ep.43
「即座に刑を……?」
王国の姫に対して、それはあまりに異例だった。
「前代未聞です。城内の騎士団すら口を閉ざしているようです。おそらく領国側の相当な焦りがあるのかと」
バルドゥル・マーフォリア。
領国の主が、ついに動き出した。いうまでもない、狙いはただひとつ、王国の王座。
「王都の仲間たちが心配です。陛下の安否さえ……いえ、それももう——」
ポールの視線が窓の外へと流れた。言葉の先を語ることはなかった。
城の正門へ着くと、馬車を降りたアワは、迷うことなく降り積もった雪に足跡を残していく。吹雪まじりの空は、これから訪れる陰鬱な未来を映し出していた。
「——アワ様!」
ポールの叫び声。
「どうか、ミア様をお救いください!」
一瞬だけ振り向いたアワの笑みを見届けてから、ポールは乗り出していた身を引き、手綱を無言で握り直すと、馬車は走り去った。
急ぎ足でアワの後ろをついていくテテポは、思わず声をかける。
「やっぱ、その格好。様になってるぜ〜」
からかうような声に、アワは一瞥もくれない。
「茶化すな、テテポ。今のぼくは機嫌が悪い」
ここへ来る際、アロスの命でヘッラが用意したその装いは、夜空を切り取ったかのような深い青の生地に、星屑を散りばめた金糸が美しく輝いていた。裾の長いコートは歩くたびに優雅な弧を描き、目にした者は疑いなく、彼を上級階級の人間と見なすだろう。
古びた鋼鉄の門の前には衛兵がふたりいた。一歩踏み出すやいなや、怒号が響いた。
「止まれ! 何者だ!」
躊躇なく雪を踏み締める音と、慌てふためくふたりの声が重なる。
「——な、何だ、貴様はっ! 止まらぬか!」
その向けられた銃口と引き金の金属音は、静寂をたちまち狂気に染めた。
「おい、アワ……」
テテポが心配な面持ちだ。怒ったアワは何をしでかすか全く読めない。それが一番怖かった。
でも遅かった。
そんな心配は、この男には問答無用だった。
「下がってろ、テテポ」
もう、詠唱は済んでいた。
かざした手のひらに風が巻き込み、唸る轟音と共に水の気配が集まり始めていた。膨れ上がる魔法は、あっという間に形を成し、門前を覆い尽くすほどの奔流となる。
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火が灯っていた。
集う者たちは、その熱を頼りに息をひそめていた。
アギア大聖堂は、歴史と信仰の中心。王族とごく一部の貴族しか立ち入れぬ、神聖な場である。
静けさに満ちた堂内を、車椅子が音を立てながら進む。
ミアの背を押す領国の兵は、何も語らず、ただ彼女を神の御前へと導いていく。
王国の姫が、領国の地で裁きを——
この異様さに、憐れみを持つ者、冷笑を浮かべる者、またある者は次なる計算を企んでいた。
一部の騒めきと共に、視線が一斉にミアへと注がれた。
大聖堂の高みに並ぶ、神と始祖王の契約が描かれたステンドグラス。そこから差し込む七色の光が、ミアの凍った脚を照らしていた。その脚には、もはやアワの魔法の気配はなく、優しく包んでいた水の膜は、知らぬ間に消えていた。
剥き出しになった脚は凍りついたまま、異形の彫像のようだった。
「……悪魔の子だ」
誰かが呟いた。
だが、その声も、視線も、ミアには届いていない。全身を預けた体は、もはや自分の重さすら感じない。車椅子に座りながら、遠い日の光景を思い浮かべていた。
十年前、王都の陽の下で弾ませた笑い声。まだ幼い王子と王女たち、五人が初めて顔を合わせたあの日。
ヴェルディナ、アルベルサ、エリディオ。三国が初めて国交を結んだ記念の日。
王宮の広場には、春の日差しが降り注ぎ、どこまでも空が澄んでいた。花の咲く中庭で、声をあげて笑い合いながら輪になって遊んだ。
ふと、現実に引き戻された。
天を衝くように、そびえ立つ神像の前に立っていた。
アナトリー。
名を心の内で呟いた時、胸の奥で震えた。
神の光を背負った彼の輪郭は、あまりにも遠かった。風に髪を揺らして笑っていた少年は、どこにもいない。
その双眸は氷のように冷たく、もう何も宿っていなかった。それは生気を失った、死んだ魚のようにも見えた。
あの日、平和を誓ったはずの五人のうち、残ったのはもはや三人しかいない。
そして今日、この場で、ひとりが消える。
ミアはわかっていた。
この後、残されたふたりが辿る未来を。希望などないことを。
隣へと歩み寄るヴォルフの裁きを促す声に、アナトリーは無言で一礼し応じた。
ゆっくりと一歩前に出ると、石の壇上で姿勢を正し、空気を裂くような声で告げた。
「ヴェルディナ王国王女、ミア・ヴェルディナ! 貴女の行いについて、神の御前において断罪を下す!」
大聖堂に漂う空気が、しんとひと筋の線となって張り詰めるなか、領国の王子は淡々と、あたかも記録を読み上げるかのように言葉を並べた。
「第一に。民衆を欺き、王家の威光を私物化し、不正な交渉により列強間の紛争を扇動した罪。第二に。アルベルサ領国の鉱山労働者を扇動し、交易路の安全を脅かした罪。第三に。魔術師を欺き、国境を越えて非合法な治療行為を行わせた罪。第四に。アルベルサ領国、ジナイーダ・マーフォリア王女に対し、毒をもって命を奪わんとした大罪」
領国の姫の名が大きく響いた瞬間、堂内にひときわ大きなどよめきが起きた。皆で息を呑み、顔を見合わせる。
アナトリーは静かに視線を落とすと、最後の言葉を告げた。
「よって、神の御前において裁く。ミア・ヴェルディナ。死をもって罪を償うべし!」
ひときわ大きな息が波のように広がる。重い沈黙のなか、誰かが椅子を引く音が鳴り、また誰かが声を上げかけて言葉を詰まらせる。
その時だ——
外で何かが砕けるような、とてつもない大きな音が聞こえてきた。
石を削るような衝撃音。大聖堂の天井に吊るされた灯火が揺れ、燭火の影が壁を這うように踊った。
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門前に漂う白い煙と、滴る水。
ふたりの衛兵は倒れ込むようにして地面に尻をついていた。顔は蒼白、唇がわなないている。
撃った。間違いなく撃ったはずなのに、何も届かなかった。
男の手から放たれた水の魔法は、銃弾を呑み込み、そのまま門を城壁ごと粉砕した。
男が近づいてくる。
容赦なく打ち付けた奔流の水によって、辺りの雪は一気に溶け、石畳が水に沈んでいた。泥濘に踏み込んだ靴音が水を弾くたびに水飛沫が舞う。
衛兵のふたりは、飛び散った破片で肩や脇腹に浅く傷を刻んでいた。
アワはただ問う。
「アギア大聖堂は?」
兵のひとりが指を震わせながら、道の先を示した。
それを見たアワは「テテポ」と、ひと言だけ残して大聖堂を目指した。
もう全てを言わずとも伝わっていた。
テテポは血を流す兵の手当てを始めながら小さく悪態をついた。おい、あいつ。あと、どれだけの兵をおれに治療させる気だ?
視線の向こうのアワは、水の魔法をぶっ放し続けていた。次々に迫る武装した兵をものともせず、一直線に進んでいく。
真っ白だったはずの景色が見る影もない。それはまるで、大波に洗われた跡だった
あいつ、まさか──城ひとつ落とすつもりじゃねえだろうな……。
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大聖堂に響き渡る轟音に、皆が顔を見合わせて騒然としていた。
ヴォルフもまた、声を張り上げるひとりだった。
「落ち着かれよ! 皆の者。これは神聖な場であるぞ!」
秩序を保とうとするが、この場の動揺は、収まる兆しすらなかった。
「どけ」
静かな声。だが、その声音とは裏腹に、アナトリーの伸ばされた手の一振りで、ヴォルフは押し飛ばされて床に転がった。
ゆっくりとミアの前に立ち、剣を大きく振りかぶる男には、アナトリーの人格など影すら見えなかった。無感情の氷の瞳が、冷たくミアを見下ろす。
「ミア姫……。わらわが、しまつしてやろう」




