ep.44
聞き覚えのある、女の声だった。
そのひと言だけで、ミアは全てを悟った。何度も夢に出てきた、あの声。自分を痛めつけ、弄び続けたあの響き。
魔女だ。アナトリーも呪いに取り込まれている。
見下す虚な視線で、口がわずかに動いた。
「死ね。人間よ……」
剣が振り下ろされる、その時だ。
勢いよく大聖堂の扉が開き、差し込む光が氷の剣を照らし出した。
その刹那、清流の如き水の弾丸が、アナトリーの体ごと吹き飛ばす。
眩い光のなか、ミアは思わず目を見開いた。
光が差し込んだのだ。あの日、彼と初めて会った日と同じように。宙に散る煌めく水滴が、頬にひと雫触れた。
あの光景が浮かび上がる。
アワが魔法で窓を壊し、暗い部屋に差し込んだ陽の光を。
「な、なんじゃ貴様はっ!」
ずぶ濡れの老害の叫び。ヴォルフは顔を真っ赤にして後ずさる。
「貴様には関係ないじゃろう! 辺境の魔術師ごときが邪魔をするでない。今、王国全土を揺るがす裁きが下されるとこなんじゃ——!」
アワは老害に目もくれない。そのまま歩みを止めず、ただ宣言した。
「——我は、エリディオ国、第二王子ベルナール・エリディオである!」
その放たれた名は、大聖堂の空気を一変させた。
「三国の盟約を破り、無実の者に剣を向けるなど——そのような暴挙、見逃す道理はない!」
列席していた王侯たちが騒めく。誰かが「まさか……」と呟いた。
顔を歪めるヴォルフ。「死んだはずの王子が、こんなところに……そんなはずがあるかっ!」
ここでようやく、アワはヴォルフを見据えた。
「老臣風情が、口を慎め」
それだけを言い捨てて、再び前を向いた。
立ち上がったアナトリーが、氷の剣を構えている。
「おのれ……ベルナール。また、わらわの邪魔をするか……」
魔女の意志そのままに、次の一撃を放とうとしていた。
「全ての者に告げる——」
アワは声を高めた。
「ここから先は戦場となる。命を惜しむ者は、すぐに退くんだ!」
アナトリーの一閃。
一太刀、斬り伏せるように剣を振り抜くと氷の斬撃が襲う。アワは手を前にかざして氷の盾を生み出し、迎え撃った。
激突。
砕けた氷が飛び散り、堂内の壁を深く削る。
その惨劇に悲鳴を上げる王侯貴族たちは、一目散に扉の外に逃げ場を求めた。
ゆっくりと近づいたアワは、ミアの肩にそっと手を置いた。
驚いた表情のまま、彼女は言葉を失っている。
「ど、どうして……ここに?」
ようやく絞り出した震える声を耳にしただけで、彼女がどれだけ辛い思いをしたのかが伝わってきた。
「ベルナール? あなたはベルナールだったの?」
突然の事でミアは混乱していた。洗練された見違えるほど整ったアワの服装のせいもある。
けど、次の言葉で腑に落ちる。
「言ったでしょう?」
彼は微笑んだ。いつもと変わらない雰囲気を装って続ける。
「ピンチの時は、いつだって駆けつけるって」
いつもの笑みだ。それは紛れもなくアワだった。
ほんの少しだけ、ほっとした顔を浮かべたミアの体が、車椅子ごと水の泡に包まれる。
「すぐに、片づけます。しばらく待っててください」
前方を見たその顔に、もう笑みはなかった。
アナトリーは執拗に剣を振るい、繰り返される氷の斬撃は、天井を裂き、床を抉り、そびえ立つ柱をも削っていく。ミアを後ろにして、アワは一撃ごとに氷の魔法をぶつけて打ち消していく。
気づけば、辺りは音もなく崩れ落ちていく瓦礫の残響だけが耳につく。
「こざかしいやつめ……」
魔女の声でアナトリーは言う。
「アワ様!」
別の声だった。崩れかけた扉の方から飛び込んできた。
「私もミア様の隊の者です。——どうかお力を!」
城まで案内してくれたポールが駆け込んできた。腰に据えた剣が、彼の覚悟を揺るぎないものとしていた。
アワの肩にのしかかっていた荷が、ほんの少し軽くなった。ミアを背にしたままでは本気を出せなかった。
首だけをわずかに後ろへ向けて告げる。
「ミア様を」
「いや……嫌よ!」
ミアがかぶりを振った。怯えた瞳で、アワを見上げる。
「もう……あなたと、離れたくないわ!」
ゆっくりと膝を折ってアワは視線を合わせた。彼女の潤む目蓋の裏に、そっと言葉を置く。
「大丈夫です」
ほんの少しだけ、笑ってみせた。
「今度こそ、約束します。必ず、あなたを呪いから解放します」
ポールが駆け寄り、車椅子の柄を握った。
「ミア様、こちらへ! ここは危険です。とにかく外へ!」
そのまま一目散に扉へ向かったふたりは怒鳴られる。
「待たんかァ!」
枯れた怒声が、逃げ惑う足音に割って入った。
壊れた長椅子の裏に、ヴォルフはいた。あまりの恐怖で身を隠していたくせに、弱い者には強気な態度をとる、なんとも情けない老害だ。
「また貴様の悪だくみじゃろ⁈ 毎度毎度、邪魔ばかりしおって——このこざかしい小娘が!」
その姿は見るに堪えなかった。服は砂と埃にまみれ、髪は鳥の巣のように乱れていた。もはや、かつての威厳など地面の塵ほどの価値もない。
怒りに任せた容赦ない蹴りがミアに向けて振るわれた。しかしその足は、彼女を保護する水の魔法の膜にぽわんと弾かれる。
「ぬおっ⁈」
勢いのままに後ろへ飛ばされたヴォルフは、そのまま尻餅をついた。
「危ない!」
アワがそう叫んだ時には、もう遅かった。
氷の斬撃をアワが迎え撃ったその余波が、背後の柱を直撃した。柱が鈍い音を立てて崩れ落ちる。
石の粉が舞い上がり、「た、たす……」ヴォルフの声は、落下した瓦礫の轟音に掻き消された。
それはあれほど粘着質だった老害の、あまりにあっけない最期だった。
堂内には濛々と白い煙が立ち込めた。
ミアたちの駆ける音がなくなってから、アワは大きく息を吸って吐いた。
「もう、終わりにしよう」
言葉は確信を衝いていた。魔女と魔法を交わすうち、その水のなかの記憶をぼんやりと見ていた。そこには、怒りと憎しみに溺れる前の彼女がいた。
「君は、この物質世界では本来の力を発揮できない。だから人間の体を使うのだろう?」
「くっ……」対峙するアナトリーの顔が、わずかに引きつる。
「何が言いたいんじゃ?」
剣を構え直した彼に、アワは首を振った。
「遊びは終わりだと言ってるんだ。こんなことを続けたところで結末は同じなんだろう?」
「まさか、お前は……」
魔女の声が震える。
「わらわの記憶を、覗き見たのか?」
アワは小さく笑った。
「図星か」
アナトリーの目に、怒りの色が濃く差し始めた。その感情に交差した恥じらいは、魔女が初めて見せた人間らしさでもあった。
「わらわは神じゃ! 神に逆らう愚か者が!」
また激高して剣を振りかぶる。一瞬で空気が張り詰め、氷の気配が怒涛のように押し寄せる。
アワは右手を天へと掲げた。
「清流の龍よ。天を巡り、地を満たし、穢れを払わん。我が声、風に乗り、すべてを潤し、我が力、光を裂き、邪悪を流し去れ」
虚空に、水の門が静かに浮かび上がる。
その奥から現れる青白い光を纏った水流。うねる水は螺旋を描き、やがて龍の姿を成す。
長大な尾と双角を備えた化身は、迫り来る氷の魔法を呑み込みながら、そのままアナトリーもろとも水のなかへ閉じ込めた。




