまま唇を引き結んだ。
「よくわかりませんが。坊ちゃんがそう仰るなら、お任せするまでですな」
トンパンが再び手綱を手にして一刻、馬を走らせると、やがて木々の密度が薄れ、空がひらけてくる。
エリディオ国の奥地に広がる、豊かな水と緑に包まれた静謐な土地。——エレナの森だ。
主要の街へは寄らず、普段の道は避け、迂回路の山道の獣道を選んでやってきた。
トンパンは大きな声を上げる。
「——御二方ー! もうしばらくの辛抱ですぞー!」
そして、森の奥深くに——それはあった。
「……ミア様。着きましたよ」
アワに呼ばれ、目を覚ましたミアは、まだ寝ぼけているのか一瞬、状況が呑み込めずにいた。
「ここは……どこ?」はっとして体を起こすと、突然取り乱し始めた。
「どこなの! ここはどこ? 早く私を帰して!」
怯えた様子に、アワは落ち着いた口調で語りかける。
「大丈夫です。恐れるような場所ではありません。……ほら、窓の外を見てください」
促されるまま、その視線の先には、鮮やかな緑の世界が広がっていた。柔らかく降り注ぐ木漏れ日に、草花が風に揺れて輝いていた。
「さあ、行きましょう」
アワは彼女をそっと抱き上げ、優しく告げる。
「ぼくの家です」
陽の光を背に、ゆっくりと地面に降り立つと、ふたりを歓迎するかのように、木々から数羽の小鳥が、囀りを奏でて飛び立った。
森にひっそりと佇む石造りの家。
外壁には蔦が這い、屋根は少し傾いている。けれど、扉も窓もきちんと保たれ、暮らしの気配を残していた。
それは不思議と人の温もりを感じさせた。
「ミア様、どうぞ。準備しておきました!」
先に家に入っていたトンパンが、車椅子を押して現れた。
「よろしければ、森を散策なさってください。きっと、気持ちも少しは晴れるでしょう」
アワが「いまから?」と問いかけると、トンパンは「いやまあ……」と頭をかいた。
「坊ちゃんから、要請の手紙を読んで、慌てて出てきたものでして。なにより、坊ちゃんが初めて淑女をお連れになったんです。このトンパン、張り切らずにはいられませんぞ!」
そう言って、トンパンはふたりを手で追い払うようにして笑った。
「さあさあ、お若いおふたりは行った行った!」
少し苦笑しながら、アワはミアの車椅子を押した。
見送る声が背中に届く。
「夕食にはお戻りくださいねー!」
ふたりの影が森の奥へと消えていくのを、トンパンはしばらく見送っていた。
やがて、ぽつりと独りごとのように声を落とした。
「……水の聖獣様は、今もそちらに?」
目にはテテポの姿は映っていない。ただ、何となく風に舞う存在が、近くにいるような気がした。
隣で、テテポも小さくなっていくふたりを見ていた。
「聖獣様。どうか、おふたりのことをよろしくお願いします」
「けっ」と、それに応えるように、テテポは鼻を鳴らす。
「相変わらず、暑苦しいおっさんだぜ」
その口ぶりとは裏腹に、どこか嬉しそうだった。テテポは音もなく森の影へと消えていく。
トンパンの耳には、ただ透き通るように澄んだ森の騒めきだけが残る。
散歩の道すがら、ミアは何も言わなかった。
鬱蒼と茂る深い森。その合間を縫って降り注ぐ淡い光はとても神秘的で、一瞬にして心奪われた。
まるで天の帳から垂れた細糸のように、幾筋もの靄を纏う光芒は、古の森床に吸い込まれていく。
ここが、エリディオ国。




